91 暁の星
「未だに教皇から返事は来ないのか」
不機嫌さを隠そうともしないレオポルトは、なんの罪もない従者をジロりと睨みつける。
哀れな従者は某伯爵家の三男坊で、王太子などという立場にあるものに逆らうことなど到底できはしない。
「あの女は、教皇は一体何を考えている! せっかくこの私が千載一遇の好機を掴もうというときに、何をもたついているのだ」
「ま、まったくもって仰るとおりであります、殿下」
「そうだろう! 歳ばかり取って無能な女狐め……せっかくエントラッセン帝国に鉄槌を下す好機に一枚噛ませてやろうという、この私の気前の良さがわからんのか」
「そのとおりでございます、殿下」
レオポルトの壮大かつ綿密にして電撃的な計画は、すでにレオポルトの頭の中で何度も成功を収めている。
国軍総司令官にして口うるさい叔父であるシュターガー大公を夜陰に乗じて拘束、国軍すべての指揮権を一手に握る。
そして全軍を持ってエントラッセン帝国へと攻め込み、その途上で西から電撃的に兵を進めたサミッツ皇国の騎士団と合流、一気呵成に帝都を制圧する、というのが、レオポルトの『華麗にして完璧な作戦』の内容であった。
「帝国との間に結んだとかいう不可侵条約など破棄だ。どうせ我が国にとって不都合な内容に決まっている」
「で、殿下、その、条約の細かい内容については——」
「アルトリリアが結んだ条約など、どう考えても不平等条約に決まっているだろう! あの愚かな妹が、老獪な女帝とまともにやりあえるわけがない!」
国際社会も我が国の、私の決断を支持するはずだ。東のステルベン、南のヴィンガーダルムにありったけの兵を出させ、全軍をもってエントラッセン帝国の西の国境から帝国に攻め入る。
かつての英雄、コッヘル将軍が得意とした電撃戦を展開すれば、帝国軍の守備など一網打尽にできるはずだ。
辺境伯軍の規模など知らないが、少なくとも2方面の辺境伯軍をすべて動員すれば、帝国軍など恐れるに足らず。帝国からすれば西と南との二正面作戦など到底兵力が追いつかないに違いない。
そこへ西の神聖サミッツ皇国が、最大の攻撃力を誇る鉄十字騎士団と、機動力を誇る精霊の剣騎士団の全兵力をエントラッセン帝国にぶつければ、ランドルト王国の兵力の損耗は少なく抑えられる上、戦力でも上回ると思われる。
「あの女狐め、この勝利が約束された戦いに兵を出さんとはな。これだから女は戦略的な能力に欠けるのだ。そうだろう?」
「は、はい、まったくもってレオポルト殿下の仰るとおりでございます」
もしも仮に、ここに筆頭軍師アーノルド・ヘルセネンが立ち会っていたら『大変恐れ入りますが、もしかするとレオポルト殿下は馬鹿であらせられますか?』と情け容赦なくコキおろしていたであろう。
それならまだマシで、仮に百戦錬磨の曲者、ロガン辺境伯ならば『さすがベネディクト陛下の御嫡子、レオポルト殿下は儂らとは見えておる世界が違いますな』と遠回しに呆れ果て、武人の中の武人として知られる北のアニエス・カンフルと南のヨシュア・ヴィンガーダルムであれば、無言で席を立ち王家を見限っていたことだろう。
この場にアニエスとヨシュアがいないことは、ランドルト王家にとっても幸運であったと言わざるを得ない。
「私のこの完璧で美しく無駄がない作戦ならば、我が軍の損耗は極めて軽微、サミッツ皇国の騎士団のみがその数を減らすことになるが、奴らは狂信者だ。教皇の命令なら喜んで死ぬだろう。この非の打ち所のない策をもって、エントラッセン帝国帝都を落としてしまえば、彼の国の膨大な資源と兵力を我がものと出来る。そうすれば、このメディコ大陸の誰もが、ランドルトの王にふさわしいのはアルトリリアでも父上でもなく、このレオポルトだと理解する! そうだろう? 違うか?」
「いえ、仰る通りでございます」
「まったく、もっと詳しく話してやらねば分からんと見えるな。これだから頭の悪いやつの相手は疲れるんだ。紙とペンを持ってこい。より細かく、詳しくこの偉大なる作戦を説明してやらねばならんようだ」
レオポルトに紙とペンを差し出したノーム族のメイドは、今更のようにその存在に気付いたレオポルトにより『貴様そこで何をしている? さっさと下がれ』と命じられ、大人しく王太子と哀れな伯爵令息の部屋を後にした。
メイドが向かった先は、王宮において『西の宮』と呼ばれる王女たちが暮らす区域。その一角にあるアルトリリアの私室であった。
「——なるほど、お兄様は随分と楽天的でいらっしゃるようですわね」
「は、はい……あの、私ごときが大戦略に口を出すのはおこがましいことと存じてはおりますが……」
「あら、何か感じることがありまして? 構いませんわ、許します。是非おっしゃいなさい?」
「ありがとうございます。その……すべての根拠に『はずだ』『だろう』がつくものだらけで……夫もパンを焼く時には、『明日の朝は冷えるだろうから、窯の温度が上がるのに時間がかかるはずだ』といったことを言うことはありますが、ですが王子殿下が仰っているのはパン窯の話ではありません、戦争の話かと思います。その……軍人の皆さんが大勢死ぬかもしれない話で、そんな不確かなものを根拠にして良いものなんでしょうか」
「良くぞそこに気が付きましたわ、素晴らしい。あなたはただのメイドをさせてには惜しい人材ですわね」
