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第26話 井上からの詫び状

 横浜での三連戦は激しい打ち合いで始まった。第一戦は八対七でベイスターズの勝利。第二戦目のスコアも八対七で、今度はカープが雪辱を果たした。野球の試合で一番面白いのは、八対七のいわゆるルーズベルトゲームだと言われている。

 第三戦もその流れで打ち合いかと思いきや、一転して好投手の投げ合いになった。一対〇でベイスターズがリードのまま迎えた九回表、カープの攻撃。ツーアウトでランナーは一塁に代走の聡志がいた。

 バッターは四番の紙屋。大きいのが出れば一打逆転の場面だ。相手投手は抑えの切り札、海崎がマウンドに上がっていた。ここまで十試合連続セーブ中で波に乗っている。

 海崎が振り被って第一球を投げた。紙屋が振り抜いた打球は高く舞い上がってライトポール際へ飛んだ。飛距離は十分。あとはフェアかファウルか。なんと、右回転がかかった打球がポールの最上部を越えていった。一塁塁審は少し間を置いて両手を上げた。ファウルのジェスチャーだ。

 実況をしていた地元テレビ局のアナウンサーが思わず唸った。

「あと、ほんの五十センチ、いえ、三十センチと言っても良いでしょう。あれがフェアなら起死回生の一発というところでした。いやあ、ベイスターズは命拾いをしましたね。おっと、ここでカープの西出監督がリクエストを要求しました」

 審判団がいったん退場し、バックスクリーンにビデオ映像が流された。角度を変えて何度見てもポールスレスレで、その度に両チームのファンから溜め息が漏れた。審判団は検証時間制限の五分ぎりぎりになってグラウンドに現れた。注目を浴びる中、責任審判がファウルのジェスチャーをして、最初の判定を覆すことなく試合続行となった。

 画面を食い入るように観ていたベテランの解説者も苦笑いをした。

「うーん、どちらに判定されても文句は言えませんね。これはもう、人間の判断としては、限界を越えています」

 ベイスターズファンは胸をなでおろしながらも、カープファンに同情したくなるようなコメントだった。球場で観戦しているファンはいまだに興奮が冷めやらず、場内のざわつきはしばらく収まらなかった。

 審判がそれぞれの持ち場に戻って試合が再開され、ピッチャーの海崎は伝家の宝刀、フォークボールを投げ込んだ。ところが、力んだせいかベースの手前でワンバウンドして、キャッチャーの頭の上を越えた。ボールはバックネットへ向かっている。

 一塁ランナーの聡志は楽々と二塁へ進むものと誰もが疑わなかった。その時、実況が「あっ」と驚きの声を上げた。カープサイドにはまたもや運が悪いことに、ボールがフェンスで勢いよく跳ね返ってきたのだ。素早くミットに収めたキャッチャーが二塁へ矢のような送球をした。

 スタートが遅れ、ゆっくり走っていた聡志は、ベースの三歩手前でタッチされてゲームセット。カープにとっては、逆転ツーランホームランの夢を見た矢先、最悪の幕切れとなった。

 聡志は試合終了後に監督室に呼ばれ、ここ数試合での低打率に加えての怠慢プレーを叱責された。弁解の余地などあるはずもなく、必然的に二軍行きを命じられた。

 八月二十四日に失意のどん底で広島に帰って来た聡志を迎えたのは、井上からの三通目の手紙だった。それは代理人の野口宛ではなく、聡志宛てで二軍の寮に届いていた。


「前略 先日堂本さんにお会いした時には、こんなお詫びの手紙をお出しすることになろうとは、思いもよりませんでした。しかし、今となっては正直にこちらの非を認めざるを得ません。何の心の準備もできていないまま、予期せぬあなたの訪問を受け、無礼なお話を申し上げましたこと、大変恐縮しております。本当に申し訳ございませんでした。

 あの時は、邦江の話が正しいものと信じ切っていたのです。それが間違いだったということをこれから順を追って説明させていただきます。


 私はあなたとお会いしたあとで、すぐに奥多摩の家に電話をしました。あなたが恭子に一方的に強要したりなんかしていない、とおっしゃったことを念のために確認しておきたかったことと、恭子の体の症状を詳しく聞きたかったからです。

 電話に出た邦江は、堂本選手からの約束の強要は事実だと言い張りました。続けて、恭子は重症だから当分退院できそうにない、病院に電話をしてもうつ病の入院患者には取り次いでくれない、人に会うとストレスになるから面会に行ってもいけない、自宅は祖母が寝たきりでしかも認知症なので介護で忙しい、何かあったときは、こちらから電話をするので絶対にかけてこないで欲しい、などと機関銃のように言って、あっさり切られてしまいました。

