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第5巻:如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『金木犀の幻影』 ~Section 10:帰還の決意と、孤独な宣戦~

 橡ノ大社(つるばみのたいしゃ)紅殻石段(べんがらいしだん)を下る三人の足音だけが、静かな山に響いていた。

 登りの時のように息を切らすことはない。しかし、その肩にのしかかる見えない重圧は、物理的な疲労とは比べ物にならないほど巨大なものだった。

 三百段近い過酷な石段を下りきり、鳥居を抜けた先には、宿泊先であった御薬師楼が手配してくれた地元ハイヤー会社の最高級車が待機していた。初老のドライバーが恭しく後部座席のドアを開ける。瑠璃、翡翠、菫の三人は無言のまま車内へと滑り込んだ。

 分厚い防音ガラスが外界の音を完全に遮断し、車内は完璧な静寂に包まれた。


「空港へ。安全の範囲内で、可能な限り急いでちょうだい」


 菫が運転手に向けて短く指示を出す。大人の余裕と成熟した色香を漂わせていた彼女の顔は、今は完全に冷徹な社長秘書のものへと切り替わっていた。娘の精神を根底から揺さぶるような真似をした正体不明の存在に対し、母親としての静かな怒りがその瞳の奥に宿っている。


 ハイヤーが滑り出すように発進し、橡ノ都の渋い和色の街並みが窓の外を流れていく。

 つい数時間前まで、自分たちはこの街の色彩と至高の甘味に癒され、ただの家族として平和な時間を享受していた。温泉で肌を重ね、他愛のない冗談で笑い合っていた。そのすべてが、たった一通の宛名のない手紙と、山頂に鎮座する鉄の箱によって、一瞬にして幻想へと変えられてしまったのだ。

 完璧な慰安旅行は、ファントムという名の幻影が仕掛けた、残酷なまでの知恵比べの序章に過ぎなかった。


「悔しいわ」


 ふいに、隣に座る翡翠が膝の上で強く拳を握りしめながら呟いた。

 その声には、経理の天才としての自負を傷つけられた屈辱と、妹のトラウマを土足で踏みにじられたことへの怒りが滲んでいた。


「あんな巨大な物理トリックを数週間もかけて仕掛けられておきながら、一切の異常を検知できなかった。それどころか、私たちの行動のすべてを秒単位で予測され、録音された音声によって思考まで支配されたのよ。完全に、あのファントムという化け物の手のひらの上で踊らされていた」


 翡翠の言葉に、瑠璃は静かに首を横に振った。


「悔やむ必要はない。相手の能力が、わしたちの想定する次元をはるかに超えていたというだけじゃ。奴の概念的洞察力は、監視カメラやネットワークといった物理的な網の目には絶対に引っかからない。人間の心理の盲点を突き、街の日常に溶け込み、そして対象の思考を盤面のチェスのように先読みする。あれは、そういう種類の知性じゃ」


 瑠璃の声は、驚くほど平坦で落ち着いていた。

 怒りも恐怖もない。あるのはただ、自分と同じ視座を持つ天才と巡り会えたことの戦慄と、その知性を完全に解体してルーツを暴き出したいという、観察者としての純粋な渇望だけだった。


 ハイヤーは山道を駆け下り、やがて地方空港のVIP専用ゲートへと滑り込んだ。

 滑走路には、すでに離陸の準備を整えた如月コンツェルン所有のプライベートジェットが待機している。黒田たち専属SPチームが周囲を厳重に警戒する中、三人は車を降りて足早にタラップを登り、豪華な機内へと足を踏み入れた。

 本革のシートに腰を下ろし、シートベルトを締める。間もなくジェット機は滑走路を蹴り、夏の青空へと高く舞い上がった。


 窓の外の景色が、緑豊かな山々から、分厚い雲の絨毯へと変わっていく。

 機体が安定飛行に入ったのを確認し、菫がシートを少しだけ瑠璃の方へ向けた。


「瑠璃。本当に、このまま誰の力も借りずに戦うつもりなの」


 菫の問いかけは、社長秘書としてのものではなく、娘を案じる母親としての切実な響きを帯びていた。


「月見坂市に戻れば、すぐに黒田を中心とした専属のSPチームを増員して、二十四時間体制であなたを護衛させることは可能よ。相手はどこから私たちを見ているか分からない。物理的な危害を加えられる可能性が少しでもあるのなら、コンツェルンの力を使って徹底的に身辺を固めるべきだわ」


