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第5巻:如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『偽造の情動』 ~Section 2:極上の不純物と、赤錆の密室~

 月見坂市の旧市街を歩く瑠璃の耳に、けたたましい(ひぐらし)の鳴き声が降り注いでいた。

 黒い日傘を差していても、足元のアスファルトから容赦なく照り返してくる熱気はどうにもならない。新市街の完璧な気流制御システムの中だけで生きてきたコンツェルンの令嬢にとって、この泥臭い街のむき出しの気候は、立っているだけで体力を削り取っていく過酷な環境だった。

 しかし、瑠璃の足取りに少しの乱れもない。真っ直ぐに見据えたアメジストの瞳には、かつてないほどの鋭い理知の光が宿っていた。


(一見ゴミに見えるような不純物にも、すべて物語がある。誰かを愛し、守りたかったからこそ生まれてしまった歪な凹み。それこそが、この不条理な世界で確かに生きた証なんじゃよ)


 熱波に揺れる路地の風景を見つめながら、瑠璃の脳裏に、優しくしわがれた声が短くフラッシュバックする。

 十一年前。五歳の夏に迷い込んだこの街で出会った、盲目の老婆の言葉。

 おばあちゃんが教えてくれた、娘のために必死に走った父親の、壊れた懐中時計のルーツ。無価値なガラクタだと切り捨てていたモノの中に、どれほど切実で温かい人間の情動が隠されているかを教えられたあの日の衝撃が、瑠璃の物理的観察眼のすべての始まりだった。


(おばあちゃん。わしは今でも、あの教えを魂の底に刻み込んでおるよ。新市街の冷たい大人たちがゴミとして切り捨てるような、汚れ、歪んだ不純物。それらが生きた証であることを証明し、最期まで声を聴き届ける。それが、わしの鑑定士としての絶対的な誇りじゃ)


 歩きながら、瑠璃は己の原点であるその誓いを、改めて胸に強く刻み直した。

 ファントムからの指定座標は、この旧市街の奥深くにある。奴は瑠璃の過去のルーツを完全に解剖し、おばあちゃんの教えが眠るこの街を第二幕の舞台に選んだ。そして、わざわざ『君の原点で待つ』というメッセージを残した。

 それは間違いなく、瑠璃が信じてきた極上の不純物という概念そのものを逆手に取り、情動の視座を激しく揺さぶるための残酷な盤面を用意しているという明確な意思表示だった。


(望むところじゃ。お前がその冷徹な論理でどのような完璧な錯覚を創り出そうとも、わしがその嘘を根こそぎ解体してやる。モノに宿る本物の生きた証がどのようなものか、お前のその傲慢な概念的洞察力とやらに、骨の髄まで叩き込んでやる)


 迷路のように入り組んだ細い路地を抜け、瑠璃はついにファントムが指定した座標へと辿り着いた。

 そこは、旧市街の端に位置する、再開発計画から完全に取り残された広大な空き地だった。

 かつては町工場でも建っていたのか、ところどころにコンクリートの基礎の残骸が剥き出しになっており、その周囲を大人の腰の高さまである夏草が我が物顔で生い茂っている。周囲には人っ子一人おらず、ただ蜩の鳴き声と、時折吹き抜ける生ぬるい風が草を揺らす音だけが響いていた。


 瑠璃は日傘を高く掲げ、空き地の中央へと視線を向けた。

 緑の海の中に、周囲の風景から完全に孤立した異物がぽつんと立っている。

 赤く錆びついた、旧式の公衆電話ボックスだった。


 新市街ではとうの昔に撤去され、スマートデバイスが完全に普及したこの月見坂市において、もはや化石と呼ぶべき過去の遺物だ。なぜこのような空き地の真ん中に、撤去もされずに放置されているのか。それ自体がすでに強烈な違和感を放っている。

 瑠璃は日傘を閉じ、それを無造作に足元の夏草の上に放り投げた。ポシェットから真っ白な軍手を取り出し、両手に丁寧にはめる。そして、銀のルーペを右手にしっかりと握りしめ、夏草を掻き分けながらその電話ボックスへと真っ直ぐに歩み寄った。


 近づくにつれ、そのボックスがどれほど長い年月、この場所に放置されてきたかが物理的な情報として瑠璃の目に飛び込んでくる。

 四方を囲むガラスは、長年の雨風と砂埃によってひどく汚れ、もはや半透明の曇りガラスのように変色している。フレームの赤い塗装は大部分が日焼けで退色し、まるで乾いた瘡蓋のようにひび割れて剥げ落ちていた。露出した鉄の下地には、赤茶色の深い錆がびっしりと繁殖し、金属の表面を完全に侵食している。


 何より異様なのは、その入り口となる折りたたみ式の扉の部分だった。

 扉の蝶番は赤錆の塊と化しており、金属同士が完全に癒着している。それだけではない。扉の取っ手と、ボックスの強固な鉄の支柱を繋ぐようにして、恐ろしく太い鉄のチェーンがぐるぐると何重にも巻き付けられていたのだ。

 チェーンの輪の一つ一つもまた、長い年月の風雨に晒されたことで表面が激しく酸化し、隣り合う金属同士が錆で結合してしまっている。そして、そのチェーンの両端を繋ぎ止めている巨大な南京錠は、鍵穴の中にまで泥と錆が固着しており、もはや物理的に鍵を差し込むことすら不可能な状態に陥っていた。


