第40話 打てよ、堂本!
聡志は悲しみを抱えたまま名古屋にトンボ返りした。親友を失った悲しみを切り替えるのは容易ではない。
だが、なんとしてもここで活躍して、地元広島でのジャイアンツ戦に出場しなければならなかった。死に物狂いの気持ちが通じたのか、ドラゴンズとの残り二試合でスタメンのチャンスをもらい、両試合とも決勝打を放って勝利に貢献した。
そして、カープはついに単独首位に立った。
移動日なしの九月三十日、カープは本拠地で二位ジャイアンツとの最終戦に臨んだ。その試合はカープの自力優勝がかかった大一番で、負ければ他力本願に頼るしかなくなるという瀬戸際だった。満員の場内は試合開始前から異様な盛り上がりを見せていた。
夕方の六時から始まったテレビ放送で、アナウンサーがスタメンを紹介したあと、解説の天野に試合の見どころを訊いた。
「天野さん、いよいよこの日を迎えましたね。両チームともエースを立ててベストメンバーを組んでいますが、どのような展開になると予想されますか」
「そうですね。やはり、投手戦でしょうね。こういう試合では、一つのミスやエラーが致命傷になりがちです。緊迫した戦いになるのではないでしょうか」
天野はそう言って、自分で「ええ」と相槌を打った。そういう解説者は多い。
「と、いうことは、投手の失投を見逃さなかった一発で、試合が決する可能性もありますね」
「それは大いにあり得ますけど、ヒットかフォアボールのランナーを出して、確実に一点を取りに行く作戦に出るのではないでしょうか。そういう点では、今シーズンのホームランが一本とはいえ、最近絶好調の堂本が、スタメンの七番に入っているのは意味があると思いますよ」
試合は解説者の予想通り投手戦となり、一対一の同点のまま互いに譲らず、あっという間に最終回の攻防となった。
九回裏のカープの攻撃は、五番打者から始まって二人が連続でヒットを打ち、ノーアウトランナー、一塁、三塁。一打サヨナラの願ってもないチャンスを迎えた。場内は異様な興奮に包まれる中、七番の堂本に打席が回ってきた。
この試合ではここまで三打数ノーヒットで、三打席とも空振りの三振に終わっていた。
「天野さん、ここで西出監督は代打を送らないのでしょうか。ベンチには、切り札の松田もいますけど」
「うーん、難しいところです。ここは、単打で十分ですからね。今日の堂本はなぜか大振りが多いですが、本来のようにコツコツ当ててくるのなら、相手は嫌だと思いますよ。もう、監督に任せるしかありませんね」
ジャイアンツのピッチングコーチは、水のペットボトルとタオルを抱えて急いでピッチャーのもとへ駆け寄った。内野手全員がマウンド付近に集まってコーチの話を聞いている。審判がマウンドへ歩み始めたところで輪が解けた。どうやら投手交代はないらしい。
聡志は監督に呼ばれて二言、三言、声を掛けられていた。大きく頷き、コンパクトな素振りを繰り返しながら、気迫を込めてバッターボックスへ向かった。
「恭子、これまで一度も君との約束を果たせず、プロポーズのホームランも打てなくなってしまった。本当にごめん。この場面では、チームが勝つこと、優勝を成し遂げることを一番に考えねばならないんだ」
すべての迷いを断ち切るように、ぎゅっと奥歯を嚙み締めた。
それまで坦々と実況していたアナウンサーが、聡志の並々ならぬ気合を見逃さなかった。
「うわっ。この打席の堂本は、前の打席までの雰囲気とは、まるで違いますよ。怖いと言うか、殺気立ってますね。ここで決めなければ人生が終わる、とでも思っているのでしょうか」
それに対し、天野は淡々と解説をした。
「確かにそう見えますが、そもそも、こんな大舞台で興奮しない選手などいませんからね。今日はストレート狙いの三振が多いので、コースぎりぎりか、やや外れるくらいのストレートを交えながら、バッテリーはどんどん攻めてくると思いますよ。ただし、堂本はバントがうまいので、前身守備体系を取りながら、スクイズの警戒をしておかなければなりません」
聡志は審判に会釈をしたあと、右足でバッターボックス内の土を荒々しくかきならした。続けて、左腕を前から後ろに大きく一回転させるお決まりの仕草を終えた。スタンスを決めてどっしりと構える。
「堂本っ!」
「タイムリー、頼むぞー」
