第29話 奥多摩の秘密(二)
「ごめんなさい。奥多摩に引っ越して来てしばらくは、母に誓って一口も飲んでいませんでした。だけど、その母が認知症になって、ふっと気が緩んでしまったのです。お酒は一生やめようと思っていたのに」
「また酒くさい女に逆戻りか」
井上にしてみればうんざりだったが、相手にとってはひどい言われ方だった。
「それが原因で、安定した生活基盤が脆くも崩れ去り、いつの間にか必要なお金も底を突いたってことか」
恭子の体から判断して、まともに働けていないのは目に見えている。娘を傷つけないようにあえて遠回しに表現したつもりだった。だが、勘の鋭い恭子の胸に刺さっていた。病気のせいで家計を支えられない情けなさは身にしみて感じている。
それでもなお母親をかばった。
「お父さん、私は元気になったら思い切り働くつもりよ。それに、私、おかあさんを恨んだりしてないわ。この家で一緒に暮らしていたのに、お酒をやめさせられなかった私が悪いの」
あらぬ方向から返事が来た。井上は娘に強く言える立場ではない。
「は、働くったって、うつ病で通院してるし、半身が不自由だと電話で言ってたじゃないか。実際、動くのは大変そうだし」
「大丈夫。これでも前よりだいぶ良くなってきたから。そろそろ私にもできる仕事を探してみるつもり。ちゃんとした生活に戻るまで、もう少しの辛抱だから、ねっ、お母さん」
恭子はいたわるように優しく微笑んだ。邦江はついに話すべき時が来たことを悟った。井上に強く言われたからではない。こんな愚かな自分に対して、変わらず思いやりのある言葉をかけてくれる娘がいる。その存在が大きかった。
邦江は恭子の横を抜けて台所でお茶の用意を始めた。最初から重苦しい空気が漂い、それまでお茶を出すタイミングなどなかった。湯呑みを三つ並べながら、恭子が小さかったころのお茶の間を思い浮かべた。恭子が笑えば夫も自分も嬉しくなり、泣けば何倍も悲しくなった。いつも娘のことばかり話題にして、心はその都度揺れ動いた。
お盆にお茶を乗せて戻り、神妙な顔をしてちゃぶ台に置いた。井上が湯呑みを手に取ってひと口、ふた口啜った。邦江は井上にほんの僅かだけ受け入れられた気がした。
湯呑みを持つ井上の手元に視線を置いて、吹っ切れたように切り出した。
「それでは、正直にお話しします。お金に困っていることはあなたのおっしゃる通りです。あなたからいただいたお金は全額預金通帳に入れましたけど、残高はあと少ししかありません。手持ちの現金もそう長くはもちそうにありません。あとは二ヵ月に一回、母の年金が入るくらいです」
井上は過去のギャンブルをなじられた劣勢から立て直して、黙って偉そうに頷いた。邦江は横にいる恭子に体を向けて深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、私、ついつい恭子の日記帳を開いて読んだら、有名なプロ野球選手との高校時代からのことが書いてあって、手前勝手な希望を抱いて・・・・・・」
恭子は耳を疑った。そんな話は初めて聞いた。確かに、机の引き出しには鍵をかけていない。
「えっ、お母さん、私の日記帳をいつの間に読んだの?まさか、私の入院中に?」
恭子をそっちのけで、井上がフンフンと首を縦に振った。
「それで会ったこともない堂本さんから強引にお金を奪おうとして、例の内容をでっちあげたんだな。始めから俺に片棒を担がせる魂胆で」
井上から見ればそういう筋書きになる。
「なんですって?」
恭子は井上の言葉に驚いて邦江を睨んだ。邦江は慌てて首を振った。自分が悪いのは認めるにせよ、強引にお金を奪うという言い方はして欲しくなかった。
恭子が邦江を追及しようとしたところで、奥の部屋から祖母の苦しそうな咳ばらいが聞こえてきた。すぐに恭子が立って様子を見に行った。
「邦江、あの脅迫状のこと、恭子はどこまで知ってるんだ」
