表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第5巻:如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/50

第2話『偽造の情動』 ~Section 4:硬化剤の痕跡と、引き抜かれた硝子~

 正面の折りたたみ式の扉は、完全に赤錆で癒着し、太いチェーンと南京錠によって物理的に封鎖されている。地下の配線パイプは劣化した樹脂で塞がれ、屋根の隙間には長年の堆積物とクモの巣が手付かずのまま残されている。

 上下左右、考え得るすべての侵入経路を完全に否定された赤錆の密室。

 しかし、瑠璃の紫の瞳は、この電話ボックスを構成しているもっとも広大な面積を持つ部分、すなわち『ガラスの壁』そのものへと真っ直ぐに向けられていた。


(扉が開かないのであれば、壁を取り外すしかない。極めて単純な物理の原則じゃ。この電話ボックスは、四方を囲む鉄のフレームに、巨大な分厚い一枚ガラスをはめ込む構造になっておる。そして、そのガラスと鉄のフレームの隙間を埋め、雨風の侵入を防いでいるのが、この黒いゴムパッキンじゃ)


 瑠璃は右手に握りしめた銀のルーペを構え、ボックスの側面に回った。

 夏の強烈な太陽が容赦なく背中を焼き、サマーワンピースの下でじわりと汗が滲む。けたたましい蜩の鳴き声が空き地に反響しているが、瑠璃の思考の海は完璧な静寂に包まれていた。

 軍手をはめた左手の指先で、ガラスの縁をぐるりと囲むゴムパッキンをそっと撫でる。

 本来は弾力のある黒いゴム素材だが、何年もの間、紫外線と風雨に晒され続けた結果、表面は白く退色し、無数の細かいひび割れが走っている。指で押しても弾力は全くなく、石のようにカチカチに硬化していた。


 瑠璃はボックスの右側面、背面、そして左側面と、ルーペのレンズを数ミリ単位で動かしながら、三面あるガラスのゴムパッキンの状態を順番に、そして極めて執拗に観察していった。

 一見すると、どの面も同じように経年劣化し、完全に硬化しているように見える。素人の目には、何年もの間、誰の手も触れられていない自然の風化の証拠として映るだろう。

 だが、如月瑠璃の物理的観察眼は、自然界が作り出すランダムな不条理と、人間が意図的に作り出した人工的な規則性の違いを絶対に見逃さない。


(右側面と背面のゴムパッキン。これは間違いなく、自然の紫外線による経年劣化じゃ。太陽の光が当たる角度によって紫外線の照射量が変わるため、ひび割れの深さや方向が完全にランダムで不規則になっておる。さらに、ひび割れの奥深くには、鉄のフレームから流れ落ちた赤茶色の錆の粉末が、長年の雨水と一緒に染み込み、ゴムの組織と完全に一体化している)


 瑠璃は最後に、空き地の夏草が最も深く生い茂り、外の路地からは完全に死角になる『左側面』のガラスの前で立ち止まった。

 ルーペのピントを合わせ、そのガラスを固定しているゴムパッキンを覗き込む。


(じゃが、この左側面のガラスのパッキンだけは違う。一見すると他の面と同じように白く退色し、ひび割れてカチカチに硬化しているように見えるが、不自然な点が三つある)


 瑠璃の脳内で、ファントムが仕掛けた偽装の痕跡が次々と論理的に解体されていく。


(一つ目。ひび割れのパターンが均一すぎる。自然の紫外線劣化であれば、ゴムの厚みやテンションの違いによって亀裂の入り方にムラができるはずじゃ。しかし、このパッキンのひび割れは、まるで細かいメッシュのように規則正しく表面全体を覆っている。これは長年の日照によるものではなく、急激な化学変化による急速な体積の収縮を示しておる)


 瑠璃は軍手の指先でパッキンのひび割れを軽く擦り、鼻を近づけた。

 圧倒的な鉄の錆の匂いと、ボックス内から漏れ出す金木犀の香りに隠れて、ほんのわずかに、鼻の奥を突くような揮発性の化学溶剤の匂いが残っている。


(二つ目。ひび割れの奥に、錆の粉末が染み込んでいない。表面には周囲の錆の粉がまぶされているが、亀裂の奥深くの断面は、ゴム本来の黒々とした色を保っておる。つまり、このひび割れは長年の風雨の中で徐々に形成されたものではなく、つい最近、一瞬にして人工的に作り出されたものということじゃ)


