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第33話 邦江の告白(二)

 恭子が二度目の入院をしてから、落ち着いてお金の計算をしてみると、私には入院費を支払う余裕がありませんでした。途方に暮れるうちに、恭子の日記帳に書いてあったプロ野球選手の堂本さんと恭子とのかつての約束を思い出しました。そして、わずかな可能性にかけてみることにしたのです。

 私はその日の夜、井上に電話をかけました。始めは、私から直接堂本さんに要望書のようなものを送るつもりでした。しかし、恭子へのうしろめたさから、どうしてもできませんでした。それで、悪いとは思いましたが、井上に嘘をついて彼からあなたに送らせようと目論みました。

 私は、ありきたりの話では井上が動かないと思い、「恭子がデートの約束を強要されて夜も眠れないほど苦しんでいる」と事実とは異なる内容を伝えました。

 すると、井上は案の定、「大事な娘をもてあそぶ奴は俺が許さん。そいつは、恭子とどういう関係なんだ」と声を震わせて怒り始めました。

 彼は私の作り話をもとに過激な脅迫文を作り、しかも、要求金額は私が提案した額の何十倍にも引き上げていました。私は電話で文面を読んで聞かされたとき、要求の組み立て方がまずいと思って止めようとしましたが、怒り心頭の彼は私に一切意見を言わせず、すぐにあなた宛に送付してしまいました。

 その時点で、この計画は失敗したと思いました。井上が書いた脅迫文は要求が二段階で、謝罪文の受け取りが第一になっていたからです。あなたが一番よくご存知の通り、そもそも約束の強要という事実などないのに、謝罪文など届くわけがありません。

 子煩悩の井上が、お金を求めることよりも娘を守ることの方を優先したのは、冷静に考えれば予測できることでした。


 改めて申しますと、私は、あなたのことを心から応援してきた恭子が重い病気だという事実を知らせれば、少しくらい話の齟齬があろうとも、入院費か見舞い金くらいサッと振り込んでくれても良いのでは、という手前勝手な希望を持ちました。恭子が付き合うくらいの人なら、多少の思いやりくらいは隠し持っているだろうと想像して。

 でも心のもっと奥深くでは、そんな生ぬるい希望ではなく、「それがせめてもの罪滅ぼしなのだから」というおぞましい声が稲妻のように響き渡っていたのです。


 だって、あなたは恭子の目の前でヒットを打つと約束して以来、一度でも恭子に優しい言葉をかけてくれたことがありますか?


 日記帳の初めの方には、あなたがヒットを打てなかった翌日に、自分の無念さだけを恭子に聞かせて帰って行ったことが書かれていました。


 その翌週の日記は、ヒット祈願の折鶴をあなたにあげたことが話題の中心でした。恭子は毎晩、毎晩、遅くまで鶴を折っていたのです。日記帳の表紙には、自分で折った赤い折鶴をとてもていねいに貼ってありました。しかし、あなたは「家で飾る」と言って、折鶴の入った袋をカバンにしまっただけでした。


 雨の中でずぶ濡れになって応援した日もあったとか。その日は堂本さんと仲の良い友達と偶然会って話が弾んだそうです。初めて会った彼から、「濡れると風邪を引くよ」と優しく言われたことが嬉しそうに書かれていました。

 本当は、あなたからそんな言葉を聞きたかったのではないでしょうか。


 堂本さんが恭子の前で約束のヒットを打てなかったのは仕方がありません。一生懸命練習した結果がそうなっただけで、私はそんなところを責めたりするつもりはありません。

 ただ、恭子の日記帳には、あなたを気遣う内容の文言と、試合後に寂しく泣いて帰ったことばかり書いてあるのがかわいそうでなりませんでした。今日こそあなたがヒットを打ってくれる、とワクワクして出かけて行ったのに。


 岩国の錦帯橋のイラストだけが描かれている日もありました。私の想像では、二人で行きたかったのだと思います。あくまでも勝手な想像ですけど。あの子のことですから、きっと泣きながら描いていたに違いありません。


 好きな人とデートがしたくても、いつまで経ってもできない寂しさは、あなたも同じように感じていたことでしょう。

 しかし、何度もお好み交差点で恭子と会っていたのなら、ひと言くらい、いつも応援してくれている恭子にお礼や感謝の言葉を発することはできなかったのですか?


 繰り返しになりますが、あなたが恭子に優しく言ってくれた言葉など、詳しく書かれている日記帳のどこを探しても、ひと言も見つかりませんでした!


 あなたは、恭子の気持ちを察してくれたことがないのですか?

 恭子のことが好きだったのでしょう?

 違うのですか?

 私には、大事な娘が軽視されているとしか思えませんでした。

 そして、次第に堂本聡志という人間そのものへの憤りが……。

 いえいえ、もうこれ以上直截的に書かなくても、私を突き動かした本当の根っこは何だったのかが、ご理解いただけたと存じます。


 堂本さんは、さぞかし気分を害されていることだと思います。この一ページは破棄しようかとも考えましたが、井上があのような脅迫状を送付するに至った真相を語ることが私の責務ですから、このまま送らせていただくことにします。


 話を補いつつ、最後まで続けます。

 恭子は私から初めて飲酒暴力を受けて鎖骨を折った後、入院中にうつ症状が出ました。しばらく職場に復帰できなくなったことや、祖母の介護のこと、私の飲酒暴力、堂本さんに会えるような体ではないことなど、辛くて苦しいことばかりでストレスが溜まり、気分が落ち込んだのでしょう。

