第24話 井上丈太郎との遭遇
広島での六連戦が終わったあとの八月中旬、神宮球場でのスワローズ戦に向かうための移動日があった。聡志はその日の午前中を利用して、好奇心から井上の自宅を見に行くことにした。まだ実家に置いてある通学用の自転車は、水を得た魚のように快適に走った。
例のお好み交差点から恭子が帰って行った方へ曲がって、そこから先はアジサイの木を横目に見ながらノロノロと進んだ。封筒に書いてあった番地まで来て自転車を降りた。二階建てで八世帯が暮らす住宅が目の前にある。恐る恐る玄関ドアに近づいてみると一号室の表札に井上と出ていた。
「ここか、悪の巣窟は」独り言を発した。通気のためか、玄関ドアがストッパーで三十センチほど開いていた。中を窺おうとした時だった。
「どなた?鍵はかかってないから、どうぞ」
台所の窓から声がした。
「あれ、カープの堂本選手じゃない?」
こわごわ見に行った井上の家で、あっさり見つかってしまった。マスクやサングラスなどで変装をしておけば良かったとあとになって後悔した。てっきり怖い顔で怒鳴られるかと思いきや、網戸越しの相手は意外にも落ち着いた感じの話し方だった。まさか、この人があんな乱暴な脅迫文を送りつけてきた男と同一人物だとは思えなかった。
聡志が玄関に入ろうとしないので、彼の方から外に出てきた。薄茶のシャツに綿パンを履いた飾り気のない格好で、頭頂部を隠すように深めの茶色い帽子を被っている。近くに公園があるからと誘われた。少し歩くと高いポプラ並木のある大きな公園があり、適当な間隔でベンチが置かれていた。
ここなら目立たないし、他人に話を聞かれることもない。
「堂本さん、うちに来たのは、二通目の手紙を読んだからだよね?弁護士からの返事より先に、当事者のあなたが直接顔を見せたのには驚いたな。今日はたまたま振替休日で家にいたけど、他の日なら仕事でいなかったよ。弁護士を通さず、何か私に直接言いたいことでもあって来たの?」
不思議そうに訊いている。送ってきた文面ほどの怒りは前面に出さないまでも、暗に筋を通せと言っている。井上の言う通り、代理人を立てているならば、当事者同士が直接交渉するべきではない。
聡志は何と答えようかと逡巡した。こういうときは嘘をついてはいけない、と思うより先に口から出た。
「お宅の近くに行きましたのは、好奇心によるものです。行ってみるだけで、すぐにカープの寮に帰るつもりでした。ただ、それだけです」
言ったあとで、そんな木で鼻を括ったような答えでは到底納得してもらえないと思った。もう少し詳しく説明しようと頑張った。
「実を言いますと、この先の交差点で、部活の帰りに恭子さんとよく会っていて、手紙に書かれていた、お好み町という住所が懐かしかったのです。それで、ちょっと近くまで訪ねてみようと思いまして……」
井上は聡志が娘と会っていたことを認める発言をしたことで、自分の訴えをおおよそ認めたものと受け止めた。それで気を許したのか、偽りのない心情を語り始めた。
「あんな内容証明を出しておいて、こんなことを言うのも気が引けるのだけど……。私は、別れた妻の邦江に教えられただけで、本当のところは何も知らないんだ。ただ、あれが事実なら、入院中だという恭子が哀れでね。何とかしてやりたいという一心で、娘のためだけを考えて送ったんだ」
そこでいったん口をつぐんだ。何かを思い出すようにポプラの木のてっぺんに視線を向けて、また話し始めた。
「私は、若いころはお金のことで妻に苦労をかけたけど、改心して貯めたお金のほとんどを別れた妻に渡したんだ。私が気に掛けているのは娘の恭子のこと。恭子には幸せになって欲しい。手塩にかけて育ててきたし、性格的にも優しい子だ。母親について東京へ行くと聞いたときは、泣く泣く希望通りにさせてあげたけど、辛い思いをしてるんじゃないかと思うことがあるんだよ」
木製のベンチは座っていても柔らかかった。公園の緑の木々とよくマッチして、ゆったりとしたくつろぎを与えてくれている。聡志は、恭子とデートをすれば何時間でも楽しく過ごせる場所だろうと想像した。
井上も娘の恭子のことを愛しているのがよく分かった。感情と現実の問題とが交錯し、あってはならないことだが、親近感が湧いてきた。
「そうなんですか。離婚による家族離散で、恭子さんも井上さんも大変な思いをされたんですね。知りませんでした。恭子さんが今も辛い思いをしているのだとすれば、僕も辛いですよ」
素直に同情の意を示したのにもかかわらず、井上はそれを聡志の自責の念と捉えた。一歩踏み込んだ核心の懺悔を聞いたことで、それまでの柔らかな態度での会話が嘘のように、心の奥で煮えていた怒りが噴出した。
「堂本さん、私も地元のカープファンだから、こんな問題が起こるまではあなたのことを応援してたんだよ。それなのに、いくらうちの娘が従順だからといって、なぜあんな約束をさせたんだ!」
家の前で会った時の穏やかな顔が一気に険しくなっている。聡志は井上の突然の様変わりに愕然とした。
「井上さん、先ほどは、あの書面の内容は別れた奥さんに頼まれただけで何も知らないと言ったじゃありませんか。やはり、あれを信じてるんですね?あんなでたらめなことを書いて脅迫を続けていると、大変なことになりますよ!」
あらぬ疑いをかけられたままでは黙っていられなかった。一気に畳み掛けるように口調がきつくなるのを自覚した。心臓が激しく脈打っている。
井上が次の反撃を始める前に間が少し空いて、野口弁護士に隠密で来ていることを思い出した。ここは冷静にならねばと自制しつつも、まだ胸の中はくすぶっていた。
「本人を目の前にして言い難いんだけど、娘がかわいければ娘の側に立った話し方になるのは当然のことだろう。その言い方だと、堂本さん、あなたは恭子と会っていたことを白状したばかりなのに、謝罪するどころか、内容証明に書いてあることには心当たりがないとでも言うのかい?」
相手は一歩も引くことなく攻めてくる。だがそれは、事実を歪曲した訴えだ。聡志は間を置くことなく反論した。
「僕は恭子さんとお好み交差点で会って、確かに、目の前でヒットを打ったらデートをするという約束をしました。でも、それは恭子さんと二人で仲良く決めたことです。一方的に強要したりなんかしていません。どうか、僕の言うことを信じてください」
堂々と胸を張った。
「うーん、そう言われてもな。さて、どっちが真実なのか、そのうち分かることだ」
井上は自信ありげに顎を撫でた。




