第34話 後悔の残る解決
聡志は翌日の午前十一時に弁護士事務所に着いた。野口は手紙をじっくりと読んで得心した。
「昨日、井上氏からも手紙が届いておりまして、このたびの一件について、心からの謝罪が認められておりました。これですべて解決ですね」
厚い便箋をテーブルの上でトントンと束ね、フッと息を吐いた。
「ありがとうございました。先生には大変お世話になりました。何とお礼を申し上げれば良いのか」
言葉に反して、中途半端に頭を下げた。表面上の解決はしても、心の中にはモヤモヤが宿っている。それを口にしようかと悩んでいるところに野口が続けた。
「ここまできて、ようやく邦江氏の動機を知ることができました。娘さんの日記帳を読んだことに端を発して、井上氏を利用して一気に突き進んだということですね。なかなか複雑な案件でしたが、終わってみれば、……」
いつもは饒舌な野口がめずらしく言い淀んだ。
「先生、どうかされましたか?」
「いえいえ、ちょっとだけ。実は、邦江氏の動機にまだひっかかっていて……」
「それは、詰まるところ、僕の優しさの欠如が原因ですよね?」
野口は、「そういうことじゃなくて」と言って聡志を待たせたあと、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「彼女の手紙の中に、入院費くらいサッと出してくれても良いのでは、というあなたへの甘えと、罪滅ぼしをしろという怒り、懲らしめの気持ちとが同居している場面があったでしょう。そこなんですよ、そこ。一読すると、とても不思議な気がしたのです」
聡志はキョトンとした顔を向けた。脳みそがしびれているようだった。
野口は太い眉毛をこすりながら、自分の頭の中を整理するように続けた。
「でも、そういうことって、どこにでもあることだと気づいたんです。卑近な例で言いますと、昇進させてもらいたいと自分の上司に甘えている部下がいるとして、その部下は何年も冷遇されてきたのだから、そろそろ昇進させてくれてもいいではないかという怒りにも似た思いもその上司に対して持っている。甘えと怒りの共存、とでも言いましょうか。いかがですか、こういうの。プロ野球の選手には、あまり関わりがないことかもしれませんけど」
聡志は返事代わりに「はあ」という息を吐いた。プロ野球の世界にだって、似たようなことはいくらでもある、と言いかけたが、邦江の手紙そのものが胸に深く刺さっていて、本件と直接関係のない例えを挙げる余裕などなかった。
聡志はこれで終わったと思ってお礼の挨拶をしかけたところ、慌てて引き留められた。
「私は、邦江氏の干渉は親の権限を越えていると思うのですが、どうでしょうね」
「えっ、干渉って、それはつまり……」
思い当たる節はあるが、自分から話すことではないので黙っていた。
「世の中にはいろんな親子関係がありますから、こんなことを言うと叩かれかねません。ですから、ここだけの話にしてくださいね。さて、邦江氏が恭子さんの日記を読んでかわいそうに思う気持ちが湧いたのは、理解できなくもないですよ。だけど、とっくに子離れ、親離れの時期を過ぎた年齢ですよね。恋をしている当人からすれば、そんなお節介など迷惑この上ない話じゃないですか。そうは思いません?」
やはりそのことか。一応、頷いた。いくら心優しい恭子とはいえども、その通りだろう。なにしろ、自分とのことは一切母親に話さず、日記帳の中だけにしまってきたのだから。
野口は聡志の同意に満足げな表情を浮かべた。
聡志としては、モヤモヤを吐き出す機会がここぞとばかりに訪れたのを逃す手はなかった。
「それはそうかもしれませんが、世間での子離れの年齢がどうあろうと、僕は当事者ですからね。そんなことを引き合いに出して、偉そうなことを言える立場ではありません。彼女の母親を脅迫に至る行為に走らせた自分の責任、優しさや思いやりのなさを改めて知って、まだ心がズキズキと痛んでいるというのが本当のところなんです」
やっと言えた。誰かに本心を打ち明けないと胸が張り裂けそうだった。
「うーん、そうきましたか。人は、自分で己の欠点に気が付く前に、誰かに指摘された方が何倍も心が痛みますからね。私にもその気持ちはよく分かります。特に、今回の場合は、脅迫状を送った動機として、あなたの優しさの欠如が指摘されているのですから、そのショックは相当なものでしょう。でもね、堂本さん。人は真面目に頑張っていても、どこで恨まれたり、嫌われたりしているか想像もつかないものです。もうあまりくよくよ考えず、しっかり前を向いてください。恭子さんのためにも、あなたができることから、また一つずつ努力していけばよろしいのではないでしょうか」
それを聞いて、だいぶ気が楽になった。
