第30話 神宮球場での熱き応援
聡志が阿武二軍監督に提出した「勝利に向けてのあるべき姿」と題するレポートは、西出監督経由で各コーチにも回覧された。
中を読むと、まず、自己中心的にプレーした場面の振り返りと反省が、数ページにわたって書いてあった。
骨子の中心となる部分では、高校時代の野球部の監督が、「チーム一丸で勝利に向かおうとしない者は、この場から去れ」と部員に厳しく指導したことが挙げられ、今の自分への戒めとして引用されていた。
また、その叱責を受けた当事者の先輩は、猛省して裏方作業を積極的にこなし、やがて監督やナインに認められてレギュラーに復帰したという良き教訓が続いていた。
その一連に関する余談として、監督が言った「イチレンタクショウ」という意味がその場で分からず、あとで調べて勉強になったという聡志らしい一面も追加してあった。
最後のページは、プロの野球人としてチームの勝利のために、ファンのために、そして、自分のためにも、一から成長していきたい、云々という決意表明だった。
聡志が一軍に呼ばれたのは、レポートを提出してから一週間後の九月十日のことで、アウェーでの対スワローズ第一戦だった。ウォーミングアップから気合を入れていた聡志を西出監督が手招きした。
「堂本、レポートを読ませてもらったぞ。スタメン、ライトで七番だ。ファンに喜んでもらうためにも、ファイトあふれるプレーを見せてこい」
「監督、ありがとうございます。精一杯頑張ります!」
久し振りに一軍の試合に出られる喜びで無意識に笑みがこぼれ、全速力でライトの守備練習に向かった。
神宮球場の内野席の一階は段差が小さい。小柄な女性は前に座った人の頭と頭の隙間からグラウンドを覗くしかない。三塁側で大きな男性の後ろに座った恭子と付き添いで来た仲の良い増田愛里から見えるのは、バッターボックスではなく、サードやショート、セカンド、ライトの守備位置だけに限られた。そこしか見えなくても、その席は恭子にとっての特等席だった。
なぜなら、ライトには憧れの聡志がいたからだ。グラウンドの聡志に会えるのはいつ以来だろうと振り返った。聡志がプロ野球選手になってからは恭子も家庭のことでいろいろあったし、聡志も一軍と二軍とを行ったり来たりしていた。
本当は今日の野球観戦をやめようかとさえ悩んでいた。「行っておいで」と背中を押したのは邦江だった。恭子は邦江にそう言われるのは複雑だった。まだ二人の間にはわだかまりが残っている。
球場に行っても、聡志の姿を見ると嬉しい反面、うしろめたい気持ちが張り巡らされるのは分かっている。どうしても気乗りしなかった。
悩みに悩んだ末、チケットを返そうと決めて増田愛里のところを訪ねると、彼女は赤いポロシャツを買ってきたとのことで、初めてのプロ野球観戦を前に舞い上がっていた。そんな彼女に断わるのは忍びなかった。
恭子がうつむいて辛そうにしているのに対し、隣の増田は選手がマジックのように球回しをするのに見とれていた。
「ほらほら、恭子さん、下を向いてちゃもったいないわよ。内野手も凄いけど、ライトの十三番の選手が投げる球を見てごらんなさい。ああいうのを矢のような送球って言うのね。名前は知らないけど、カッコイイわあ」
増田はどこで調べたのか、観戦の必需品として双眼鏡を持参していた。
十三番と言われて自然と顔が上がった。守備練習をする聡志の動きだけを目が追った。増田からポテトのお菓子が差し出されたのにも気が付かない。肘でつつかれて、我に返った。
二人でポリポリと音を立てて食べる。無言で顔を見合わせて笑う。野球場にいる幸せを感じてやっと心に余裕が生まれた。
スタメンが発表され、聡志の名前がスコアボードの七番に載った時は、この世の悩みが吹っ飛んだように顔をほころばせて大拍手を送った。