 現在はだいぶ回復してきたところで、脳の手術をしたのと同じ羽村総合病院の精神科に月に何度か通院しています。ですから、井上があなたに送った脅迫状に書いてある「うつ病を患って」というのは嘘ではありません。入院ではなく、通院ですけど。

 恭子の二度目の入院中に、私は井上を動かすのと並行して、親戚に入院費を無心しました。結果は全く相手にされませんでした。また私がお酒を買うお金に回すのだろう、と勘繰られたのは想像に難くありません。

 恭子はベッドの上で、

「お母さん、入院費は大丈夫?」

 と訊いてきました。病人がお金のことを心配していては、治るものも治りません。

「大丈夫。ちゃんと用意してあるから」

 安心させるために、その場ではそうとしか答えられませんでした。

 現実的な問題として、二度目の退院後、うつ病とリハビリの治療費の支払いが困難になりそうです。病院に無理やり頼み込んで入院費を月々の分割にしてもらいましたけど、その返済だけで限界に近いのです。


 思い起こせば、私はこれまで周りの人に迷惑ばかりをかけてきました。別れた夫や娘への仕打ち、親戚への無心。そして、今度はあなたへの無謀な要求。

 井上からもきつく叱られました。彼は、私が留守をしたほんの僅かな隙に恭子と直接電話をして不審を抱きました。それは、私のもっとも恐れていたことでした。恭子から電話を引き継ぐや否や、思い切り罵られました。その翌日、井上は奥多摩の家に飛んで来ました。その場で私は、彼に話すべきことはすべて打ち明けました。

 でも、恭子には、あなたに脅迫文を送ったことをどうしても話せませんでした。話せば、今度こそ親子のままでいられなくなることが自明だったからです。


 先日、恭子のリハビリの先生から、順調に回復してきたので、付き添いがいればどこか好きな場所へ行ってきても良いと許可が出ました。

 恭子は「カープの試合を見に行きたい。堂本君のユニフォーム姿が見られたらいいなあ」と願いました。それが今、恭子が生きて行く上での最大で唯一の生きがいなのだと知りました。

 私もぜひ観戦に行ってくるように恭子に勧めたのですが、すぐに「うん」とは言ってくれませんでした。あなたにあんな脅迫状を送ったことを恭子にうやむやにしたことで不信感が生まれ、私たちの間に溝ができているからです。それに加え、井上と私のせいで堂本さんへの申し訳ない気持ちが生じ、決心がつきかねていたのだと思います。 

 数日後、仲の良い看護師さんと一緒に行って来る、と聞いた時には正直なところホッとしました。もうすぐ東京で試合があるそうですね。チケットは病院の先生がもらった三塁側の招待券を回してくれたそうです。試合に出られましたら、ぜひ娘の前でヒットを打って活躍してくださるよう、心から願っております。もっとも、この手紙を読まれるころは、すでに試合が終わっているのかもしれませんけど。


 私は、恭子が病院に行った日に一人になって考えて、はっきり分かりました。こんな秘密を持った私が恭子を幸せにできるはずがない、と。世界で一番大事な娘に真実を伝えられないところまで堕落する前に、もっと早く立ち直るべきだったのです。今頃になって深い眠りから覚めました。

 これからは、自分にできる仕事を早く探して社会の役に立てるように頑張ります。お酒を飲むのをやめて一生懸命働く姿を見たら、恭子も喜んでくれるのは十分承知しています。私は、体が壊れるまで働く覚悟です。 

 お願いです。堂本さんには、それで償いとさせていただけませんでしょうか。勝手な話ですが、それ以外、私にできることは何もないのです。

 誠に申し訳ございませんでした。重ねて深くお詫び申し上げます。どうか、どうか、お許しください。

 末筆ではございますが、今後のご健康と野球でのご活躍を心よりお祈り申し上げます。

                                             敬具 

 

××××年九月八日

                                           宇田邦江

 堂本聡志様                                」


 長い手紙だった。その割には達筆のおかげか、読むこと自体に苦労はしなかった。ただし、母親としての感情が湧き上がったページは、手紙を読み終わるまで聡志の頭の中にまとわりついて離れなかった。

 聡志は過去に戻って高校時代の恭子にもう一度会いたかった。ヒットを打てなかった翌日にお好み交差点で会って、応援のお礼を心のこもった言葉で伝えたかった。

 そんなことを考えていると、いつも励ましてくれた恭子の姿が目に浮かんだ。恭子への愛しい思いがすぐさま胸によみがえる。その恭子はまだ治療が継続中だ。

 邦江の手紙に書かれていた「治療費の支払いが困難になりそう、入院費の分割支払いだけで限界」という内容が気になって仕方がない。つまり、病院に通えなくなるということなのか。恭子に会いたい。その願望を抑えることはできなかった。


 聡志は和室から出て、欣二に手紙を渡した。かなり衝撃的なことも書いてある。胸が締め付けられる部分もある。欣二が手紙を読み終わるまでしばらく待った。

「父さんにもずいぶん心配をかけたね。もう、これで終わりじゃ。野口弁護士との打ち合わせは、次回が最後になると思う」

 聡志が改まって頭を下げた。欣二は普段の几帳面な性格が嘘のようにバサバサと音を立てて手紙を折りたたんだ。

「聡志の言う通り、これで終わりじゃろう。弁護士の先生に、ようお礼を言わんにゃあいけんで。ところで、お前は、自分のことを単なる被害者じゃと思うとるんじゃあるまいな」

 欣二は聡志の目を見据えて言ったあとで、しばらく封筒から視線を離さずに呟いた。

「やっぱり、そういう性格は簡単には直らんということか」

 聡志が小学生のころ、人をないがしろにしてはならないと諭した記憶を、昨日のことのように思い出していた。


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