「お母様の言う通りよ。それに、警察のサイバー犯罪対策課を動かせば、あの手紙の経路や、ホテルでの防犯カメラの映像から、ファントムの痕跡を洗い出せるかもしれない。私たちだけで抱え込むには、相手が異常すぎるわ」


 翡翠もまた、身を乗り出して必死に説得を試みる。

 如月家の女としての強さは持っている。だが、相手は瑠璃の心の奥底までを秒単位で読み切る化け物だ。家族として、妹をたった一人でその狂気の知恵比べの渦中に放り込むことなど、到底できるはずがなかった。


 しかし、瑠璃は窓の外に向けた視線を外すことなく、きっぱりと答えた。


「不要じゃ。わしの戦いに、黒田や警察は介入させぬ」


「瑠璃。意地を張っている場合じゃないわ」


「意地ではない。極めて論理的な判断じゃ」


 瑠璃はゆっくりと顔を向け、アメジストの瞳で二人を真っ直ぐに見据えた。


「奴は、暴力という野蛮な手段は絶対に使わない。それは、ファントム自身の美学に反するからじゃ。相手はわしに対して、恋にも似た情熱を抱いておると言った。自分と同じ知性を持つ者との純粋な知恵比べ。そこに、暴力や脅迫といった不純物を混ぜるような真似は決してしない。奴がわしに求めているのは、提示されたありえない事象のルーツを、わしの物理的観察眼で完璧に解体してみせることだけじゃ。屈強なSPを何十人配置しようと、この知恵比べにおいては無用の長物に過ぎぬ」


 瑠璃の断言に、菫と翡翠は口を噤んだ。

 確かに、ファントムの手口には一切の物理的な危害の痕跡がなかった。御薬師楼のロビーで、いくらでも瑠璃に危害を加えるチャンスはあったはずだ。だが、奴はただ手紙を渡し、巨大な錯覚の舞台を用意し、録音音声で己の知性の高さを証明してみせただけだ。

 それは紛れもなく、純粋で異常なゲームの招待状だった。


「それに、これは優奈のための戦いじゃ」


 瑠璃は膝の上で両手を組み合わせ、自らの決意を言葉にする。


「九歳の夏に優奈を喪ってから七年間。わしはたった一人で、暗闇の中を手探りで歩き続けてきた。優奈の死の真相を知るために、あらゆるモノのルーツを探り、観察眼を磨き続けてきたのじゃ。その答えを握る存在が、ついに向こうから姿を現した。これは、わし自身が己の力で越えなければならない、過去という円環からの脱出の儀式じゃ。誰の手も借りるわけにはいかぬ」


(優奈。お前が遺してくれた情動の視座が、今、最大の敵を読み解く鍵となっておる。わしは必ず、お前の死の真相に辿り着く。そのためなら、どんな理不尽な知恵比べであろうと受けて立つ)


 瑠璃の決意の固さを悟り、菫は深くため息をついた。

 娘の瞳に宿る光は、決して折れることのない強靭な意思の表れだ。親としてそれを止めることは、彼女の七年間の歩みそのものを否定することになってしまう。


「分かったわ、瑠璃。あなたの意志を尊重する。その代わり、少しでも身の危険を感じたら、すぐに私に連絡すること。それだけは約束してちょうだい」


「ええ、私も同意見よ。経理の裏帳簿を洗うようなことならいつでも手伝うから、絶対に無理だけはしないで」


「ありがとう。二人とも」


 瑠璃は小さく頷き、ふっと表情を和らげた。

 家族の無条件の愛情は、この孤高の戦いにおいて唯一の安らぎだった。


「それと、瑠璃。月見坂市に戻れば、あの子がいるわね。光太郎くん。いつもあなたの隣で騒いでいる、あの助手。あの子にはどう説明するつもりなの。今回の戦いにも、彼を連れて行くの」


