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第5巻:如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『偽造の情動』 ~Section 1:夏休みの旧市街と、孤独な探求者~

 月見坂市は、極端なまでに相反する二つの顔を、まるで歪なモザイクアートのように併せ持つ街だ。


 一つは、如月コンツェルンをはじめとする巨大なグローバル資本と、最新鋭のテクノロジーが惜しみなく注ぎ込まれた『新市街』である。そこは街全体が、はるか地下に設置された巨大なメインフレームAIによって完璧に管理され、最適化されたスマートシティの究極形だ。

 気温や湿度は、幾何学的に、かつミリ単位の精度で配置された街路樹に仕込まれた微細なミスト噴射口と、ビル群の間に張り巡らされた見えない気流制御システムによって、二十四時間、三百六十五日、常に人体にとって最も快適な状態に保たれている。街路樹は遺伝子操作によって落葉の時期すらコントロールされ、不快な羽虫や害虫は特定の周波数を放つ忌避装置によって一匹たりとも侵入を許されない。


 足元の広大なアスファルトは、太陽光の紫外線を反射し熱を吸収しない特殊なナノ素材でコーティングされており、真夏の猛烈な照り返しの熱すらも、都市計画の計算通りに完全に抑え込まれている。行き交う人々は皆、最新のファッションに身を包み、スマートデバイスを片手に優雅に歩を進める。街のノイズは、あちこちに設置された指向性スピーカーから流れる、人間の心理を落ち着かせるための人工的な環境音と合成された鳥のさえずりによって、完璧にマスキングされていた。

 無機質で、清潔で、一切の不純物と不条理を許さない、数式によって計算し尽くされた完璧なユートピア。それが月見坂市の表の顔であり、世界中の都市開発のモデルケースとされる美しい新市街の姿だ。


 そしてもう一つが、その新市街のすぐ隣、目に見えない境界線を隔ててへばりつくようにして存在する『旧市街』である。

 新市街の煌びやかな発展から意図的に計画から外され、あるいは急速な時代の波から取り残されたそのエリアは、昭和の面影を色濃く残す、いわば生きた化石のような街だった。

 無秩序に入り組んだ、まるで迷路のような細い路地。ペンキが剥げかけ、錆びついたトタン屋根がどこまでも連なる小さな商店街。赤茶色に変色し、文字すらまともに読めなくなった古いホーロー看板。そして、どこからか漂ってくる夕飯の焼き魚の匂い、排水溝の湿った臭い、人々の泥臭い生活の息遣い。

 そこには完璧な気流制御も、気温の最適化システムも存在しない。あるのはただ、自然のままの容赦ない気候と、人間が不格好に、しかし確かに生きているという、むき出しの熱量だけだ。


 橡ノ都(つるばみのきょう)での過酷な慰安旅行から帰還して数日後。

 世間は夏休み真っ只中であり、八月の容赦ない太陽が月見坂市を頭上から焦がしていた。

 瑠璃は今、その旧市街の細い路地を、たった一人で歩いていた。新市街から境界線を一歩越えただけで、まとわりつくような暴力的な熱気と湿度が、直接肌を容赦なく刺してくる。ひび割れ、雑草が隙間から顔を出す不揃いなアスファルトからはゆらゆらと陽炎が立ち上り、周囲の古びた木製の電柱や無造作に生い茂る木々からは、鼓膜を破らんばかりのけたたましい蜩の鳴き声が、まるで熱湯のシャワーのように降り注いでいた。


 黒を基調とした、涼しげながらも最高級のシルクで仕立てられたサマーワンピース。日差しを遮るための、豪奢なレースがあしらわれた黒い日傘。

 如月コンツェルンの社長令嬢である如月瑠璃の、可憐で浮世離れした出で立ちは、この汗と埃と錆にまみれた旧市街の風景の中ではあまりにも異質だった。日陰で渋茶を啜りながら縁台将棋を指している近所の老人や、ランニングシャツ姿で水鉄砲を持って走り回る子供たちが、何事かと目を丸くして瑠璃の姿を振り返る。

 だが、瑠璃はその好奇の視線を一切気に留めることなく、黒い日傘の柄を真っ白な手袋でしっかりと握りしめ、前だけを真っ直ぐに向けて歩き続けていた。


 ファントムからの第二幕の招待状は、すでに瑠璃の元に届いている。

 月見坂市に戻った翌日の朝のことだった。新市街の中心にそびえ立つ如月本邸にある、瑠璃の自室。専属SPである黒田を中心とした幾重ものプロフェッショナルな警備網が敷かれ、網膜スキャンと静脈認証という最新の生体認証システムによって守られているはずのその部屋のデスクの上に、真っ白な封筒が一つ、静かに置かれていたのだ。

