第39話 一樹の最後の夢
広島に戻って阪神との三連戦が終わり、ペナントレースの行方は益々混迷を極める中、聡志は名古屋遠征に出発した。一樹たちが九月二十七日のドラゴンズ戦をテレビで観ながら夕食を取っていると、聡志が代打で出てセンター前へクリーンヒットを打った。そのままライトの守備について、次の打席では左翼線へ二塁打を打って見せた。
「ヨッシャー」
一樹も当然気分がいい。試合が終わっても時計の針はまだ夜の九時前を指していた。一樹は黄色がベースのアロハシャツを着て街に出た。通りがいつもより華やいで見える。商店街を歩いているうちに、ネオンに誘われてパチンコ屋に入った。
混み合った店内で空いている椅子に座って打ち始めたところ、いきなり確率変動を引き当てた。
「おお、ラッキー。聡志のマルチヒットを見たお陰で、自分にもツキが回ってきたかな」
鼻歌まじりで液晶画面を眺めていた時、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、黒の薄いニット帽を被ってタバコをくわえたサングラスの男が、眉間に皺を寄せて立っていた。
「表へ出ろ」
知らない男にそう言われても、玉がジャンジャン出ているのに立ち上がるわけにもいかない。迷惑そうな顔をして返事をした。
「何の用かね?あんた、誰?」
「誰?だと。ふざけやがって。いいから来い!」
男がシャツをまくりあげると二の腕の筋肉が盛り上がっていた。一樹の腕を掴んで否応なく店から連れ出し、ニット帽を脱いで見せた。額に大きな傷痕が残っている。
「ああっ、あの時の」
甲子園のインタビュー会場で、一樹がバットで殴りつけた高谷だった。
「本当に、も、もうしわけ……」
「うるさい!」
一樹が言いかけた言葉は完全に無視された。高谷は、親の仇の如く一樹を睨みつけた。
「お前のせいで俺の人生はズタズタよ。どうしてくれるんだ!」
そのまま一樹を路地裏へ引きずり込んだ。強烈なパンチが一樹の頬に一発、二発、三発と炸裂した。顔から胸、腹へドスドスと音を響かせると、あっという間に黄色のシャツが赤く染まった。超高校級のストレートを投げていた高谷のパンチは並みではない。
一樹は鼻の骨を折られ、倒れたあとも執拗に頭や腹を蹴られた。さらに肉を蹴りつける鈍い音とうめき声が周囲に伝わり、喧嘩に気付いた通行人が集まって路地裏の入口を囲んだ。
遠くから聞こえていたパトカーのサイレンの音がどんどん近づいてくる。高谷は「やっべー」とひと声発して、反対側の通路へ走って逃げた。
一樹が目を開けると、顔に包帯が巻かれているのが分かった。かすかに消毒薬のにおいがした。ゆりと欣二がベッドの横で心配そうな顔をして立っている。天井にはカーテンレールが張り巡らされ、白いカーテンがゆりのブラウスと同化してぶら下がっていた。
一樹は頭の中がぐるぐる回っているような焦点の合わない目付きをして、ゆっくりと左右を見渡した。病院のベッドに寝かされているのは理解した様子で、再度目を閉じると荒い息のまま、また眠り込んだ。
担当の医師は見舞いの二人を廊下に連れ出した。
「他に親しい人がいたら、すぐに呼んでください。手の施しようがない状態です。今は意識がありますけど、決して予断を許しません」
険しい顔をして医師の控室に戻って行った。
「お兄ちゃん」
ゆりはベッドサイドで話しかけるように呼んだ。さきほどまで一緒に聡志の応援をしていた兄が、今は病院のベッドで眠り込んでいる。家を出てからの短時間で何があったのかなど、どうでも良かった。一樹の回復だけを祈って泣いた。
聡志が欣二から連絡を受けたのは、試合が終わって宿舎に戻った直後のことだった。食事会場に向かっていた大瀬戸に訳を話すと、僅かな時間でどこからかドライバー付きの車を調達してきた。
翌日は三連戦の二戦目だ。昼までに新幹線に乗れば試合には十分間に合う。聡志の決断を後押しするように大瀬戸が急がせた。
「さあ、早く乗って」
ドライバーは夜の名神、中国道をぶっ飛ばした。一睡も出来ないまま病院に到着したのは、外がまだ暗いうちだった。ドライバーに礼を言って、飛ぶように入院病棟に向かう。ナースステーションの当直の看護師が部屋まで案内してくれた。
「聡志、早かったな。遠くからご苦労さんじゃった」
欣二が労った。ゆりもいた。みんな目を赤くしている。一樹の顔は目と口を残して包帯が巻かれていた。容態が良くないのは一目瞭然だった。
小一時間が経って一樹が目を覚ました。聡志がいるのに気付くなり、「あー」と声を出した。
「おいおい、いったい、どうしたというんじゃ」
聡志の問いに欣二が横から答えた。
「何者かに殴られたらしいんじゃ。大柄な男に」
一樹が恨みを買うとすればあの男しかいない。聡志は直感的に思い浮かべた。警察に連絡をしようとしたところへ一樹がおもむろに話し始めた。
「のう、聡志。犯人のことは、もうええんじゃ。自業自得なんじゃ」
「おお、喋れるんか」
