5:他校のエースの家に行く
日曜日、午前練を終えた午後、俺は橘家を訪れていた。自分でも展開の速さに驚きである。
あの夜、モチを見にくる?という橘の誘いに一瞬身構えたものの、別に断る理由はないし、何よりモチをモフりたい欲求が我慢できず、今に至る。
「お邪魔します」
「どうぞ」
「家の人は?」
「父さんはゴルフ。母さんと姉貴は買い物」
「あ、そー」
ということは橘と2人きりなのか。……2人きりで間が持つか?SNSではずっとやりとりはしていたけど、実際に顔を合わせるのは連絡先を交換して以来初めてなのに、それが相手の家とかハードルが高くないだろうか。そんな心配をしている俺を他所に、橘は平然とした様子で自分の部屋へと歩き出す。俺は少しだけ居心地の悪さを感じつつ、大きな背中についていった。
「はわっ、あ、あ~~~」
「これがモチ」
「にゃあ」
「生モチ~~~」
橘のベッドの上で伸びをしているモチに手を伸ばしかけ、――俺は慌てて引っ込めた。
「猫ってどうやって触ればいい?」
「触るの初めて?」
「うん。驚かせちゃ悪いよな。えっと……」
「指出してみて。匂い嗅ぎにくるから」
指示された通り人差し指を差し出すと、モチのピンクの小ぶりの鼻が近づいてきて、ふんふんと俺の匂いを嗅ぎだした。なにこれ、もはや微かにかかわる鼻息さえ愛おしいんだけど。
「あ、なあ、すりすりしてきた!」
「颯真のこと気に入ったみたい」
「かわっ、はぁぁ、ちっさ。柔らかい。もふもふ」
モチの愛らしさに、さっきまでの気まずさは完全に吹き飛んだ。俺の足元にじゃれついてくるモチの頭を撫でると、モチはごろんと床に寝転んだ。猫はツンデレのイメージがあっただけに、最初からデレデレのサービスが嬉しくて、俺はたまらず撫で繰り回す。
「なんだモチ、撫でられるの好きなのか。気持ちいいよなぁ」
「背中ゆっくり撫でられるの好きだよ」
「こう?」
「そうそう」
「ごろごろ言ってる」
「喜んでる証拠」
「猫ってまじでごろごろ言うんだ。都市伝説だと思ってた」
「颯真、モチとのツーショ撮っていい?」
「いいよ。ってかむしろ撮って。俺に送って」
「はいはい」
左手でモチを撫でながら右手でスマホを操作して、送られてきた写真を確認する。
「いや、なんか俺メインみたいな写真になってんじゃん。モチより俺が大きく映ってどうすんだ」
「ダメ?」
「逆になんでダメじゃないと?」
モチが橘の胡坐に移動したところで、今度は俺が撮影係になる。可愛いモチはどの角度から撮っても画になって、ついつい連射をしてしまう。
「寝っ転がるとお腹にモチが乗ってくるよ」
「まじで?」
それは試さねばならない。俺はすぐさま横になろうとして、けれど橘がすかさず腕を引いてきた。
「床だと痛いだろ。ベッド使っていいから」
「え、うん。じゃあ、失礼します」
言われるがまま、俺はネイビーのシーツがかけられた橘のベッドに寝転んだ。軋んだスプリングの寝心地の良さを背中で感じながら待っていると、モチがのそのそと橘の胡坐を出発して俺の側にやってきた。ふんふんと匂いを嗅いでから、ゆっくりと俺のお腹に乗って、満足気に丸くまる。モチの体温でお腹が温い。
「橘、橘、写真、写真撮って」
「もう撮ってる」
そんなこんなで盛り上がっていた撮影会は、気まぐれを起こしたモチの途中退席により終了となった。正直まだ猫吸いなるものをやっていなかったので引き留めたかったが、無理強いをすることはできない。もし次の機会があったらモチにお願いしてみよう。
「これ」
「ん?」
「そっくり」
そう言って橘が見せてきたのは俺とモチの写真だった。モチは安定の可愛さだけど、俺ときたらモチにデレたやばい顔をしている。
「そんなん俺に送ってなかったじゃん!」
「たくさん撮ったから厳選して送った」
「ちょ、それ消せよ。俺の顔やばいじゃん。流出禁止の顔面してる」
「大丈夫。絶対誰にも見せないから」
そもそもお前が見てる時点で恥ずかしいんだが。
俺の訴え空しく、橘には消去する気は微塵もないみたいだった。
「あ……お前もマンガ読むんだ」
ふと目に入ったのは往年の名作バスケ漫画だった。もちろん、俺も全巻持っている。
「このマンガあきねぇよな。俺この巻が一番好き。読んでいい?」
「いいよ」
「ありがとぉ!」