 窓からの侵入経路も存在せず、無数に設置された赤外線センサーや監視カメラの死角も存在しない、物理的に考え得る限り完全な密室。そこに、実体を持つ紙の封筒を置くことなど、いかなる人間にも不可能なはずだった。


 中に入っていたのは、旧市街の特定の座標を示す手書きの地図と、『君の原点で待つ』という端正な文字で記された、たった一文の短いメッセージだけ。和紙の便箋から濃厚に漂う、季節外れの人工的な金木犀の冷たい香りが、それが間違いなくファントムからの挑戦状であることを明確に証明していた。


(如月の厳重な物理的警備網をいとも容易くすり抜け、わしのパーソナルスペースの最深部にまで音もなく侵入してみせた見えざる敵。奴の持つ能力は、単なる手品の類や、薄っぺらいハッキング技術などではない。人間の精神を隅々まで解剖し、システムの盲点と未来の行動を論理的に先読みする、概念的洞察力と冷徹な論理の極致じゃ)


 瑠璃は歩きながら、橡ノ都の山頂にある神社の境内で聞いた、あの不気味な合成音声を脳内で反芻した。

 こちらの思考速度を秒単位で予測し、熱力学の法則すらも利用して、特定のタイミングで録音データを起動させるという狂気の計算力。物理法則や人間の認知バイアスを完全に支配し、ありえない場所にありえないものを配置するためだけに、途方もない労力を費やす執念。

 ファントムは、暴力という野蛮な手段は使わない。その確信は瑠璃の中にある。だが、その悪意のない、対象を完全に理解しようとする純粋な知的好奇心は、時に暴力よりも深く、致命的に人間の魂の根幹を破壊する力を持っている。


 相手は、瑠璃という同じ目を持った天才との知恵比べを、恋にも似た情熱を持って渇望している。

 対象の心を極限まで解剖し、もっとも残酷で、もっとも美しい形で事実を突きつけてくる。橡ノ都で、皐月優奈の死という瑠璃にとって絶対に不可侵のトラウマを、観覧車のゴンドラという円環のメタファーを用いて突きつけてきたように。

 この戦いは、誰かに頼って解決できるような生易しい事件ではない。コンツェルンの強大な資金力や、警察組織の捜査網を動かしたところで、概念そのものを操り、日常の風景に完全に溶け込むファントムの尻尾を掴むことは絶対にできない。相手は物理的な痕跡を消すことなど造作もないのだ。

 だからこそ、これは如月瑠璃という孤高の鑑定士の、過去と存在意義そのものを賭けた一対一の盤面なのである。


 瑠璃はポシェットの上から、常に持ち歩いている銀のルーペの冷たい金属の感触をそっと確かめた。

 汗ばむような旧市街の酷暑の中、体感温度は三十五度を超えているはずだが、彼女の思考は氷のように冷たく、鋭く研ぎ澄まされている。

 ファントムが全五幕の知恵比べの、第二の舞台として指定してきたこの旧市街。

 それは瑠璃にとって、ただの古臭い街並みではない。


(君の原点で待つ、じゃとな。ふん。どこまでもわしの底を覗き込んでくる、忌々しい幻影じゃ。お前のその冷徹な論理が導き出した答えが、わしをどれほど揺さぶろうとも、決して足は止めぬ)


 新市街の完璧な管理から外れた、泥臭くも活気ある昭和の街並み。

 ここは、瑠璃の鑑定士としての本当の原点が眠る街である。

 この埃っぽい路地の奥、太陽の光も満足に届かないような古い家屋の中で、かつての瑠璃は世界の隠された真理を知った。新市街の賢い大人たちが無価値なゴミとして切り捨てるような、汚れたモノたちの裏側に、どれほど切実で愛おしい物語が眠っているかを学んだのだ。


 ファントムは、瑠璃のそのルーツを完全に理解した上で、あえてこの旧市街を戦場に選んだ。

 瑠璃の世界観の根底にあるものを揺さぶり、鑑定士としての在り方そのものを真っ向から試すために。優奈の死の真相を知りたければ、お前が信じてきたモノの真理を、自分自身の力で証明してみせろという、冷酷極まりない宣告だった。


 照りつける夏の太陽が、瑠璃の透き通るような白い肌をじりじりと焼く。

 日傘の下のアメジストの瞳には、恐怖も、一切の迷いもない。

 孤独な探求者は、幻影の待つ原点の座標へと、静かに、そして力強く歩みを進めていった。



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