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第5巻:如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『偽造の情動』 ~Section 5:不揃いな結び目と、老婆の幻影~

 巨大な一枚ガラスを電話ボックスのフレームから完全に引き抜き、コンクリートの基礎に立てかけた直後。

 瑠璃はふと、自身の視界の端がわずかに白く明滅していることに気がついた。

 呼吸が浅く、心臓の鼓動が普段よりも不規則に早くなっている。首筋から背中にかけて、サマーワンピースの下を滝のような汗が流れ落ちていた。


(いかん。物理的な解体作業に集中しすぎた。このまま直射日光の下に立ち続ければ、脳の冷却機能が限界を超え、熱射病か日射病で中枢神経に致命的なダメージを負う。情動の視座を展開するには、脳のシナプスを極めてクリアな状態に保たねばならぬというのに)


 瑠璃は即座に己の肉体の限界を論理的に計算し、作業の一次中断を決断した。

 いくら出発前に最高級の日焼け止めを念入りに塗布してきたとはいえ、月見坂市旧市街の八月の暴力的な紫外線は、コンツェルンの令嬢の透き通るような白い肌を容赦なく焼き焦がそうとしている。ここで倒れてしまっては、ファントムとの知恵比べに敗北する以前の問題だ。


 瑠璃はボックスの中から若草色の手編みの靴下だけを素早く掴み取ると、空き地の端にそびえ立つ、巨大な老木の木陰へと足早に避難した。

 鬱蒼と茂る緑の葉が直射日光を遮り、周囲の温度が数度下がったのが肌で感じられる。瑠璃は木陰にある手頃なコンクリートブロックの上にハンカチを敷いて腰を下ろし、真っ白な軍手を一度外した。

 そしてポシェットから、保冷機能に優れた銀色の小さなマイボトルを取り出す。中には、氷を浮かべた冷たい硬水がたっぷりと入っていた。瑠璃はボトルの口に唇を当て、冷たい水を喉の奥へとゆっくりと流し込む。


(ふぅ。危ないところじゃった。人間の肉体は、どれほど優れた頭脳を持っていようとも、熱力学の法則の前には極めて脆弱にできている。ファントムの奴は、わしが熱気で思考力を奪われることすらも盤面の計算に入れていたのかもしれんな)


 冷たい水が食道を通って胃へと落ちていく感覚と共に、急速に乱れていた自律神経が落ち着きを取り戻していく。

 ハンカチで額と首筋の汗を優しく押さえるように拭き取り、深く、静かな呼吸を三度繰り返す。

 視界の明滅は完全に消え去り、脳内の熱が引いて、思考の海が再び氷のように冷たく澄み渡っていくのが分かった。体調のパラメーターは正常値に回復した。


 瑠璃は再び真っ白な軍手を両手にはめ直し、膝の上に置いた若草色の手編みの靴下を、両手でそっと持ち上げた。

 ここから先は、論理と物理の領域ではない。人間の心の奥底、哀れで切実な愛の形を読み解く、情動の視座の領域だ。

 物理的観察眼が、事象の表面を削り取って冷徹な事実を暴き出すメスであるならば。情動の視座は、対象の心臓の鼓動に自らの脈拍を重ね合わせ、その痛みを分かち合うための包容力である。唯一の片割れであった皐月優奈が、己の命と引き換えにして瑠璃の魂に遺してくれた、絶対的な共感の力。


 瑠璃は目を閉じ、木陰の生ぬるい風を感じながら、自らの意識を目の前にある靴下の繊維の奥深くまで沈み込ませていった。

 軍手越しに伝わってくる、毛糸のふわりとした柔らかい感触。

 再び目を開き、瑠璃は靴下の表面を覆う編み目の群れを、今度はルーペを使わずに、肉眼の広い視野でじっくりと観察し始めた。


(新市街のAIが管理する自動編み機が出力する工業製品は、すべての網目がミリ単位の狂いもなく均一に並んでおる。糸の張力は常に一定に保たれ、ほつれや結び目などという不純物は製造工程で完全に排除される。しかし、この靴下は違う。見事なまでに不均一で、不格好じゃ)


 瑠璃の視線が、靴下の踵の部分に集中する。

 そこには、毛糸を引く力加減、すなわちテンションが一定でないために生じた、網目の大きさの露骨なバラつきがあった。ある部分はきつく締まりすぎて生地が硬くなり、すぐ隣の部分は糸が緩んで隙間が空いている。

 さらに視線を足の甲の部分へと移動させると、そこには決定的なエラーが存在していた。


(ドロップステッチ。編み棒から糸が外れ、網目が一つ飛んでしまっている箇所じゃ。そのまま強引に編み進めたせいで、周囲の生地が不自然に引きつれておる。そして足首の折り返し部分には、途中で毛糸が切れたのか、あるいは別の毛糸を継ぎ足したのか、大きな結び目が無骨に飛び出しているな)


 売り物であれば、間違いなく不良品として廃棄されるレベルの代物だ。

 しかし、瑠璃の情動の視座は、これらの物理的なエラーを単なる失敗とは捉えなかった。

 不揃いなテンション。ドロップステッチ。無骨な結び目。それらの情報の羅列が、瑠璃の脳内で一人の人間の生々しい姿へと結像していく。


(この靴下を編んだのは、決して編み物に長けたプロフェッショナルではない。そして、新市街の洗練された若い人間でもない。指先の細やかなコントロールが利かず、長時間の作業で手の震えを抑えきれなかった人間の手によるものじゃ)


