第2話『偽造の情動』 ~Section 7:計算された情動と、崩れゆく視座~
巨大な老木が作り出す濃い木陰の中。
瑠璃はコンクリートブロックの上に腰を下ろしたまま、己の膝の上に置かれた若草色の手編みの靴下を、ただ冷たく、そして空虚な目で見下ろしていた。
先ほどまで、この不格好な毛糸の塊から確かに読み取っていたはずの、泥臭くも温かい情愛のルーツ。目が悪くなった老婆が、愛する孫のために一生懸命に編み棒を動かしたという切実な祈りの形跡。
そのすべてが、冷徹な素数とフィボナッチ数列という幾何学的なアルゴリズムの羅列によって、音を立てて崩れ去っていく。
(二、三、五、七、十一、十三。そして、二十一、三十四、五十五。網目が不自然に引きつれ、テンションが狂い、ドロップステッチが配置された座標のすべてが、完全に数学的な法則に支配されておる)
瑠璃の脳内に、氷のように冷たい数式が次々と浮かび上がっては消えていく。
それは、人間の手が生み出す不規則なノイズとは対極にある、絶対的な計算の証明だった。新市街の巨大な地下メインフレームAIが弾き出した、狂いのないプログラムの出力結果。
(ファントム。お前はただの密室という物理的な箱を創り上げただけではない。人間の心という、もっとも不可解で不合理な領域すらも、冷徹な論理の解剖台に乗せてみせたのじゃな)
この手編みの靴下は、新市街の無菌室のような工場で、最新鋭のAI自動編み機と3Dモデリング技術によって製造されたものだ。
人間の手が一切触れられていない、摩擦のない無菌状態の繊維。最高純度の工業用染料。そこに、ファントムはあえて『不完全さ』というデータを正確に入力した。
目が悪くなった老婆の手の震え。長時間編み続けたことによる疲労。孫を愛おしく想うがゆえに力が入りすぎてしまう、指先の過剰なテンション。
奴は、それら人間の情動が引き起こす物理的なエラーのすべてを数値化し、極めて高度なアルゴリズムに変換して、機械に編み込ませたのだ。
(人間の情動は、愛情も、自己犠牲も、不器用さも、すべて数値化し、アルゴリズムで完全に再現できる。それが、お前がこの盤面でわしに突きつけてきたメッセージの正体じゃ)
頭上から降り注ぐ蜩の鳴き声が、まるでファントムのあざ笑う声のように鼓膜を激しく打つ。
瑠璃の背筋を、強烈な悪寒が駆け下りていった。三十五度を超える旧市街のうだるような猛暑の中にいるというのに、体の芯から急速に熱が奪われ、指先が氷のように冷たくなっていく。
それは、己の鑑定士としての存在意義そのものが根底から覆されることへの、根源的な恐怖だった。
如月瑠璃という人間は、他者の感情に同調して共に泣いたり笑ったりするような、ありふれた共感性など持ち合わせてはいない。
彼女にとって、モノのルーツを探る過程で浮かび上がる人間の喜びや悲しみ、あるいは鑑定の結果として誰かが救われたり破滅したりすることは、すべてただの副産物に過ぎない。瑠璃はあくまで絶対的な観察者であり、不純物に刻まれた真理を暴き出すことだけが己の至上命題なのだ。
しかし、その冷徹な観察を成立させるための絶対的な翻訳機こそが、皐月優奈という唯一の片割れから受け継いだ『情動の視座』だった。
(優奈。わしはお前に出会うまで、モノの表面にある物理的な傷や劣化の理由しか見抜くことができなかった。人間がなぜ非合理的な行動をとるのか、なぜモノに想いを託すのか、その情動という名のデータがまったく理解できなかったのじゃ)
六歳から九歳までの三年間。瑠璃は優奈の目を通して世界を見ることで、ようやく人間の心の奥底にある泥臭い感情の動きを、一つの確かな事象として汲み取ることができるようになった。
誰かを愛すること。誰かを守るために自己犠牲を払うこと。
瑠璃自身がその感情に振り回されることはない。ただ、モノに刻まれた物理的な傷の裏側に、そうした生々しい『人間の祈り』が紐づいているという絶対的な法則を理解し、完璧にリーディングできるようになったのだ。
それが、優奈が命と引き換えに瑠璃の魂に根付かせてくれた、情動の視座という鑑定の力だった。
(わしは先ほど、この靴下から老婆の情動を完璧に汲み取った。不揃いな網目から、孫を想う祈りのデータを抽出した。おばあちゃんが愛した極上の不純物がここにあると、一片の疑いもなく結論づけたのじゃ)
その事実が、鋭い刃となって瑠璃の知性を深く抉る。
瑠璃の情動の視座は、ただの機械が素数とフィボナッチ数列に従って出力した『情動の偽造データ』を、本物の人間の心であると誤認してしまった。優奈から受け継いだ絶対的な翻訳機が、ファントムの書いた偽のコードによって完全にハッキングされ、狂わされたのだ。
