第25話 奥多摩の謎
八月のお盆からの関東遠征は、東京、横浜での九連戦で長い間広島を留守にすることになった。
スワローズ、ジャイアンツとの六連戦が終わって、横浜に移る前に丸一日時間が空いた。聡志は恭子がうつ病で入院している病院を知った以上、じっとしていろと言われても無理だった。野口に許可を取らない後ろめたさは、無性に会いたい欲望に完全に追いやられていた。
当日の時間はたっぷりあった。病院へ見舞いに行く前に、彼女が広島から引っ越した家を見ておくことにした。優先順位の高い見舞いを後回しにしたのは、奥多摩の自宅や庭のたたずまいの中で、元気なころの懐かしい恭子の姿を感じ取っておきたかったからだった。直接病院に行って、いきなり変わり果てた恭子の姿を見るのはあまりにも辛過ぎた。
宿舎のある品川から奥多摩へ行くために、立川から先は青梅線に乗った。リュックを背負ったハイキング客は皆、自分より幸せそうに感じる。自分のような複雑な悩みは抱えていないのだろう。
奥多摩駅でバスに乗り換えた。家にいるのは面識のない母親か祖母だろうから、家の前で顔を合わせたとしても怪しまれないように通り過ぎれば良い。そう考えてバスから降りた。
玄関や塀に貼ってある番地を確認しながら目的の家を探した。ひなびた家並みの外れに、ざくろの木が生えている家が見えてきた。番地の順で行けばたぶんその家ということになる。舗装された緩い坂道をゆっくりと上って行く。家の前に来て、もう一度番地をメモと照合した。予想通りそこで合っていた。
表札は宇田になっている。もらった手紙には毎回恭子としか書かれていなかったけれど、今の名字は宇田だと知った。
実際に家まで来てみると、お好み交差点で待ってくれていた恭子がこんなに遠くまで来て生活しているのが信じられなかった。ここで暮らす元気な姿を思い描くのは無理だと悟った。それは、これまで住んでいた町の人通りや車の量、賑やかさとの比較の中で恭子を今の場所に置くことができないからではない。ほとんど意識していなかった自分との地理的な距離感をまざまざと感じさせられ、寂寞感に打ち勝てなかったからだった。
しばらく自宅と庭を眺め、魂が抜けたようにぼうっと立っていた。すると、玄関の扉が開き始めた。咄嗟に隣の家の塀に隠れた。出て来たのは母親の邦江と思われる女性で、買い物袋を持って、聡志の居場所とは反対方向にヨタヨタと歩いて行った。家の中は電気が点いたままだった。
それから少しして、今度は若い女性が足をひきずりながら出て来た。畑のネギをひょいと抜いてまた家の中に入って行く。時間にして一分も経っていなかったが、強烈な印象が残った。恭子に酷似していたのだ。おかしい。脅迫状からすれば、恭子は病院にいるはずだ。
ひょっとして、双子?状況が判然とせず、頭の整理がつかないまま帰りのバスに乗った。電車に乗り換えてからも彼女の姿が頭から離れなかった。あの女の人は一体誰だったのだろう。消化不良のまま電車から降りて、恭子が入院している青梅昭和病院に向かった。スマホの地図で見ると駅から真っすぐ歩いて十五分くらいのところだ。
歩きながら事実関係をまとめることにした。まず、脅迫状を送って来た井上丈太郎は彼女の父親で間違いなかった。書かれている内容については元妻に聞いた嘘の丸呑みである。人柄は基本的に穏やかだったが怒ったときは急にムキになる。
恭子からの手紙には、飲酒による家庭内暴力に起因して、両親は仕方なく離婚したと書いてあった。別れ際に父親が自分の肩を抱いてくれたとも。
今日行った奥多摩の家では、庭にあるざくろの木が収穫期を前に実を膨らませていた。畑にネギが植わっており、恭子によく似た若い女性がそれを採りに出て来た。庭の景色を思い浮かべると、逆さまになった茶色の酒瓶が所狭しと埋められ、畑を仕切っていた。
聡志の頭に電流が走った。
「もしかして!」
思索にふけっていた聡志に戦慄が走り抜けて、突然立ち止まった。後ろから来た自転車が、キイーっと急ブレーキをかけた。もう少しで転ぶところだった。
「ご、ごめんなさい」
頭を下げて詫びる横を若い男が迷惑そうな顔をして通り過ぎて行く。
何かが分かりかけた気がしたのは一瞬のことだった。「父が素手で母の頬を引っぱたくのを見て、それ以上の暴力を泣いて止めた」と恭子が手紙に書いていたのを思い出して、また混乱した。
どっちが、どっちなんだ。
手元のスマホは、目的地までもうすぐだと教えていた。
数分後に目当ての青梅昭和病院に着いた。外壁が緑色に塗装されていて、その辺りではよく目立つ建物だった。聡志は入口に立って、病院を間違えたかと疑った。そこは脅迫状に書かれていたうつ病の患者がかかる病院ではなかったからだ。
小首を傾げながら中に入って面会の申し込みをすると、カウンターの女性職員が聡志の顔を見るなり小声で話し掛けてきた。
「失礼ですが、広島カープの堂本選手ですよね?」
コクンと頷いて、世間に顔が知られてきたのを実感した。顔がばれた以上、面倒なこと
にならないかと不安になった。お見舞いに来たのが井上に分かったら、事実をもみ消すために口裏合わせをしに行った、などと言われかねない。せっかくここまで来たのに、今になって恭子に会うべきかどうか逡巡した。
そこへ、パソコンで調べていた職員がささやいた。
「患者さんの個人情報は、通常は一切お教えできないのですが、堂本選手だから特別に。でも、絶対に内緒ですよ。ええっと、この方なら、今日が八月二十日だから、ちょうど一か月ほど前に退院しておられます」
「え、退院?しかも一か月前?」
狐につままれたような顔で立っていると、続けてこう告げられた。
「実を言いますと、昨日もその方の面会にいらした方があるんですよ。しかも、遠方から。特別なご関係だったので退院したことをお話しすると、絶句しておられました」
「そうなんですか。どんな方でしたか?」
「中年の男性でした。医師と会わせろと言われて、ほとほと困りましたけど・・・・・・。はい、もう、そこまでで勘弁してください」
遠方、中年と聞いて、聡志の頭にサッと井上の顔が浮かんだ。今から十日ほど前に恭子の入院先をこれ見よがしに書いてきた相手が、なぜ一か月も前に恭子が退院したことを知らなかったのだろうと訝った。
女性職員に礼を言って、のそのそと出入口へ向かった。自動ドアのところまで来たところで、後ろから走ってくる靴の音がした。
「あのう、サイン、いただけませんか。私、あなたの大ファンなんです」
情報提供の代わりにねだられたのでは、無下には断われない。証拠が残らぬようサインの代わりに握手で許してもらい、駅までの道を思い切り走った。
入院しているはずだった病院にうつ病の診察科がないのはなぜなのか。
しかも、一か月前に退院したのであれば、井上から届いた返信とつじつまが合わないし、井上自身も退院したことを知らなかった。と、いうことは、いったいどういうことだ。
混乱した頭をもてあそぶかのようにぬるい風が頬を撫でた。




