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第5巻:如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『偽造の情動』 ~Section 3:熱力学の挑発と、密室の解体~

 うだるような旧市街の熱気の中、赤く錆びついた公衆電話ボックスのガラスの向こう側で、琥珀色の液体からか細い湯気がゆらゆらと立ち昇っている。

 瑠璃は分厚いガラスに顔を近づけ、その白い湯気の揺らぎをじっと見つめた。アンティーク調のボーンチャイナのティーカップに注がれた紅茶。そこから漂う人工的な金木犀の香りが、ボックスの劣化したゴムパッキンのわずかな隙間から、夏の生ぬるい風に混じって瑠璃の鼻腔を微かにくすぐる。


(またしても、見え透いた熱力学の挑発じゃな。ファントム)


 瑠璃の紫の瞳が、冷ややかな理知の光を帯びて細められた。

 今日の月見坂市旧市街の気温は、優に三十五度を超えている。しかし、ボックスという密閉空間の中とはいえ、沸騰した湯で淹れられた紅茶が、これほどはっきりと湯気を立てている状態を保てる時間は限られている。


(わしが本邸の自室で手紙を見つけ、日傘を差して旧市街の路地を抜け、この再開発から取り残された空き地に辿り着き、夏草を掻き分けてこのガラスの前に立つまでの正確な時間。お前はそれを秒単位で予測し、この紅茶が完全に冷めきってしまう直前に、この完全密室の中に湯気を立てるティーカップをセットしてみせた。橡ノ都の観覧車での録音タイマーと同じ、概念的洞察力と冷徹な論理によるわしの行動の完全な先読みじゃ)


 姿は見えずとも、奴は確実に数十分前までこの場所に実在し、作業を行っていた。

 瑠璃という人間がどのルートを通り、どのような思考速度でこの場所に到達するかを完全に把握した上で、まるでチェスの駒を配置するように、靴下と紅茶をこの錆びついた箱の中に置き去りにしていったのだ。

 自分と同じ目を持った天才からの、これ以上ないほど強烈で悪辣な宣戦布告。


(面白い。お前がどのような完璧な錯覚を仕掛けようとも、物質である以上、そこには必ず人間の手が介入した物理的な矛盾が存在する。わしがその嘘を根こそぎ解体し、ルーツを暴き出してやる)


 瑠璃は右手に握りしめた銀のルーペを目の高さに構えた。

 ここから先は、孤高の鑑定士が誇る絶対的な武器、物理的観察眼の領域である。

 瑠璃は真っ白な軍手をはめた左手で、電話ボックスの正面にある折りたたみ式の扉の縁にそっと触れた。そして、ルーペのレンズ越しに、その金属の接合部をミリ単位の解像度で観察し始める。


 第一の関門は、この扉を封鎖している巨大な物理的障壁だ。

 扉の取っ手と、ボックスの強固な鉄の支柱を繋ぐようにして、恐ろしく太い鉄のチェーンがぐるぐると何重にも巻き付けられている。そして、そのチェーンの両端を繋ぎ止めているのが、大人の拳ほどもある巨大な真鍮製の南京錠だ。

 瑠璃はルーペを南京錠の鍵穴へと近づけた。


(鍵穴の内部には、長年の風雨で固着した泥と細かい砂粒、そして赤錆がびっしりと詰まっておる。ピッキングツールはおろか、正規の鍵すら物理的に差し込むことが不可能な状態じゃ。さらに、U字型のシャックル部分と本体の接合部)


 瑠璃の視線が、南京錠の可動部へと移動する。

 そこもまた、金属同士が完全に酸化し、赤茶色の錆の層が一体化して癒着していた。潤滑油を差して無理やりこじ開けたような摩擦痕や、真新しい金属の削りカスは一切存在しない。


(ならば、チェーンそのものを切断した可能性はどうか)


 瑠璃はボックスの支柱に巻き付けられた鉄のチェーンを、一節一節、舐めるようにルーペで確認していく。

 分厚い鉄の輪は、どれも表面が激しく酸化し、触れ合う部分の錆が完全に結合している。巨大なボルトカッターで切断した痕跡もなければ、超高温のガスバーナーで焼き切って再び溶接し直したような熱変色の痕跡もない。錆の進行具合はすべて均一であり、ここ数日の間に人為的な破壊と修復が行われたという物理的な矛盾はどこにも見当たらなかった。