 そして瑠璃は、ルーペをパッキンの端、鉄のフレームとの境目の部分へとスライドさせた。


(三つ目。接着の境界線じゃ。パッキンとガラス、パッキンと鉄のフレームの間に、肉眼では見えないほどの極薄の透明な皮膜が形成されている。これは、強力な工業用の硬化剤と接着剤の混合液じゃな)


 すべての物理的な証拠が揃った。

 完全な密閉空間に見えたこの赤錆の電話ボックスの、唯一の侵入経路。そして、ファントムがどのような手順で、ありえないものをこの内部に配置したのか。その手口の全貌が、瑠璃の脳内で完璧な映像となって再生される。


(ファントム。お前はこの左側面のガラスを固定していた古いゴムパッキンを、特殊な溶剤でドロドロに溶かして完全に除去した。そして、ガラスの表面に工業用の強力な吸盤である真空リフターを貼り付け、この何十キロもある巨大な一枚ガラスを、音も立てずに手作業で手前に引き抜いたのじゃ。ガラスが一枚外れれば、そこには大人が上半身を入れられるだけの巨大な空間の穴がぽっかりと開く)


 その巨大な穴からボックスの内部へと手を伸ばし、ステンレスの台座に積もった何年分もの埃を綺麗に拭き取る。そして、持参した真新しい子供用の手編みの靴下と、沸騰した湯で淹れた紅茶の入ったティーカップを配置する。


(配置が終われば、吸盤で保持していた重いガラスを再び鉄のフレームにはめ込み、隙間に真新しいゴムパッキンを押し込む。そして仕上げに、特殊な化学薬品、強力な硬化剤と白化剤を混合したスプレーをパッキンの表面に吹き付けた。薬品による急激な化学反応でゴムの成分を急速に劣化、収縮させ、一瞬にしてひび割れだらけのカチカチの石のように硬化させたのじゃ。あとは周囲に落ちている錆の粉を擦り込めば、何年もの間、ただの一度も外されていない風化したパッキンの完璧な偽装が完成するというわけじゃ)


 物理法則と化学反応を完全に支配し、時間の経過すらも薬品で偽造する。

 人間の認知の盲点を突き、自然の風化という結果だけを論理的に出力してみせたのだ。

 やはり、ファントムの持つ能力は底知れない。現場の環境を完璧にマッピングし、最適な薬品を調合し、一切の物音を立てずに巨大なガラスを引き抜く技術と度胸。並大抵の人間では、どれほど時間をかけても絶対に不可能な作業だ。


(見事な手際じゃ。わしの物理的観察眼がなければ、警察の鑑識ですら、このパッキンが昨日偽装されたものだとは気づかずに、完全な密室だと錯覚したじゃろうな。じゃが、化学的な偽装は、物理的な強度の欠落という致命的な弱点を生む)


 瑠璃はルーペをポシェットにしまい、代わりに一本の細長い工具を取り出した。

 それは、アンティーク家具の鑑定や修復の際に使用する、先端が平たく鋭利になった薄刃の金属製スパチュラだった。

 瑠璃は軍手をはめた手でスパチュラをしっかりと握り、薬品によってカチカチに硬化している左側面のゴムパッキンの隙間へと、迷うことなくその先端を突き立てた。


 本来の自然劣化であれば、ゴムの芯の部分にはまだ粘りが残っており、工具を突き立てても容易には剥がれない。

 しかし、ファントムが吹き付けた強力な硬化剤は、ゴムの分子構造そのものを破壊し、極端に脆くさせているはずだ。

 瑠璃がスパチュラの柄に少しだけ力を込めると、予想通り、石のように硬化していたパッキンは、まるで乾燥したビスケットのようにパキパキと音を立てて砕け散った。


(やはりな。急激な化学変化による硬化は、素材の粘り強さを完全に殺す。表面の見た目だけを完璧に偽装した、脆く空虚なまやかしじゃ)