 翡翠の問いかけに、瑠璃の脳裏に、少し内気でアイドルオタクの平凡で善良な少年の顔が浮かんだ。

 朔光太郎。通称、サクタロウ。

 彼は瑠璃の忠犬であり、助手であり、下僕だ。これまでも多くの拾得物のルーツを共に探し、時には彼の凡庸な視点が、瑠璃の思考の盲点を突いて解決の糸口になることもあった。


 しかし、瑠璃は迷うことなく首を横に振った。


「あの騒がしい忠犬にも、この件の深層には触れさせぬ」


(今回の相手は、これまでのような日常の些細な謎ではない。人間の精神を完全に解剖し、未来すらも予測する底知れない化け物じゃ。サクタロウの平和な日常の視点は、この狂気的な知恵比べにおいては致命的なノイズとなる。それに、何より)


 瑠璃は窓の外を見つめたまま、心の中で言葉を継ぐ。


(これは、わしと優奈、そしてファントムの三人だけの聖域じゃ。あやつを、この深い過去の因縁の円環に巻き込むわけにはいかぬ。旧市街の団地で父親と二人で暮らし、パソコンやゲーム、アイドルを愛する、あの凡庸で平和な日常を送る権利があやつにはある。他人の痛みがよく分かる、お人好しなあやつのような人間を、ファントムの冷酷な盤上に立たせるわけにはいかない。だからこそ、わしはあやつを完全に蚊帳の外に置く)


「サクタロウには、適当な理由をつけて旧校舎の図書室で紅茶の湯沸かしでもさせておく。今回は、わしとファントムの一対一の盤面じゃ。邪魔はさせぬ」


 瑠璃の冷たく響く言葉の裏にある、不器用な気遣い。

 それを理解した翡翠と菫は、もう何も言わずにシートに深く背中を預けた。

 機内には、ジェットエンジンの低い駆動音だけが単調に響き続けている。


 やがて、窓の外の空が少しずつ茜色に染まり始めた。

 プライベートジェットが降下を開始し、雲を抜けると、眼下に見慣れた街の輪郭が浮かび上がってきた。


 AIによって完璧に管理され、最適化された幾何学的な高層ビル群が立ち並ぶ新市街。

 そして、その隣にへばりつくようにして存在する、昭和の名残を色濃く残した泥臭い旧市街。

 月見坂市。

 瑠璃の日常の舞台であり、サクタロウと共に数々の謎を解き明かしてきた場所。そしてこれから、ファントムが残る四幕の戦場として指定した、因縁の街だ。


 橡ノ都の渋い和色の街並みとは対極にある、無機質と混沌が混在するこの街のどこかに、あの幻影はすでに潜んでいる。

 次に提示されるありえない場所にあるありえないものとは一体何なのか。

 高層ビルの窓の足跡か。電話ボックスの中の靴下か。それとも、湖に浮かぶ時計か。


 どのような事象であろうと構わない。

 相手がどれほど完璧な錯覚を作り出し、どれほど深く思考を予測してこようとも、物質である以上、そこには必ず人間の手が介入したルーツが存在する。


 瑠璃はポシェットの上から、常に持ち歩いている銀のルーペの感触を確かめた。

 冷たい金属の感触が、研ぎ澄まされた理知をさらに鋭く冷やしていく。


(待っていろ、ファントム。お前がこの月見坂市にどのような不純物を持ち込もうとも、わしが根こそぎ解体し、ルーツを暴き出してやる。お前の概念的洞察力と、わしの物理的観察眼。どちらが真実に辿り着くのが早いか、徹底的にやり合おうではないか)


 窓の外の景色が、沈みゆく夕日を受けて赤く燃え上がっている。

 孤高の天才の瞳には、恐怖も迷いも一切ない。

 あるのはただ、最強の敵を迎え撃つための、静かで冷たい闘志の炎だけだ。


 橡ノ都での平和な慰安旅行は終わりを告げた。


 過去の円環から抜け出し、皐月優奈の死の真相へと至るための、長く過酷な知恵比べ。

 全五幕からなるファントムとの決死の闘いが、今、月見坂市の空の下で静かに幕を開けようとしていた。



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