第27話 勝利に向けてのあるべき姿
聡志は野口に連絡をして、急いでタクシーを呼んだ。弁護士事務所に着いたのは、事務員が定時で帰ったあとだった。テーブルの上には、あらかじめお茶のペットボトルが二本置かれていた。
野口は手紙を読んでいる途中で、一度目を離し、「え、依存症、奥さんの方?」、「それで文字が揺れてるのか」などと時々呟いた。
ペットボトルの蓋を開けるや否やゴクゴク飲んで続きを読んだ。最後まで読み終えた手紙をテーブルの上に置いて、開口一番、聡志に矛先を向けた。
「あなたは、井上氏に会いに行ったのですね。なぜ私に黙って軽率な行動をとったのですか」
苦々しい顔で聡志を睨んだ。確かに好奇心だけで出かけたのはまずかった。聡志は己の軽薄さを反省しつつ、言い訳を試みた。
「いえいえ、会いに行ったのではなく、彼の家に行ってみたら偶然見つかったといいますか、台所の窓から声をかけられて……」
苦し紛れに「遭遇」の説明をしているうちに、しどろもどろになった。
「結果的に会っているのですから、同じことです。しかも、脅迫状の内容にまで踏み込んだみたいですね。下手なことを言うと、揚げ足を取られますよ。要求事由が加わることによって、金額が上乗せされるリスクだって生じるんですからね。相手の都合のいいように利用されてもいいんですか?」
弁護士バッジで圧力をかけてくる。こうなれば平身低頭して謝るしかない。
「井上氏との話の成り行き上、言うべきことだけは強い口調で言いました。新しいことは何も口にしておりません。しかし、先生がご指摘の通り、脇が甘いと言われればその通りです。弁解の余地もございません」
野口は依頼人からの謝罪を受けることが仕事ではないにしろ、お互いの間で一定の了解は必要だ。聡志に「お茶どうぞ」と穏やかに勧めて自分もペットボトルの残りをゆっくり飲んだ。
「もう済んだことは仕方がないですけど、今後は気をつけてください」
二度と勝手な真似はするなと釘を刺してお小言は終わった。この雰囲気の中、奥多摩と青梅の病院にまで足を伸ばしたことは、口が裂けても言えなかった。
「とは言え、あなたの冒険によって、解決に向けての歯車が動き始めたことも事実です。虎穴に入らずんば、ってやつですかね。私としては不本意ですけど、この手紙は代理人の私宛ではなく、言い争ったあなた宛に直接送られてきたのですから。ひょっとすると、井上氏は、あなたが自分の家に来たのをかばうために、私には極秘裏にしたかったのかもしれません。本当にそうなら、凄いですよ。代理人を置いている意味合いがよく分かった人だと思います。でも、あなたはそんなことには無頓着に私のところへ持ってきてしまった」
「じゃあ、この手紙は届けなかった方が良かったということですか?」
野口は、これくらいのことで機嫌を損ねる男ではないと思って、冗談交じりで皮肉を言ったことを後悔しつつ、慌てて取り繕った。
「いえいえ、そういう意味ではありません。それどころか、貴重な情報をありがとうございます。今の話は聞かなかったことにしてください」
聡志が追及してこないことをいいことに、手元の手紙に視線を戻した。
「これを読む限りでは、井上氏は要求を取り下げるつもりなのでしょう。ただし、陰で井上氏を操っていた元の奥さんがどう動くのかが読めません。全貌が明らかになるかどうかのカギは、そこだと思います。とにかく、これまでのところでは、いまだに脅迫状を送って来た肝心な動機が掴めていません。私が経験した訴訟を顧みても、極めて珍しい案件だと断言できます。やはり、もう少し時間がかかりそうですね。あなたは私に任せて野球に打ち込んでください。早く一軍に戻って活躍されるよう、期待していますよ」
まだ皮肉を言ったことが気にかかっているのだろう。上げたり下げたりしたあとに、応援メッセージが付いてきた。
現時点で聡志が最も関心があるのは、母親の脅迫の動機よりも恭子の体のことと、恭子が本件にどこまで絡んでいるのかだった。奥多摩で見た恭子らしい女性のことがまた脳裏に浮かんだ。だめだ。今は野球に打ち込まなければ。聡志は気持ちをキュッと引き締めて事務所を辞去した。
それからの聡志は二軍の試合で見違えるようなハッスルプレーを連発し、ヒットを量産した。ようやく一軍に呼ばれそうになったころ、八月三十一日に由宇練習場で行われた阪神戦を西出監督が視察に訪れた。
その試合はもつれ、阪神が七対六でリードのまま、九回裏のカープの攻撃を残すのみとなった。ツーアウト、ランナー一塁でバッターは聡志。この試合でも好調で、仕事で多忙な一樹が応援していなくても、ホームラン、シングル、スリーベースと四打数三安打で猛打賞を確定させていた。
「堂本、あとは、ツーベースでサイクルだ。頼んだぞ」
「ここで打たなきゃ、男じゃない!」
人気者だけに、応援もあれば野次も飛ぶ。二軍戦のスタンドは観客もまばらで、大声を出すと、そばの人だけでなく遠くにいる選手にも丸聞こえだった。
ピッチャーがワンストライクから投げた二球目、外角低めに沈むスライダーをバットが先っぽで捕らえた。カツンと音がして、フワフワッと上がったフライがファーストとライトの間に落ちてフェアになり、ファウルグラウンドへ転がっていった。一塁ランナーは打った瞬間からスタートして長駆ホームを目指すも、まだ三塁ベースを蹴ってホームへ向かう中間地点。
タイミングからすれば、アウトかセーフか微妙なところだ。ライトは球を拾ってバックホームかと思いきや、聡志が二塁に向かっているのを見て、ベースカバーに入っていたショートに矢のような送球をした。二塁ベースへ滑り込む前にショートが球をつかんでタッチした。
「アウトー」
塁審のドスの効いた声が響き渡った。続いて主審がゲームセットの宣告をした。
一塁ランナーがホームインする前に、聡志がアウトになったのだ。阪神のベンチからは、盛んに「ナイスプレー」と声が飛んだ。
試合後、聡志はベンチ前のミーティングで二軍監督の阿武から喝を入れられた。
「一軍のベイスターズ戦での怠慢な走塁に加え、なんてざまだ!お前が二塁を狙わなかったら、同点になっていたかもしれないんだぞ。自分の記録より、チームの勝利を最優先に考えろ!」
聡志の考えの甘さが浮き彫りにされた。阿武監督が叱責したもう一つの意図は、何とかアピールしたい二軍の若い選手たちに、チームプレーの重要性を再認識させることにあった。
視察に訪れていた西出監督は、体にキレの戻った聡志の復活を間近なものと踏んだ。阿武監督とミーティングを行った結果、聡志を次の遠征には帯同させず、一軍の試合をスタンドで見学させることにした。
その日の一軍のナイトゲームで、聡志は紙屋の背番号の入ったユニフォームを着て、一樹と共にライトの外野席に座った。黒縁の眼鏡をかけていたため、誰も堂本選手だとは気が付かない。
二人でスクワット応援に参加した。観客との一体感が生まれて心地良い。老若男女の区別も無く、声を枯らして応援する。選手が全力で投げて、打って、走って、守って、勝てば満面の笑顔で大喜び。ファンが何を一番求めているのかが、手に取るように分かった。
聡志は地元での三試合を観戦後、「勝利に向けてのあるべき姿」についてレポート用紙二十枚にまとめて阿武監督に提出した。




