第2話『偽造の情動』 ~Section 6:情動の違和感と、繊維の解剖~
情動の視座を自らの意思で完全に遮断する。胸の奥に残る老婆への共感も、泥臭い愛への愛おしさも、すべてを分厚い鉄の扉の向こう側へと封じ込めた。
木陰のコンクリートブロックに腰掛けた瑠璃は、再び冷徹な鑑定士へと立ち返り、右手に握った銀のルーペを靴下の表面へと密着させた。
老婆の愛の痕跡として感動したばかりの不揃いな網目を、今度は一切の感情を排し、ミクロの物理的視点で極限まで解剖し始める。
(まずは、この毛糸そのものの物理的な材質じゃ)
レンズ越しに拡大された、若草色の繊維の世界。
瑠璃は、毛糸を構成している一本一本の微細な繊維の表面、動物性繊維特有のキューティクルの状態を丹念に観察した。
人間が手で編み物をする際、毛糸は必ず指先や編み棒との間に物理的な摩擦を生じる。特に、目が悪く手先が不器用な老婆が編んだのであれば、何度も編み直したり、糸を強く引きすぎたり、あるいは力任せに結び目を作ったりして、繊維の表面には無数の微細なダメージが蓄積されるはずだ。
さらに、人間の皮膚から分泌される微量な皮脂、汗の結晶、古い角質といった生体由来のノイズが、長時間の作業の中で必ず毛糸の繊維の間に擦り込まれ、絡みついている。
(おかしい。キューティクルの摩擦による毛羽立ちが、まったく存在しない)
瑠璃は息を呑んだ。
ルーペの奥に見えるミクロの繊維は、まるでたった今、完全な無菌室の紡績工場から出荷されたばかりであるかのように、一切の物理的ダメージを受けていなかった。
人間の指先で何度も擦られた形跡もなければ、編み直すために糸を解いた際に生じる特有の縮れも皆無だ。人間の皮脂も、古い角質の欠片も、それどころか旧市街の空気中に漂っているはずの生活の埃すら、繊維の奥には一切入り込んでいないのだ。
これは、人間の手が直接触れて長い時間をかけて編み上げたモノの物理的特徴と、根本から完全に矛盾している。
(では、毛糸の染料はどうじゃ)
瑠璃は視点を切り替え、光の反射率から若草色の染料の浸透具合を観察した。
旧市街の古い手芸店で老婆が手に入れるような一般的な毛糸であれば、染料の定着には必ず微細なムラがある。製造ロットごとの色のブレや、保管状況によるわずかな退色も避けられない。
しかし、この靴下の繊維は、分子レベルで完璧に均一な若草色に染め上げられていた。
新市街の巨大な化学プラントで、完全な環境制御下において精密に配合・着色された、最高純度の工業用染料の痕跡だ。
(人間の手が一切触れた形跡がない。染料は新市街の最高級工業規格。ならば、わしがさっき情動の視座で読み取った、あの不格好な網目のエラーは一体何じゃというのだ)
瑠璃の背筋を、旧市街の三十五度を超える猛暑を完全に忘れさせるほどの、鋭く冷たい戦慄が駆け下りていく。
彼女はルーペを持ったまま、靴下の表面にある最大の物理的エラー、すなわち網目が飛んでしまったドロップステッチと、糸のテンションが狂って不均一になった箇所を、順番に追いかけ始めた。
不器用な老婆のミスだと思い込んでいたその痕跡を、今度は純粋な数学的データの座標として脳内で精密にマッピングしていく。
(網目が不自然にきつく締まり、テンションが狂っている箇所。一番下の段から、正確に位置を割り出す。一段目の、左から二番目の目。次は三番目の目。次は五番目。次は七番目。そして十一番目、十三番目、十七番目、十九番目)
瑠璃は手編みの靴下を裏返し、さらに上の段のエラー箇所を数え続けた。
二十三、二十九、三十一、三十七、四十一、四十三、四十七。
(馬鹿な。そんなことがあり得るはずがない)
軍手をはめた瑠璃の手が、微かに震え始めた。
数え上げたエラーの配置座標。それは、人間の疲労や老眼、不注意から生じるランダムで不規則なバラつきでは決してなかったのだ。