「うてよっ、どうもとーーー」
「打てよ、堂本!」
願いを込めた声援が四方八方から飛んでくる。聡志には、その声援はすべて一樹の声のように聞こえた。
外野席で「もってこい、もってこい」の応援が始まる中、ピッチャーは渾身の力でストレートを投じた。目を疑うような真ん中への失投だったが、聡志は力んで三塁線へゴロのファウルにした。
「今のは完全に、バッター堂本の打ち損じではないでしょうか。天野さん、叩きつけるようなバッティングでしたね」
「そうですね、強いゴロを打って前進守備の野手の間を抜ければ、それで試合は決しますからね」
聡志は体が硬くなっているのが自分でも分かった。一度バッターボックスを外し、大きく息を吐いて気合を入れ直す。味方のベンチから、「一気に決めろ!」と声が飛んだ。
三塁コーチのサインを確認して、バッターボックスに入り直した。
続く第二球は、用心深く投げ込まれた真ん中低めへのカーブだった。誰の目にも低すぎて、見逃すだろうと思われたその球に、聡志の体が自然に反応した。無意識に右膝を折って球が落ちてくるのを待ち構える。
「今だ!」
記憶の底から声がした。
「ゥガッ」
しなったバットが球を真っ芯で捕らえてすくい上げた。木製バット特有の乾いた音が場内に余韻を残したまま、打球は高々と舞い上がってレフト線上に伸びた。
「堂本打った、大きい、大きい、大きい、大きい。フェアかファウルか。どうだ、フェアかファウルか。おっと、ポール最上部をやや内側から越えて、後方のネットに当たりました。なんと、なんと、驚きました。堂本聡志が、九回に優勝を決める劇的なサヨナラスリーランホームランを打ってのけました。たった今、広島東洋カープがペナントレースを制しました!」
実況の声が上ずっている。三塁ランナーがホームベースを踏む前なのに、興奮してカープの優勝を伝えていた。
「こんな大試合で大仕事をやってのけるなんて、なんという男でしょう。堂本は、自分のひと振りで緊迫した試合に決着をつけてみせました。天野さん、いかがですか。見事なホームランだったと思いますが」
「いやあ、驚きました。まさかホームランを打つとはね。大したもんです。これが、あのオールスターゲームで無気力な三振を喫したのと同じ選手なんですかね。だけど、よくあんな低めのボール球をホームランにしましたよね。もしかしたら、遠い昔に今の打法でホームランを打ったことがあるのかもしれませんよ。本人は完全に無意識なんでしょうけど、きっと、頭の底に残っていた成功体験が、低め打ち打法を導いてくれたのではないでしょうか。そうとしか考えようがありません。敗れたジャイアンツは残念でしょうけど、まだクライマックスシリーズが残ってますからね。意地を見せるのではないでしょうか。頑張ってもらいたいですね」
球場全体から大歓声が沸き、場内は紙吹雪が舞い、興奮のるつぼと化した。カープファンの誰もが、はち切れんばかりの笑顔で喜びを表している。
相手チームの選手が力を落としてベンチに帰るのを背に、聡志はひと言では言えない感情が次々に沸き起こるのを制御できないまま、一塁ベースを回っていた。
「天国の母さん、僕、やりました!父さんとゆりちゃん、いつも応援ありがとう」
冷静に感謝の気持ちを口に出すことによって、心の震えを鎮めようとした。ナインが待っているホームベースまで、早く走り抜けたかった。
だが、二塁ベースを回ってレフトのポールが目に入った時、一樹が最期に描いた筋書き通りに打てたことで喜びがあふれたのも束の間、とてつもなく悲しくなった。
「一樹、お前は未来の野球場を想像しながら、そこで、僕がホームランを打つ夢を見てくれてたんだな。これまで長い間応援してくれて、本当にありがとう」
一樹の病床での姿がまぶたに浮かんだ。
二塁ベースを蹴ったところで肩を震わせながら男泣きに泣いた。ユニフォームの袖で涙を拭い、足がもつれ、真っすぐ走れなくなっている。スタンドのファンやテレビの視聴者の目に、聡志の涙が神秘的に光って見えた。
三塁ベースを回ったところで、
「一樹っ」と大声で名前を呼んだ。
続けて、ホームベースの手前でスピードを緩め、夜空に向かってこぶしを三度突き上げながら、思い切り叫んだ。
「恭子! 恭子! 恭子!」
とめどなくあふれ出る涙が、頬からこぼれ落ちた。