(正面の扉からの侵入は、物理的に百パーセントあり得ぬ。このチェーンと南京錠は、間違いなく何年もの間、ただの一度も外されていない)


 瑠璃は一つ目の仮説を冷徹に破棄し、電話ボックスの側面へと移動した。

 正面扉が開かないのであれば、別の経路を探るしかない。ボックスという構造物は、完全に密閉された立方体ではない。内部に熱がこもるのを防ぐための通気口や、電話線を外部から引き込むための配線用の隙間が必ず存在するはずだ。


 瑠璃はボックスの土台、コンクリートの基礎と鉄のフレームが接している足元へと視線を落とした。

 ボックスの下部には、かつて地下から電話線を引き込んでいたであろう直径数センチの配線パイプの跡がある。しかし、そのパイプの入り口は、分厚い鉄板と強固なシーリング材によって完全に塞がれていた。


(シーリング材の表面には、細かいひび割れが無数に走っておる。紫外線による経年劣化じゃ。最近になってこれを剥がし、再び塞ぎ直したような新しい樹脂の痕跡はない。それに、いくら子供用の靴下とはいえ、この数センチのパイプの隙間から、あのボーンチャイナのティーカップと紅茶を、一滴もこぼさずに内部へ送り込むことなど不可能じゃ)


 地下からの侵入経路も完全に否定された。

 瑠璃は立ち上がり、今度はボックスの屋根部分へと視線を向けた。

 公衆電話ボックスの屋根は、四方のガラスの壁の上に乗る形で固定されている。換気のためのわずかな隙間があるはずだが、瑠璃は背伸びをしてルーペを掲げ、その隙間の状態を丹念に観察した。


(屋根の金属パネルとガラスの接合部。そこには、数え切れないほどのクモの巣が張り巡らされ、枯れ葉や砂埃が分厚い層を作って堆積しておる)


 もしファントムが屋根のパネルを持ち上げ、上から靴下と紅茶を吊り下げるようにして内部に配置したのだとすれば、この分厚い埃の層は必ず乱れ、クモの巣はちぎれているはずだ。

 しかし、ルーペ越しに見える屋根の隙間の風景は、何年もの間、誰の手も触れられずに放置されてきた自然の静寂そのものだった。

 上からの侵入も、物理的に完全にあり得ない。


 正面の扉、地下の配線口、屋根の隙間。

 考え得るすべての侵入経路が、瑠璃の冷徹な物理的観察眼によって一つ残らず潰されていく。

 これは、単なる手品のトリックではない。手口が巧妙なだけの不可能犯罪でもない。

 ファントムは、月見坂市の旧市街という日常の風景の中に、物理法則を完全に無視したかのような、完璧で異様な赤錆の密室を創り上げたのだ。


 蜩の鳴き声が、空き地の熱気の中で一層激しさを増す。

 汗が瑠璃の白い頬を伝い、首筋へと落ちていく。しかし、彼女の口元には、かすかな、しかし確かな笑みが浮かんでいた。

 絶望ではない。すべての可能性が否定されたことで、彼女の思考はより鋭く、より冷たく研ぎ澄まされていく。


(扉が開かない。上下からの侵入も不可能。空間転移のような非科学的なファンタジーを否定するならば、残された経路はただ一つしかない)


 瑠璃はボックスの正面に戻り、汚れたガラスの向こう側に置かれたティーカップを再び見据えた。

 内部のステンレスの台座。その表面には、長年の埃が分厚く積もっている。しかし、真新しい靴下とティーカップが置かれているその周囲数十センチの円形の部分だけが、埃が払われ、不自然なほど綺麗に拭き取られていた。

 ファントムは、間違いなく外部から内部へと物理的に干渉し、その場所の埃を拭き取り、モノを配置したのだ。


(扉でも、屋根でも、床下でもない。ならば、ファントムが侵入経路として利用したのは、このボックスを構成しているもっとも広大な面積を持つ部分。すなわち、この分厚いガラスの壁そのものじゃ)


 瑠璃の紫の瞳が、ボックスの四方を囲む巨大なガラス板の縁、それを鉄のフレームに固定している黒いゴムパッキンへと鋭く向けられた。

 強固な鉄の檻に囚われた、偽造された情動。

 孤独な鑑定士の物理的観察眼は、密室の外部の可能性をすべて焼き尽くし、ついにファントムが仕掛けた悪辣なトリックの核心部分へとその照準を合わせたのである。



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