二、三、五、七、十一、十三、十七、十九、二十三、二十九、三十一、三十七、四十一、四十三、四十七。
(素数じゃ)
瑠璃の脳内に、冷徹な数式が幾何学的な模様を描いて浮かび上がる。
一とその数自身でしか割り切れない、数学の根幹を成す孤独な数字の配列。
この靴下の表面にある糸のテンションの狂いは、すべて網目の座標を単純な数値に変換した際、完全に素数の位置にだけ正確に配置されていたのだ。
それだけではない。瑠璃はさらに視線を凝らし、今度は完全に網目が抜け落ちて生地が引きつれているドロップステッチの位置を一つ残らず数え上げた。
(ドロップステッチの配置座標は、二、三、五、八、十三、二十一、三十四、五十五。これはフィボナッチ数列じゃ。先行する二つの数の和が次の数になる、自然界の螺旋構造や黄金比を形作る絶対的な数学的法則)
目が悪くなった老婆が、編み棒を使って一生懸命に編んだ結果生じた、愛すべき不器用なミス。
違う。断じて違う。
そんなものは最初から、この世のどこにも存在しなかったのだ。
人間が疲労や老眼でミスを犯すとき、そこには必ず法則性のない不規則なノイズが生じる。手編みの途中で偶然、何百という網目の中から素数とフィボナッチ数列の座標のみを寸分違わず選び出し、ピンポイントでテンションを狂わせ、網目を落とすなどという現象は、天文学的な確率計算を用いても絶対に起こり得ない。
(この不格好なエラーは、偶然の産物ではない。高度な数学的アルゴリズムによって、あらかじめどの座標でエラーを起こすか、どの位置で網目を落とすかが、最初から最後まで完全にプログラムされていたのじゃ)
瑠璃の瞳孔が限界まで収縮する。
足首の折り返し部分にある、途切れた糸を強引に結んだ無骨な結び目。あれも、老婆が手探りで必死に結んだ愛の痕跡などではない。単に、素数とフィボナッチ数列の交差点となる特定の座標において、意図的に糸を切断し、指定された体積の結び目を作るようにプログラミングされた、冷徹な物理的出力結果に過ぎなかったのだ。
人間の手が一切触れられていない、摩擦のない無菌状態の繊維。
新市街のプラントで生成された完璧な染料。
そして、素数とフィボナッチ数列という絶対的な数学的法則に従って、ミリ単位の狂いもなく配置された、不器用さの偽装。
すべての物理的な証拠が、一つの恐るべき真実を冷酷に告げていた。
ファントムは、この旧市街の泥臭い街角に、心温まる老婆の情愛の結晶など用意していなかったのだ。
奴は、瑠璃が情動の視座で読み取るであろう人間の不器用さと愛という概念を、すべて事前に冷徹な論理で解剖し、計算し尽くした。
そして、新市街の最新鋭のAI自動編み機と三Dモデリング技術を駆使して、人間の手作りの温もりすらも数学的に完璧に偽造してみせたのである。
(ファントム。お前はただの密室トリックを仕掛けたのではない。人間の泥臭い情動すらも、数字とアルゴリズムで制御可能なデータに過ぎないと、わしに突きつけてきたのじゃな)
蜩の鳴き声が、遠く、現実感のないノイズのように遠ざかっていく。
木陰のわずかな涼しさすらも消え失せ、瑠璃の体温が急速に奪われていくような錯覚に陥った。
情動の視座が読み取った切実な愛は、すべて虚構だった。ファントムの計算通りに、瑠璃の心が勝手に踊らされていただけだったのだ。
山内かえでが遺した、極上の不純物こそが生きた証であるという神聖な教えが、冷徹な数式と機械仕掛けの偽造品によって、真っ向から蹂躙され、あざ笑われている。
銀のルーペを持つ瑠璃の真っ白な手袋が、わななきを抑えきれずに小さく震えた。
孤独な鑑定士は、幻影が仕掛けた真の悪意、概念的洞察力と冷徹な論理がもたらす絶望の淵に、ついに立たされたのである。