 瑠璃はスパチュラを巧みに操り、ガラスの四方を囲む偽装されたパッキンを次々と削り落としていく。

 削り落とされた硬化したゴムの破片が、足元の夏草の上にパラパラと落ちていく。額から流れ落ちる汗を拭うこともせず、瑠璃はひたすらに解体作業を進めた。

 数分の作業で、左側面のガラスを固定していたパッキンはすべて除去された。鉄のフレームとガラスの間に、数ミリの隙間が生まれる。

 これで、ガラスを固定している物理的な枷はすべて外れた。


 瑠璃はスパチュラをポシェットに戻し、分厚い軍手をはめた両の手のひらを、ガラスの表面にしっかりと押し当てた。

 自分の体重をガラスに預け、摩擦力を最大限に利用して、ゆっくりと、しかし力強く両手を自分の方へと引く。

 ギギギッ、という金属とガラスが擦れる鈍い音が空き地に響く。

 長年フレームに押し込まれていた分厚い一枚ガラスが、パッキンという支えを失ったことで、瑠璃の引く力に従って徐々にフレームからずり出てくる。


 「ふっ……」


 瑠璃は短く息を吐き、最後の一押しでガラスを完全に鉄のフレームから引き抜いた。

 何十キロもある重いガラス板が傾き、瑠璃の華奢な体へと倒れ込んでくる。瑠璃は軍手越しに伝わるその圧倒的な質量を必死に支えながら、慎重にガラスの底辺を地面の夏草の上へと着地させた。そして、ガラスを電話ボックスの隣にあるコンクリートの基礎の残骸に立てかける。


 完了だ。

 何重にも巻かれたチェーンや、錆びついた南京錠には一切指一本触れることなく。

 物理的な観察眼と化学の知識だけで、見えざる敵が創り上げた難攻不落の赤錆の密室は、見事に、そして完全に解体されたのである。


 ガラスが外れ、ぽっかりと開いたボックスの側面。

 そこから、長年密閉されていた内部の澱んだ空気と熱気が、一気に外へと流れ出してきた。

 古い鉄の匂い。埃の匂い。そして、それを覆い隠すように濃厚に漂う、あの人工的な金木犀の香りと、淹れたての紅茶が放つ芳醇なベルガモットの香り。

 それは間違いなく、ファントムという存在がこの場所に実在し、瑠璃を待ち受けていたという強烈な痕跡だった。


 瑠璃は乱れた前髪を軍手の甲で軽く払い、開け放たれたボックスの内部へと真っ直ぐに視線を向けた。

 すぐ手の届く場所に、錆びついたステンレスの台座がある。

 その台座の上、不自然なほど綺麗に拭き取られた円形のスペースに、琥珀色の紅茶が入ったティーカップと、真新しい若草色の手編みの靴下が静かに鎮座している。


(密室の物理的解体は終わった。偽装されたパッキンのルーツは暴いたぞ、ファントム。じゃが、これはあくまで手段の解明に過ぎぬ)


 瑠璃はボックスの中にゆっくりと右手を差し入れた。

 そして、ステンレスの台座の上に置かれている、不器用な編み目の目立つ、子供用の手編みの靴下をそっと持ち上げる。

 軍手越しにも伝わってくる、ふわりとした毛糸の柔らかい感触。


(お前がなぜ、わざわざおばあちゃんの教えが眠るこの場所を第二幕の舞台に選び、そして、この不格好な手編みの靴下を配置したのか。この靴下に込められた情動のルーツ。それこそが、お前がわしに突きつけてきた真の謎じゃな)


 圧倒的な労力と化学の知識を用いて創り上げられた密室は、ただの舞台装置に過ぎない。

 ファントムが本当に瑠璃に見せつけたかった刃は、この靴下に込められたメッセージの中にある。

 瑠璃は手編みの靴下を目の高さに持ち上げ、太陽の光に透かしてその不揃いな編み目を見つめた。

 ここから先は、論理と物理の領域ではない。人間の心の奥底、哀れで切実な愛の形を読み解く、情動の視座の領域だ。


 孤高の鑑定士の物理的観察眼は完璧な勝利を収めた。

 そして次なる戦場は、瑠璃の魂の最も柔らかく、不可侵な聖域へと移っていく。

 夏の強烈な日差しの中、瑠璃は深く静かな呼吸を繰り返し、自らの内面へと潜行していくための準備を整え始めた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