 瑠璃の脳裏に、薄暗い部屋の中で、小さな明かりを頼りに編み棒を動かす一人の老婆の姿が浮かび上がった。

 その目は白内障か老眼で白く濁り、手元の毛糸の輪郭すらぼんやりとしか見えていない。だからこそ、網目が飛んでしまったことにも気づかず、あるいは気づいても老眼で修正することができず、そのまま不格好に編み進めるしかなかったのだ。


(なぜ、これほどまでに不自由な体で、この老婆は靴下を編み続けたのじゃろうか。金のためではない。見栄のためでもない。もっと切実で、泥臭い、どうしようもない感情のうねりが、この毛糸の繊維一本一本に染み付いておる)


 老婆の震える指先が、不格好な結び目を作る。

 その情景を幻視した瞬間、瑠璃の胸の奥底が、きゅうっと締め付けられるような痛みを覚えた。

 それは、優奈が教えてくれた他者の痛みへの共鳴だった。


(これは愛じゃ。この老婆は、愛する孫のためにこの靴下を編んだのじゃ。寒い冬が来る前に、まだ小さな孫の足が冷えないように。自分が生きて、この手で何かを作り出せるうちに、自分の温もりを形にして残しておきたかったのじゃ)


 不揃いな網目の一つ一つに、『暖かくあれ』『健やかであれ』という、言葉にならない祈りが込められている。

 毛糸が切れてしまった時にできた無骨な結び目は、決して雑な作業の結果ではない。目が見えない中で、震える指先を必死に動かし、手探りで二つの毛糸を固く、絶対に解けないように結び合わせた執念の痕跡なのだ。

 美しい均一さなど、この靴下には必要ない。この不格好な結び目と、引きつれたドロップステッチこそが、老婆が己の命と時間を削って孫を愛したという、何よりの生きた証なのだから。


(おばあちゃん。あなたが言っていた通りじゃ。新市街の冷たい大人たちがゴミとして切り捨てるような、不器用で、歪で、見放されたモノ。じゃが、その不純物の中にこそ、魂を震わせるような極上の愛が詰まっておる。この靴下は、おばあちゃんが愛した泥臭いルーツそのものじゃ)


 瑠璃は、手編みの靴下をそっと自分の胸に抱き寄せた。

 老婆の幻影が、十一年前の夏に出会った、あの山内かえでの姿と完全に重なり合う。

 白濁した目で宙を見つめながら、不純物こそが生きた証なのだと、幼い瑠璃に最期の祈りを託した恩人の姿。

 ファントムは、この旧市街という舞台に、瑠璃の魂のルーツを最も直接的に揺さぶるモノを用意したのだ。物理的観察眼で完全密室を解体させ、次に情動の視座でこの圧倒的な愛の痕跡を読み取らせる。


(ファントム。お前がどこからこの靴下を見つけ出し、あの赤錆の密室に配置したのかは分からぬ。じゃが、お前の用意したこの不純物は本物じゃ。わしの胸の奥を、これほどまでに激しく打ち据えるのだから。お前の悪辣な挑戦は、確かにわしの情動の核を貫いたぞ)


 夏の風が、老木の葉をざわざわと揺らした。

 木陰の静寂の中で、瑠璃はしばらくの間、目を閉じて老婆の愛の残響に浸っていた。

 相手は概念的洞察力を操る怪物だ。だが、この靴下に込められた泥臭い情動だけは、決して論理や計算で作り出せるものではない。人間の温かい血が通った、絶対的な真実だ。瑠璃はそう確信していた。


 しかし。

 その絶対的な確信の裏側で、極限まで研ぎ澄まされた瑠璃の直感が、警報のサイレンのように微かな、しかし無視できない違和感のノイズを鳴らし始めていた。


(待て。何かがおかしい。何かが、決定的に狂っておる)


 瑠璃はゆっくりと目を開き、胸に抱き寄せていた靴下を再び膝の上に降ろした。

 紫の瞳から、共感の温もりがすっと消え失せ、代わりに氷のような理知の光が再び鋭く灯る。

 情動の視座が読み取った老婆の愛は、完璧だった。完璧すぎたのだ。

 山内かえでの教えを体現するかのような、あまりにも絵に描いたような見事な不純物。


(ファントムは、概念的洞察力と冷徹な論理の極致じゃ。人間の精神を解剖し、事実をもっとも残酷な形で突きつけてくる怪物。その怪物が、ただ単に心温まる老婆の情愛の結晶を、この盤面に素直に配置するじゃろうか)


 瑠璃は再びポシェットから銀のルーペを取り出した。

 情動の視座を一旦完全に遮断し、再び物理的観察眼という冷徹なメスを握り直す。

 老婆の愛の痕跡として感動したばかりのその不揃いな網目を、今度は一切の感情を排して、極限のミクロの視点で解剖し始める。

 そして、孤独な鑑定士は、幻影が仕掛けた真の罠の入り口へと、足を踏み入れることになったのである。



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