 瑠璃は銀のルーペを構え、チェーンと南京錠の接合部をミリ単位で観察した。


(チェーンの錆の層に、人工的に破壊された痕跡は一切ない。南京錠のU字型のシャックル部分も、本体との隙間が完全に錆で埋まって癒着しておる。扉の蝶番に至っては、金属組織が一体化するほど酸化が進行している。力任せに壊した形跡も、バーナーで焼き切って溶接し直した痕跡もない)


 瑠璃の冷徹な物理的観察眼が、ただ一つの絶対的な事実を導き出した。

 この電話ボックスは、誰がどう見ても、何年もの間一度も開けられた形跡のない完全な密閉空間である。チェーンを切断するか、ボックスそのものを重機で破壊でもしない限り、内部に立ち入ることは絶対に不可能なのだ。


 しかし、瑠璃の紫の瞳は、泥と埃で汚れきったガラスの向こう側に置かれているありえないものを、すでにはっきりと捉えていた。


 瑠璃は軍手をはめた手で、曇ったガラスの表面を少しだけ強く擦り、視界を確保した。

 錆びつき、受話器のコードも千切れかけた無惨な公衆電話の台座。

 その平らなステンレスの台の上に、周囲のひどい汚れや錆とは全く無縁の、極めて場違いなモノが二つ、ちょこんと揃えて置かれていたのだ。


 一つは、真新しい子供用の手編みの靴下だった。

 鮮やかな若草色の毛糸で編まれたそれは、機械による大量生産品のような均一な美しさを持っていなかった。網目の大きさが所々で不揃いになり、糸の引きつれや、少し不格好な結び目が表面にいくつも見て取れる。

 それはまさに、手先の不器用な人間が、誰かを想って一編み一編み、不器用ながらも一生懸命に時間をかけて手作りしたような、強烈な情動のルーツを感じさせるモノだった。新市街のAIが弾き出す完璧な規格品とは真逆の、おばあちゃんが愛した泥臭い不純物の結晶そのもの。


 そして、その手編みの靴下のすぐ隣。

 金色の繊細な装飾が施された、アンティーク調の美しいボーンチャイナのティーカップが置かれていた。

 カップの中には、琥珀色に透き通った紅茶がたっぷりと注がれており、液面からはゆらゆらと細く白い湯気が立ち昇っている。電話ボックスのガラスを固定するゴムパッキンの、ほんのわずかなひび割れの隙間から、あの人工的な金木犀の香りが、熱を帯びた生ぬるい空気と共に瑠璃の鼻腔を微かにくすぐった。


(完全な物理的密室空間に、真新しい手編みの靴下と、淹れたての温かい紅茶じゃと。ふん、相変わらず大した労力をかけるものじゃ)


 瑠璃はガラスから顔を離し、赤錆に覆われた電話ボックスをぐるりと見渡した。

 ファントムは、今回もまた熱力学の法則を完璧に計算して瑠璃を待ち受けていたのだ。

 瑠璃が本邸の自室で手紙を見つけ、日傘を差して旧市街の路地を抜け、この再開発から取り残された空き地に辿り着き、夏草を掻き分けてこのガラスの前に立つまでの正確な時間。

 そのすべての所要時間を秒単位で予測し、紅茶が完全に冷めきってしまう前に、この完全密室の中に湯気を立てるティーカップをセットしてみせたのだ。


橡ノ都(つるばみのきょう)での観覧車(ゴンドラ)は、熱力学の冷却時間を利用して録音音声のタイマーを起動させた。そして今回は、この温かい紅茶そのものが、わしが到着する直前までファントムがこの場所に実在し、作業を行っていたという強烈な痕跡の提示じゃ。姿は見えずとも、奴は確実にそこにいた。わしの行動を完全に先読みしてな)


 背筋にぞくりと冷たいものが走る。

 だが、瑠璃の瞳に恐怖はなかった。あるのは、自分と同じ知性を持つ巨大な敵の論理を、真っ向から叩き潰してやりたいという強烈な闘志だけだ。


(奴のメッセージは極めて明確じゃ。この何年も開けられた形跡のない赤錆の密室を、お前の誇る物理的観察眼で解体してみせろ。そして、この不器用な手編みの靴下に込められた情動のルーツを、お前の情動の視座で読み解いてみせろ、とな)


 おばあちゃんの教えが眠るこの街で、あえて不純物の象徴とも言える手編みの靴下を用意する。

 ファントムは、瑠璃の世界観の根底にある神聖な領域を、完全に盤上のゲームの駒として利用している。それは孤高の鑑定士に対する、これ以上ないほど悪辣で、残酷な知恵比べの提示だった。


(面白い。お前がどのような完璧な物理トリックを仕掛け、どのような情動を偽造してこようとも、物質である以上、そこには必ず人間の手が介入した物理的な矛盾が存在する。わしがその嘘を根こそぎ解体し、ルーツを暴き出してやる)


 瑠璃は銀のルーペを右手に強く握り直した。

 夏の強烈な太陽が、赤く錆びついた電話ボックスのシルエットを、空き地の夏草の上に色濃く落としている。

 ファントムとの全五幕からなる知恵比べ。その第二幕が、今、瑠璃の原点であるこの旧市街の空き地で、静かに、そして決定的に幕を開けた。

 孤独な鑑定士は、幻影が仕掛けたこの赤錆の密室を完全に解体するため、冷徹な観察の第一歩を大きく踏み出した。



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