「と、とんでもないことです! 私なんてそんな、学もないただの平民で、お茶をお運びするくらいしか——」
「謙虚ですのね。ますます良いことですわ。ですが覚えておきなさい? あなたの今の疑問は何にも替えがたい気づきでしてよ?」
ただただ恐縮するメイドに金貨の入った革袋を握らせると、アルトリリアは一人じっと思索に入り込む。
レオポルトは本気でエントラッセン帝国に攻め込まんとしていた。
動機は実に短絡的で独善的な思い込みである。
両国間で締結した相互不可侵条約が、ランドルト王国にとって不利な内容であるはずだ、そのような外交上の暴虐を許すわけにはいかない、エントラッセンの、大国の国威と軍事力を傘に着た糾弾するため『神聖サミッツ皇国を主体とした軍』を編成し一方的に攻め込み、そしてその広大な国土を蹂躙する。
国際社会もこのランドルト王国の正義の戦いを支持するはずであり、エントラッセン帝国を討ち滅ぼした後はサミッツ皇国は喜んでその兵力をすべて引き上げ、帝国をすべてレオポルトの手に差し出してその武威と偉業を称賛するはずだ。
何なら、エントラッセン帝国を手に入れたレオポルトに傅くようならば、年増で狂信者の女狐であっても妃にしてやってもいい。
レオポルトが出そうとした書簡には、そんな内容が実に読みづらいクセの強い字で記されていた。
ちなみに、この書簡は神聖サミッツ皇国の教皇アンナマリアに届くことはなく、何なら王宮を出ることすらなかった。
書簡を手にしたのは参謀本部の事実上の長、筆頭軍師のアーノルド・ヘルセネンである。
「いやぁ、もしかしたらと危ぶんでいたんですけどねぇ」
相変わらず、コーヒーに砂糖を入れたのではなく、砂糖壺の中にコーヒーを垂らしたような、飲めば飲むほど喉が乾く通称『コーヒーへの冒涜』を口にして、なぜかジャリジャリと咀嚼しながら癖字の書簡を机の上に丁寧に置いた。
「我らがランドルト王国を導く暁の星、レオポルト・ランドルト王太子殿下は、ひょっとしてバカなんじゃないかと思ってたんだけども——」
「軍師! やめて下さいよもう! 誰かに聞かれたらどうするんですか!」
参謀長の補佐官を務めるアンナ・オスペダーレは慌てて立ち上がる。
こんなセリフを王太子の子飼いの貴族にでも聞かれたら大事だ。アンナ自身にはなんの関係もないとしても、連座で罪に問われてしまうかも知れない。
「何だ何だ、まぁ落ち着きたまえアンナ君。私はね、別に王太子殿下のことをバカなんて言っているわけじゃない。そんな、世の中のバカの皆様に対して失礼なことは微塵も考えちゃいない」
「そ、そうですか、良かっ——って、え? え、ちょ、待っ……ああぁもうヤだ、ほんとヤだこの人……私までクビどころか処刑されちゃうよぉ……」
「まぁまぁ安心したまえ。彼らに我々参謀本部を罰することなど出来ないよ。そんなことをしてみたまえ、我が国の防衛ラインは一夜にして崩壊する。この国を守っているのは、四方の辺境伯家と、中央のこの参謀本部だ。彼らがいくらバカ以下の無能な愚物と言っても、そんなことがわからない——いや、わからないかもしれないな。バカはいつも普通人の予想を超えてくるものだからね」
「あの、ひょっとして筆頭軍師、もしかしてご自身が普通人だと思ってたんですか?」
「何を言ってるのかね、私は普通だ」
「はいはい、もうそういうことにしときますよ……」
「まぁ、彼らのような愚物はもうどうでも良いとしてだ。我らが暁の星、レオポルト殿下のこの『完全無欠にして偉大なる作戦』について、アンナ君はどうツッコミをいれるかな?」
「あの、それって言わなきゃダメですか……何か下手なこと言ったら物理的にクビが飛びそうですっごい嫌なんですけど」
心底嫌そうな顔ながらも、アンナは机の上の書簡にちらりと目を向ける。
「まぁ……ツッコミどころがありすぎてもうどこからどうツッコめばいいか……」
「ほうほう、それは素晴らしい。それで、どこに突っ込むかな?」
「単純です、前提条件が仮定だらけです。正直なところ戦略とか作戦とか以前の段階です。この世のすべてが自分の都合の良いように、思い通りに進むという大前提の上に、この上なく雑にまた仮定が積み上げられてます。幼年学校の『ぼくがかんがえたさいきょうのさくせん』といい勝負です」
「おぉ、言うねぇアンナくん。素晴らしい。その講評を是非ともレオポルト殿下にお聞かせして差し上げたいものだ」
「やめて下さい! もう、私には故郷に家族がいるんです! 実家に仕送りしなきゃいけないんですから!」
「ほう? アンナ君のご実家、オスペダーレ男爵家はどこだったかな?」
「い、一応その、北のカンフル辺境伯閣下の派閥ですけど……あの、ダメですからね? 妹はまだ小さいですし、弟だってまだまだ士官学校にも入学できない歳です! 私には養わなきゃいけない家族が——」
「まぁ北なら大丈夫だろう。今からでも是非、アルトリリア殿下に忠誠を誓っておきたまえ。この先も平穏無事な軍人生活を送りたければね?」
本当に心底疲れ果てたような顔でため息を吐いたアンナ・オスペダーレ少尉は、この時のヘルセネン子爵の言葉を『あぁもう、また変なこと言ってる』程度に聞き流していた。
筆頭軍師が語った『平穏無事な軍人生活』がどれほどにありがたいものであるか、彼女が心底思い知るのはもう少し先のことである。