ひそひそ声で尋ねた。
「私は何も話しておりません。今、あなたから聞いたことがすべてです」
「そうだったのか」
二人はしばし沈黙した。邦江は、井上が訪ねて来てから、恭子に強い心理的ストレスがかかっていることが気になっていた。快方に向かっていたうつ病が悪化して、また眠れない日々がやってくることを懸念した。
恭子は祖母の痰の処置を終えて部屋に戻って来た。
「いつもすまないねえ」
邦江が軽く頭を下げた。恭子は返事をしなかった。
井上は冷静さを取り戻して邦江に促した。
「とにかく、今すぐ堂本さんへお詫びの手紙を書いてくれ。何よりもそれが先だ。彼も教えられた病院に行ったのなら、俺と同じようにお前の嘘を見破っていることだろう。だけど、それ以上のことを掴んでいるとは思えない。今のうちに誠意を持って真実を伝えれば、あの実直そのものの彼なら、きっと許してくれる。俺はそう思う」
恭子には何のことだか分からなかった。ただ、井上の言い方が気になった。彼と会ったことなどないはずなのに。
井上は、高一の時の恭子が母親について行くのを無理にでも引き留めておけばよかったとつくづく後悔した。
この先どうすれば恭子は幸せになれるのかと考えた。今の状態で母子を引き裂いて広島に連れて帰るわけにもいかない。娘が苦難を乗り越えるには、何よりも先に母親が立ち直ることだ。
だが、今まで自分がいくら言っても変わらなかったのに、いかにして立ち直るのか。どんなことでもいいから、本来の姿を取り戻すきっかけとなる、何かを見つけてくれることを祈るしかなかった。
井上は立ち上がって邦江の母親が寝ている部屋へ向かった。無言で会釈をしたあと、玄関で靴を履きながら、ズボンのポケットから茶色の財布を取り出した。入っていた五枚の万札を全部恭子の手のひらに押し付けた。愛する娘にできるのはそれだけだった。
「帰りの新幹線の切符は買ってあるから、大丈夫。早く元気になれよ」
恭子が返そうとする間もなく、井上は玄関の扉をサッと開けて宇田家をあとにした。
二人は再び茶の間に戻って座った。案の定、関係は気まずいものになっていた。恭子が放っておける問題ではない。聡志からお金を奪おうとしたことについて、邦江にきつく問い質した。それに対し、邦江はうつむいたまま絞り出すような声で、
「もうこれ以上しないから、恭子は心配しないでいいから」
と謝るばかりだった。
「それじゃあ分からないでしょ、ちゃんと説明してくれないと。私は、一生、堂本君に会えなくなるかもしれないのよ。お母さんはそれが望みなの?」
子どもが泣きべそをかくような顔をして訴えている。
「私は堂本さんから強引にお金を奪おうなんて、そんな気は毛頭なかったのよ。信じてちょうだい。あなたのお父さんが言っていたような筋書きは、私には存在しないの」
「じゃあ、何なの?ますます理解できないわ!」
邦江は打ち明けるべきかどうか悩んだ末、
「ごめんなさい。時間をちょうだい。必ず説明するから。ほんとうにごめんなさい」
と納得のいかない恭子に謝って、それ以上は口を閉ざした。恭子と聡志の本来の約束を曲げて脅迫したと白状すれば、恭子が絶対に許してくれないと思った。
邦江はすべてのことを告白しようとあれほど決心したのに、いざとなればできなかった。いつかは娘を持つ母親の胸の内を話す日が来ると信じたかった。たとえその心情は親のエゴだと言われようと。
恭子はいたたまれずにその場から離れた。外に出て他人に涙顔を見せるのも憚られ、ほの暗い自分の部屋に入った。倒れるように寝転んで天井の聡志に話しかける。
「お母さんは、『ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい』だって。なんだか分からないけど、私からもごめんなさい」
抗うつ薬の服用も忘れて眠りに落ちた。疲れていた。恭子にとっても激動の一日だった。