家に帰ったら、子供のころのように欣二と向かい合って、素直に話がしたい。久しぶりに父親の作ったご飯を一緒に食べたいと思った。
聡志が感傷に浸っているところへ弱音が聞こえてきた。
「あなたがしっかりと気持ちを切り替えて再スタートを切るのに引き換え、私のやっている弁護士業なんか、いつまで経ってもストレスが溜まる一方ですよ」
首をかきながら愚痴っぽく漏らしたことの信憑性を眉間の皺が保証している。
今回のようにうまく解決できれば良いが、すべての相談事を解決し、裁判で全勝することは不可能に近い。依頼人からの相談は、所詮他人事だと思ってやれるくらいでないと、いかに報酬が高くても身が持たない仕事なのだろうと痛感した。
それはさておき、聡志は確認しておきたいことがあったことを思い出した。
「ところで、先生、私は井上氏からの、『必ず真相を突き止めます』という怒りの手紙が届いた時点で八割方解決、あとは現地で残りの二割解決、なんて気軽に考えていました。現実はそんなに単純な問題ではなかったということですね」
「そういうことになりますね。手紙であれだけ陳謝されて解決の意欲を示されたのですから、あなたがそう考えるのも無理はありません。だけど、邦江氏の手紙によると、井上氏からの電話を偶然恭子さんが取ったことから、一気に収束に向かったことがわかります。もしも、あのまま邦江氏に適当な言い逃れをされていたら……」
「いったい、どうなったのですか?」
急に不安になって身を乗り出した。
「そうですね、こちらとしては謝罪をする理由がないので、いつまで経っても相手には謝罪文とお金が渡りません。さすがに井上氏もあれ以上の関わりはしないでしょう。そうすると、こちらから被害届を出さなければ脅迫自体がうやむやになるだけで、中でも、一番肝心な動機が、永久に不明になっただろうということです」
「とすると、私は根拠のない脅迫状が送られて来た理由を一生知らずに生きていくことになったのですね。うわあ、勘弁して欲しいなあ、そんな気味の悪い結末は」
両手を頭の後ろに組んでのけ反った。
「それもそうでしょうけど、もっと現実的な問題があります。今後、恭子さんが無理のないパートの仕事を見つけたとしても、それだけでは生活資金が逼迫していきます。邦江氏に働けない正当な理由があるわけではないので、生活保護は申請できませんしね。なすすべもないまま支払いに行き詰まり、ひょっとして、母子でのっぴきならない状況に陥ったかも……」
「もう、やめてくださいよ!」
聞きたくもないことだった。だが、冷静に考えてみれば、恭子たちが待ったなしの状況下にあるのは間違いない。
「他にも何か質問などありますか?」
「先生、ではもう一つ、本当の最後にいいですか?結局、私が受けた脅迫はなんだったのでしょうか。私に反省すべき点があるのは理解しましたが、相手方にとってのメリットなど一つもありませんでしたよね」
野口は大きく首を振った。
「そんなことはありません。邦江氏にとって、いえ、恭子さん、そして井上氏にとっても、とてつもなく大きな成果がありました。それは、本来、考えもしなかったことだと思うんですけどね」
「大きな、成果、ですか。それは……」
聡志は口を開けたまま言葉が続かなかった。野口は焦らさずに答えた。
「ひと言で言いますと、邦江氏がお酒をやめて社会の役に立てるよう仕事をする、と覚悟を決めたことです。手紙に書いてある通り、一番大事な娘さんに真実を話せないところまで堕落したことがきっかけとなって、本来の姿を取り戻そうと眠りから覚めたのです。本当にその通りに実行すれば、これまで身近で苦しんできた恭子さん、元夫の井上氏がどれだけ救われることか」
野口ならではの情緒的な総括だった。
「私もそうあって欲しいと願います。恭子さんと彼女の両親のためにも」
「さて、堂本さん。これまでの精神的苦痛は相当なものだったでしょう。あなたばかりでなく、お父さんのご心労も。相手側からの謝罪程度では許せないのであれば、慰謝料を求めて法的手続きをとることもできます。もしもその気がおありなら、お手伝いをさせていただきますよ。ただし、邦江さんたちが請求額に見合うほどのお金を持っているとは、到底思えませんけどね」
暗にやめておけと言っている。聡志も慰謝料請求など考えたこともなかった。その気はないことを伝えたのに続けて、念のため、奥多摩の恭子に会いに行っても良いかと尋ねた。
「それは、会うのは自由ですけど、本件について母親が恭子さんにどこまで話しているのか、曖昧な部分があります。言動には十分注意してくださいよ」
野口のどこまでも慎重で鋭い洞察力によって、聡志の気まぐれで思慮不足な性格はお見通しだった。聡志は次の横浜遠征が終われば、再度奥多摩まで足を伸ばすことに決めた。




