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第28話 奥多摩の秘密(一)

 九月に入ってまもなくのこと、井上は、奥多摩の宇田家を訪ねていた。

 東京の青梅から帰って間もないというのに、再び出かけることになったきっかけは、井上が青梅昭和病院を訪問して帰宅後、怒りをこらえきれず邦江に電話をかけたことにある。呼び出し音のあとで電話に出るはずのない恭子が出たのだ。

 久し振りの父子の和やかな会話も束の間、井上が恭子の容体を尋ねたところ、自分が邦江から報告を受けたこととは明らかに異なる答えが返ってきた。

 何しろ、うつ病ではあるが入院するほどではなく、自宅から通院していると言う。邦江はなぜあんな出まかせを言ったのか。通院程度の症状では、堂本聡志を脅す材料にはならなかったということか。まだ何一つ納得できる段階ではなかった。

 恭子は、うつ病を発症したのは外科を退院する直前のことで、今は半身が不自由でうまく歩けない、と暗い声で打ち明けた。

 娘の胸の内が乱れているのは、表情の見えない電話でもすぐ分かる。病気や怪我をした我が身を憂うだけでなく、そうなった原因について話すのをためらっているのだと。

 井上は言い淀む恭子に忖度しつつ、そこまで追い詰めた「悪」を徹底的に憎んだ。電話では埒が明かず、イライラが募ってよろよろと倒れ込むように椅子に座った。

「お父さん、大丈夫?お父さん、お父さん!」

 井上から相槌や返事が来なくなったのを心配して何度も呼んだ。そこへ邦江が外から帰ってきた。玄関にも聞こえる大声に何事かと思えば、恭子が電話で叫ぶように父親に呼びかけていた。邦江は何も考えられず、体中が小刻みに震えた。

 恭子から受話器を受け取って「もしもし」と弱々しい声で電話を代わると、井上はハッとして目を見開いた。相手が邦江だと分かって、

「恭子から聞いたぞ、一体どういうことなんだ!」

 と居丈高に罵声を浴びせた。あとは荒い鼻息だけが続いている。邦江は恭子がどこまで喋ったかを確認することもなく、もうこれまでと観念した。

「ごめんなさい。電話じゃうまく話せませんから、直接会ってお話しします」

 それしか言葉が出なかった。声が震え、頭の回転が停止していた。

「それなら、明日、都合をつけてそっちへ行くから」

 井上は乱暴に言って電話を切った。邦江はその場に立ちすくんだ。受話器からは、プープープープーという繰り返し音だけが虚しく聞こえている。恭子が台所で麦茶を入れて持ってきた。邦江はやっと受話器を戻してコップを受け取ると、ゴクリと一口飲んだ。冷たい麦茶が喉から食道へと通過して行く。

「ありがとう。生き返ったみたい」

 恭子に礼を言いながら、奥多摩での飲酒暴力や聡志を恐喝するにいたるすべてのことを二人に告白する決心をしたのだった。


 ハンチングを被ったままの井上が家の中に入ると、特有のにおいがした。要介護者を在宅で介護する家は、どこも似たようなにおいがする。邦江の母親は寝た切りで、しかも認知症を患っていると教えられていたので、特に驚きはしなかった。

 話が漏れても理解できないのなら、あとは突拍子もない声を出して驚かせないことだ。三人はちゃぶ台と小さなテレビが置かれているだけの茶の間で、膝を突き合わせることになった。

 十年以上も前に裏返しをした畳は黄色に変色して、ところどころはげている。恭子が薄汚れた座布団を父親に用意した。

 井上は開口一番、

「お前を信用したばかりに、堂本さんに多大なる迷惑をかけてしまった。どう責任を取るつもりなんだ」

 と、声を低く抑えながら邦江を叱りつけた。

 次に、恭子のうつ病の症状を訊くために青梅昭和病院を訪ねたところ、そこは外科系の病院だったこと、しかもとっくに退院しており、入院の原因はうつ病ではなく、酔っぱらいからの殴打による鎖骨骨折だったことなど、井上が邦江から聞いていた話は嘘ばかりで、とことん騙されていたことへの怒りをぶちまけた。その間、邦江は一切否定も言い訳もせず、頭を下げ続けた。

 続いて、恭子の足の動きがぎこちないことについて話が及ぶと、母子は顔を見合わせて頷き合った。ここにいたって隠し立てなどしても始まらない。

 邦江は、恭子が青梅の病院を退院して五日後に、酔って酒瓶を振り上げ、逃げる恭子が頭から玄関のたたきに落ちたことを明かした。それが原因で手足が麻痺しており、今でもリハビリに通院していると震えながら説明したところ、井上はいよいよ抑えがきかなくなった。

「何てことだ!」

 膝立ちになり、邦江の首に手を伸ばして前後に揺すり始めた。首がむち打ちのようにしなった。恭子がびっくりしてその手を掴み、外に聞こえるほどの大声を出した。

「何をするの、お母さんを殺さないで!」

 その一声で我に返った井上は慌てて手を離し、再びあぐらをかいた。奥の部屋から、

「殺さないで、殺さないで」

 と声がして、すぐ静かになった。

「だから、通院しかしていないことが分かってしまうから、あなたに訊かれた時に本当の病院名は言えなかったんです。苦し紛れに口から出たのは、前に入院していた青梅昭和病院の名前でした。ごめんなさい。もう、いっそのこと、死ぬまで私の首を絞め続けて、この世から消してください」

 邦江はゴホゴホと咳をして、その場で泣き崩れた。恭子は母親の震える肩を抱き寄せた。邦江の息が収まってきたところで、父親に抗議の視線を向けた。

「お父さん、お母さんがお酒にのめりこんだのは、もとを正せば、家にお金がなかったことから始まったんでしょ?その原因は、お父さんがギャンブルばかりしてたからよね。違うの?」

 恭子が初めて本心をぶつけた。普段の優しい話しぶりが珍しく強い口調になって、自分でも耐えきれず涙をこぼしている。小学生のころ、母親が親戚の叔父さん、叔母さんに頭を下げて泣いていたのを覚えている。だいぶあとで知ったことだが、父親は当時パチンコやボートレースに嵌っていて、家にはほとんどお金を入れなかった。

 母親は僅かなパート収入だけでは生活を支えきれず、その都度金策に走っていた。

「あのころの自分はどうかしてたんだ。迷惑をかけたことは、あらためて謝る」

 井上は今になって娘からギャンブルのことでなじられるとは、思ってもいなかった。アルコール依存症の邦江に謝るというより、破滅的な人生になりかけている恭子に申し訳ないという気持ちの方が強かった。神妙な顔をして邦江に訊き直した。

「こっちに来てからは、酒をやめることができたと聞いていたのに、違ったのか?」

 恭子はうつむいて、自分が責められているかのように辛そうにした。重たい時間が流れた。スイッチの入っていないテレビの画面にぼんやりと三人の影が映っている。

 邦江が重い口を開いた。



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