(もし、人間の情動というものが、ただ機械のアルゴリズムによって完璧に偽造できる程度の底の浅いデータに過ぎないのだとしたら。人間の心に、何か特別な価値など存在するのか)
瑠璃の視界が大きく歪む。
木陰の地面に生える雑草も、遠くに見える赤錆の電話ボックスも、すべてが無機質な数字とデータ配列の羅列に見えてくる。
十一年前、山内かえでは言った。一見ゴミに見えるような不純物にも、すべて物語がある。守りたかったからこそ生まれてしまった歪な凹み。その不純物こそが、この不条理な世界で確かに生きた証なのだと。
(おばあちゃん。あなたが愛した極上の不純物は、新市街のテクノロジーと冷徹な論理を用いれば、いとも簡単に大量生産できてしまうらしい。愛も、生きた証も、すべてはただのパラメーターに過ぎなかったのじゃ。そんなものを後生大事に読み解こうとしていたわしは、滑稽なピエロに過ぎなかったということか)
かえでが遺した神聖な教えが、音を立てて崩壊していく。
もし、傷つき歪んだ不純物が持つ「生きた証」が、ただの工業的な偽造品によって完全に再現可能であるならば。瑠璃がこれまで行ってきた不純物の鑑定には、一体何の意味があったというのか。
人間の魂も、愛も、悲しみも、すべては脳内の化学物質の分泌と電気信号のパターンに過ぎない。ファントムはそのパターンを完璧に解析し、靴下という物理的媒体を通して、情動の視座という瑠璃のシステムに致命的なエラーを引き起こさせた。
「くっ」
瑠璃の口から、苦悶のようにも、あるいは自嘲のようにも聞こえる小さな声が漏れた。
軍手をはめた両手で顔を覆い、膝を抱え込むようにして体を丸める。
サマーワンピースの背中を、じっとりと冷たい汗が伝い落ちていく。夏の猛烈な暑さが、瑠璃の肉体から容赦なく体力を奪い去るだけでなく、精神を押し潰す目に見えない巨大な重圧となって両肩にのしかかっていた。
(ファントム。お前の悪意のない純粋な知的好奇心は、本当に恐ろしい。お前はただ、自分と同じ目を持つわしを試し、この残酷な真理を理解できるかどうかを確認したかっただけなのじゃろうな。人間の心など、論理の前では無価値なのだと)
暴力は一切使われていない。ただ、一つの事実を冷徹に提示されただけだ。
しかし、その概念的洞察力によってアイデンティティの急所を正確に貫かれた瑠璃の精神は、すでに致命傷を負っていた。
自分が信じてきた世界の法則がすべて嘘偽りであり、自分という存在がただの機械の出力を有難がるだけの欠陥品に過ぎなかったという、知的な絶望。
(もう、何も信じられぬ。物理的な真理を暴いても、そこに残るのは空虚なデータだけ。情動を汲み取ろうとしても、それが本物であるという保証はどこにもない。わしは、わしの持つ二つの目は、この世界で完全に無価値なガラクタになり果ててしまったのじゃ)
瑠璃の白く細い指先が、膝の上の若草色の靴下を強く握りしめる。
軍手越しに伝わってくるそのふわりとした感触が、今はひどく恐ろしかった。この柔らかさも、色合いも、すべてが計算し尽くされた悪意なき狂気の産物なのだと思うと、触れていることすら吐き気を催すほどの知的な嫌悪感を引き起こす。
誰かを救うためでも、誰かに感謝されるためでもない。ただ純粋に、モノのルーツという絶対的な真理を探求するためだけに研ぎ澄ませてきた孤高の鑑定眼が、根本から否定されたのだ。
木陰の外では、容赦ない太陽が旧市街の泥臭い街並みを激しく焼き焦がしている。
新市街の完璧なAI管理網のすぐ隣で、不格好に生きる人間たちの熱量。かつてはそこから生み出される不純物にこそ、解き明かすべき真理が宿っていると信じていた。
だが、今の瑠璃には、そのすべてが無意味なノイズの集積にしか思えなくなっていた。
(わしは、ここで終わるのか。おばあちゃんへの誓いも、優奈が遺してくれた翻訳機も、すべてこの偽造されたデータの前に膝を屈し、無様にシステムダウンしていくのか)
呼吸が浅く、そして速くなる。肺に吸い込む空気が、まるで熱湯のように喉を焼く。
圧倒的な孤独。
この極限の知恵比べにおいて、瑠璃を慰め、あるいは感情のノイズを吸収してくれるような存在はここにはいない。この絶対的な論理の暴力の前に立ち向かえるのは、自分自身の知性だけだ。
しかし、その知性こそが、ファントムの仕掛けた罠の完璧さを誰よりも深く理解し、自らを絶望の底へと縛り付けている。
蜩の鳴き声が、世界を塗りつぶすように響き渡る。
巨大な老木の木陰にうずくまる孤高の令嬢は、存在意義のすべてを論理によって奪われ、底なしの暗闇の中でただ一人、震えることしかできずにいた。
絶対的な観察者としての誇りは完全に打ち砕かれ、その視座は今、取り返しのつかない崩壊の時を迎えようとしていたのである。