国旗掲揚のあとで始球式が行われた。ゲストは若手ミュージカルスターの鈴本福夫だった。見事なストライクを投げて、客席に手を振りながらベンチに下がって行った。
さあ、いよいよ試合が始まる。
両チームの攻防が繰り広げられ、恭子は無心に聡志の姿を追い、憧れの人に心を奪われたまま、あっという間に時間が過ぎた。
「七番、ライト、堂本」
三十年以上担当しているベテランのウグイス嬢が出番を告げる。試合はすでに八回に入っていた。ここまで聡志にヒットは出ていない。恭子は増田の肩を借りてお尻を浮かせ、聡志の背中を見つめた。素振りを繰り返してネクストバッターズサークルから出て行く。
帽子のつばに手をやって、審判に軽く一礼した。
「さあ来い」
左腕を前から後ろに大きく一回転させて気合を入れて構える。このルーティンが高校時代から少しも変わっていなかった。
「堂本君、打ってね。打ってくれたら、私、……」
目頭が熱くなった。
恭子が最後まで言い終わらないうちに、聡志がいきなり打った。鋭い打球は右中間を襲って伸びている。息をのんで球の行方を追う。ライトが思い切り腕を伸ばして捕ったかに見えたが、足を滑らせて転び、球はグラブからこぼれ落ちた。
それを見た聡志はギアを上げた。体を左に倒して二塁ベースを走り抜け、恭子の方に向かって正面から全力で突進してきた。高速な球が聡志の背後から迫ってくる。
「走れ、走れ、走れ、走れ!」
恭子は足の痛みも忘れて完全に立ち上がり、腕を前後に振って夢中で声援を送った。球がビーンと音を立てて聡志の体を追い抜こうとする前に、スパイクのつま先が三塁ベースに到達した。
「セーフ!」
塁審が両手を左右に広げた。恭子と増田は思わずハイタッチを交わした。
聡志が軽くガッツポーズを作って笑顔を見せる。三塁コーチが近寄ってグータッチをする。ベンチでは監督を始め、みんながにこやかに拍手をしている。
聡志は歓声を上げて喜ぶレフトと三塁側スタンドに手を上げて応えた。大まかに見回すと、カメラのピントを絞るように一点に吸い寄せられた。立ち上がって祈るような姿の女性は、まさかの恭子ではないか。
周りのファンはほとんどが赤いユニフォームを着ているので、白いブラウス姿の恭子はよく目立つ。三塁コーチと何事か言葉を交わして、もう一度彼女の方を見た。今度は、はっきり目と目が合った。
聡志がこぶしを一度、二度、突き上げて白い歯を見せたのに対し、恭子もハンカチで涙を拭きながら微笑んで返した。球場のカクテル光線は、二人だけを照らすかのごとくまばゆかった。
そんな関係など何も知らないスコアボードは、無情にも「E」の文字を点灯させ、記録はライトのエラーとなった。
試合が終わってアウェーのチームが三塁側フェンスの前を歩いて退場する時に、熱心なファンから声援が飛ぶ。時には野次も浴びせられる。今夜は試合に勝ったこともあり、聡志は声援が多かった。その声の方に手を振りつつ、恭子のいた席の辺りに目をやったが、見つけることはできなかった。
その晩は宿舎のレストランで夕食を済ませ、早めに自分の部屋に戻った。久し振りの一軍での試合で心身ともに疲弊したというよりも、何年かぶりに恭子の顔を見た高揚感を街に出て冷ましたくなかった。
ベッドの上で大の字になった途端、自分と目が合った時の恭子の嬉しそうな顔が脳裏に浮かんだ。彼女がスタンドにいるのを始めから知っていたらホームランを打って見せたのに、と頭の中で強がりを言った。
そんな甘い感情に包まれるのと入れ替わるように、井上からの手紙が頭の中を駆け巡った。井上はそろそろ元妻に会えたのだろうか。どのような真実を掴んだのだろうか。