いそいそと本棚から目当ての巻を取り出して、ベッドを背もたれにして姿勢を整える。ページを捲ると、隣の橘が覗き込んできた。
「……なに?」
「俺も読みたい」
「別の巻にすれば?」
「これが読みたい。颯真が捲って」
「ワガママか」
肩が触れている。
俺はなんとなく、そこから伝わる橘の体温だとか、重みだとか、匂いだとかを意識してしまった。
悔しいけど、橘はでかい。身長が高いのはもちろん、部屋の隅に転がってるダンベルで鍛えているであろう体の厚みもあるし、手もでかい。俺にはないものを、橘はいくつも持っている。悔しいし、羨ましいし、けど、なんでか……それだけじゃ説明できない感情も渦巻いて、俺は少しだけどきどきしてしまった。
*
「ただいまぁ」
「おかえり、そーちゃん」
「あれ、斗真早いじゃん。部活仲間と遊ぶんじゃなかった?」
「遊んできたよー。でもそーちゃんとも遊びたいから早めに切り上げてきたの」
「もっと友達大切にしろよ……」
「してるしてる」
玄関で靴を脱いで、洗面所で手洗いうがい。一連の動きをする俺の後ろを付いてまわりながら喋っていた斗真が、リビングのソファに並んで腰掛けたタイミングで「ところで」と切り出した。
「そーちゃんはどこ行ってたの?午前部活っしょ?」
「そうだよ。午後から友達のとこ遊びに行ってた」
「ふーん……どうりでいつもと違う匂いがすると思った」
「え、そうか?」
「うん」
俺は服の匂いを確かめた。言われてみれば、橘のものらしき匂いがしないでもない。
あの後は結局マンガ談議が盛り上がり、日が暮れるまで二人でマンガを読み倒してしまった。途中から一緒にベッドに寝転がりながらぐーたら過ごしてしまったから、匂いが付いたとしても不思議ではない。
「友達って誰?」
いやに真面目な顔つきで斗真が言った。
そういえばすっかり頭から抜け落ちていたけど――「たぶん斗真知ってるんじゃね?」と俺は言った。
「橘優星。斗真と同じ高校の二年のやつ」
「はぁ?なんで橘優星?」
「バスケ部繋がりで」
「それはわかるけど、今までプライベートで関わりなかったじゃん」
「まぁいろいろあってさ。今友達なんだよ」
「何して遊んだのさ」
「橘のうちの猫モフってきた」
ほら、と撮りたてほやほやのモチの写真を見せる。喜ぶかと思ったけど、斗真は渋い顔のままだった。
「他の写真も見たいからちょっと貸して」
「ほい」
「……はぁ〜……猫口実にするとかあざと」
「は?」
「なんでもなーい」
斗真の口を尖らせて拗ねる癖は小さな頃から変わっていない。一歳差の弟は俺よりずっと大きくすくすくと育ったけれど、いまだに兄にかまってほしいと全身で訴えてくる可愛いやつだ。
「あ、お腹に猫乗っけてる」
「それなぁ、めっちゃ可愛かった」
「ずるい。俺も乗る」
「え、わっ、重っ!」
「そーちゃんのお腹意外と硬い」
「そりゃ筋トレしてるし腹筋はけっこう……って、マジで重たくて苦しいんだけど」
切実に抗議するも、俺のお腹に頭を乗せた斗真は「もうちょっと」と笑うだけで退く気配はない。こいつ、自分がまだ小学生くらいの体格だと思い込んでないか?190近い図体の男の頭部とかほんとに重いんだが。
「俺も写真撮ろーっと」
「なんで俺の写真撮るんだよ」
「ミンスタでそーちゃんの腹枕自慢したいから」
「お前……それ自慢にならねえって……兄貴の腹枕とか友達に引かれるぞ」
「大丈夫、俺ブラコンキャラで通ってるし、そーちゃんとの組み合わせ女子ウケもいいんだよね」
「意味わかんね……とりあえず俺の顔は載せるなよ」
「載せない載せない。他のやつらにそーちゃんの顔見せるわけないじゃん、もったいない」
斗真は俺のお腹に乗ったままスマホを弄っている。ほんとにミンスタに投稿してるんだろう。俺はミンスタをやってないからはっきりとはわからないけど、斗真のフォロワーはかなり多いらしい。こんな写真あげて喜ぶフォロワーなんているのか、謎だ。たぶんいない。
微塵も俺のお腹を解放する気がない斗真に諦め、俺もスマホを弄る。モチの写真を見ていると、橘からメッセージが届いた。心なしかモチ寂しそう、という文とともにモチのどアップ写真がついている。つい顔を緩めて、またすぐ撫でに行くよって言っといて、と返信していた俺は、斗真からの視線に気が付いていなかった。
*
『そーちゃんの腹枕
イイ夢見れそう
#仲良し兄弟 #俺の特等席』