 私は居ても立っても居られなくなり、胸が張り裂けそうな思いで東京の青梅昭和病院に向かいました。重症の娘に会えないなら会えないで、せめて父親として担当の医師から直接病状を聞こうと思ったからです。

 けれども、現地で確認した病院には整形外科、外科、リハビリテーション科しかありませんでした。どう考えても、うつ病の患者が入院するような病院ではなかったのです。おかしいと思いながらも受付に行って、田舎から出て来た父親だと告げると、娘は一か月前に退院したとのことでした。それなら担当の医師に会わせてくれ、と強く迫って、私は帰ろうとはしませんでした。すると、しばらくして奥の応接室に案内されました。なんと、娘はうつ病などではなく、何者かに物で殴られ、骨折して救急車で運ばれてきたということでした。かわいそうに、鎖骨が折れていたそうです。

 医師は誰に殴られたかは言いませんでした。事件の詳細は彼の預かり知らぬところであり、たとえ知っていたとしても職業倫理上、守秘義務の観点から当然のことです。でも、その日のことをまざまざと思い出したのか、ふと、相手は酔っていたと漏らしました。それで私にはピンと来ました。

 あなたはたぶん驚くでしょうけど、恭子の母親はアルコール依存症なのです。酒を飲むと鬼のような形相になって、手が付けられなくなります。恭子は酔っぱらった邦江に襲い掛かられたのに違いありません。そう言えるのは、私もかつてビール瓶で頭をやられたことがあるからです。

(余談ですが、頭頂部に傷跡が残っております。その後遺症で麻痺が起こり、いまだに文字を書く時に手が震えます)


 邦江は結婚前に付き合っていた当時は心が穏やかで、隠し立てなど一切しない女性でした。それが、お酒を覚えてからは、性格が変わったかのように昔の面影を失くしてしまいました。私はきつく言って断酒させようとしましたし、子供のこともあるからと一晩中、膝を突き合わせて言い聞かせたこともありました。それでも飲むのをやめられませんでした。

 ある晩、邦江から私への暴力が始まった時は、どうしても腹に据えかねました。思わず横っ面を張ってしまいました。私はそれ以上の暴行はしませんでした。その場にいた恭子に泣いて止められたからです。私も泣けるものなら泣きたい気分でした。

 そんなことがあってもまだ治らず、アルコール依存症の専門外来を受診させました。病院に行くことを決心させたのは、恭子の「お母さんの病気が治れば嬉しい」のひと言でした。

 通院し始めてからは、しばらく断酒しました。しかし、もう大丈夫かと思ったところでまた再発して、完治はしませんでした。その繰り返しによる飲酒暴力との同居に耐えかねて、私はついに別れる覚悟を決めたのです。

 それにしても、まさか自分の娘まで殴っていたとは。子どものころの優しい母親に戻ってもらいたいと願い、故郷でのすべての関係を絶って奥多摩について行った娘までも。


 振り返りますと、私は邦江からの久しぶりの電話で、恭子が堂本選手に脅されている話を聞いて怒りに震えました。あなたに謝罪させなければと思い、邦江に吹き込まれたことを鵜吞みにして最初の内容証明を出しました。

 あなたに送った二回目の書面には、邦江が自信を持って強く言うので盲従してしまい、罪人に懲罰を与えるような語調で書いてしまいました。

 恭子が入院している病院名と奥多摩の住所を添えたのは、「嘘だと思うなら、なんでも調べてみろ」という思いからでした。その時点で邦江が出任せの病院名を言っているとは露知らず、私には、なんらやましいところはなかったのです。

 ところがどうでしょう。結果的には藪蛇になってしまいました。あなたもすでに青梅昭和病院に行かれたのでしたら、嘘を見破っておられることと思います。

 私が邦江に信じ込まされた「約束」の内容も、その病院に行ったあとで嘘だと認識しました。あなたが強く否定する姿がよみがえって、邦江を信じる気持ちが失せたのです。

 私自身が邦江に騙されて、確かめもせずに内容証明を送り付けてしまったことは慙愧に堪えません。堂本さんを脅迫するに至った元凶については、奥多摩の家に重大な秘密が隠されているはずです。こうなったからには恭子からも事情を訊き、否が応でも邦江を問い詰めて必ず真相を突き止めます。それまで、もう少し時間の猶予をいただけませんでしょうか。

 多大なるご迷惑とご心配をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。」


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