一樹の口元へ寄った。唇が何かを言いたそうに動いている。
「来てくれて、ありがとう。俺は、大丈夫、なんも心配せんでええ」
誰が見ても心配しなくて良いわけがなかった。腕に固定された痛み止めの点滴が効いているのか、だるそうだが頭は割としっかりしている。声がかすれているのは仕方がない。
「聡志、未来の野球場の話、続きがあるんじゃ。聞いてくれんか。これが最後じゃけえ」
「最後じゃなんて、バカなことを言うな。SF野球の話じゃな。何度でも喜んで聞かせてもらう。ゆっくりでええから、続きを教えてくれ」
一樹は時々苦しそうな息をした。少し微笑んだのは、目尻に皺が寄ったことで分かった。話ができるくらい口が開くように、始めに顎を上下に動かした。
「二十年後のカープの新球場。聡志は、先発に名を連ねとる。年は、すでに四十六歳じゃけど、現役バリバリじゃ」
考えていたことをのろのろ口に出したあと、遠い将来を夢見るように少しの間、目を閉じた。
聡志だけでなく、ゆりも欣二も一言一句聞き逃さぬよう耳を傾けていた。
「応援風景は今と変わっとらん。ファンの心からの声援。応援歌。スクワット応援」
「そうか、また一緒に外野席で応援しような。今から楽しみにしとるよ」
みんなその日が来るのを願って頷いている。一樹は残された時間が僅かなのを悟っているかのように先へ進めた。
「ウグイス嬢が、聡志の名前をコールした。ゆっくりと打席に向かう。同点の最終回じゃ。左腕を前から後ろに、大きく一回転させて、気合を入れて構える。ピッチャーが投げた二球目に、乾いた音が、響き渡った。レフトに、高々と、上がった打球。黄色に光るポールが現れた。その、遥か上を通過して、二階席に飛び込んだ。あとは、フェアか、ファウルか」
聡志ばかりか、ゆりもその結果が気になった。
「お兄ちゃん、ポールの色が変わって教えてくれるんでしょ?」
「そうじゃ。赤なら、ファウルじゃ。ポールは、なんと、虹色の光を放って、ゆっくりと横回転を、し始めた。判定は、ホ、ホームランじゃ!」
ウウっと感極まって涙を零した。苦しくて痛そうな、ハアハア言う息の音が、その場を支配している。それから少しすると呼吸がやっと落ち着いて、話はクライマックスへと向かった。
「何秒か後に、オオーっ、という、大歓声と拍手の嵐。見事なサヨナラ、ホームラン。聡志は、会心の笑みで、ダイヤモンドを、一周すっ、するんじゃ。そ、それを、誰よりも喜ん、じょるのは、きょ、きょうこさん、じゃ。俺は、二番目、でええ」
声が聞き取れないくらい小さくなって口を閉じた。
一樹が「これが最後じゃけえ」と言った未来の野球場の話は、前回より新たな技術を語るものではなく、その球場でホームランを打つ聡志と幸せそうな恭子を思い描く物語だった。
横にいるゆりが、すかさず手を握った。
「お兄ちゃん、しっかりして」
一樹は聡志に聞いてもらいたかったことを話し終えて、この世の務めをすべてやり遂げたかのように柔和な目をした。
「ゆり、子どものころ、母ちゃんと、三人で食べた、あのエビフライ、本当に、う、うまかった、なあ。おじさん、ありがとう、ござい、……。ゆりを、よろ、よろし……」
言葉が止まったのとほぼ同じくして、一樹の目に新たな涙が湧き出た。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんっ」
何度呼びかけても目が開かない。強く手を握っても握り返してこない。そのまま遠いところに行ってしまいそうな兄の様子に、ゆりが卒倒しそうになった。欣二が慌てて抱きかかえ、ベッドの横の椅子に座らせた。
聡志は包帯で覆われた一樹の顔に大声で呼び掛けた。
「おい、一樹、起きろ、一樹!」
撫でるように肩を揺すった。聡志も目に涙をためていた。誰もが一樹を見つめたまま、一歩も動かない。静寂の中で時間だけが過ぎて行く。
窓の外は日の出前の街灯が霧で潤んでいた。輝いていた星たちと交代するように空に少しずつ赤みがさしていく。神々しい空気が辺りに漂い始め、一樹の体を覆った。一人の野球が大好きな若い男が、天国の入口に運ばれようとしていた。
聡志の胸には、あの雨の日に恭子と一緒に大声で応援をしてくれた、元気な一樹の姿がよみがえっていた。
脈を取りながら見守っていた看護師が病室を出た。すぐに担当医が飛んできて、心音と呼吸音の確認をした。続いて瞳孔に光を当てた。看護師に目配せをすると口から大きく息を吐いた。たった一人の兄に寄り添っていたゆりに視線を合わせて、声を振り絞った。
「お兄さんは、全身に痛みを抱えながらも、最期までよく頑張られました」
丁寧に、深々とお辞儀をした。聡志と欣二の目から涙があふれた。
そこには、自分から兄を永遠に遠ざける言葉を簡単には言って欲しくない妹がいた。
「いや、いや、お兄ちゃん、死んじゃいや!」
一樹の顔に自分の頬をつけて、人目をはばからず泣きじゃくった。一樹の目からこぼれた涙とゆりの流した大粒の涙が、一つの線となってシーツを濡らし続けた。




