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90 塗り替えられる地図

 ランドルト王国の西を護る辺境伯、カーン・ロガンは、国内の辺境伯の中で最年長である。

 東の辺境伯、アルフォンス・ステルベンと同じく守りを得意とし、とくに守城戦においては世界的な第一人者と呼ばれるほどの冴えを見せ、ベネディクト4世の前王、フランシスコ王からは『護城候』の称号を与えられている。国の西を守る居城も堅牢で難攻不落の要塞としても知られていた。

 その堅固さは、世界最強の攻撃力を持つと噂される神聖サミッツ皇国の鉄十字騎士団ですら食い止めることが出来ると言われていた。


「我々とて流血を望んではいない。そこはロガン卿も同じでございましょう」

「いやいやまったくですな。近頃の若い者は、どうにも怖いもの知らずと言うか血気盛んと言うか。よもや恐れ多くも教皇聖下に宛てた書簡を直接送り出すなど、我々もまったく預かり知らぬことでありましたが、枢機卿猊下のお蔭でこの老いぼれの首がつながりましたわい」

 

 古狸、という言葉がこれほど似合う二人も珍しいだろう、という風体の老人が向かい合い、ワインを楽しんでいた。

 かたやドワーフ族の英雄、コッヘル将軍をも凌ぐであろうと言われる名将カーン・ロガン。

 そしてもう一人は、美しい刺繍が施された法衣をまとったノーム族の男、シルルジア枢機卿。神聖サミッツ皇国において、教皇に次ぐ地位となる枢機卿を長く務める男だ。

 

「我が国としても、よもや精霊の剣騎士団の連中がロガン卿の城に押し寄せようとは思いも寄りませんでした。いやぁ血の気の多い連中というのは始末に負えませんな。我が国の者たちがとんだ失礼をしてしまいました」

「いやいやなんのなんの、まぁ、その剣についてはお互い様ということで。まぁ、若い衆の元気が良いというのは、我ら老人にとっては眩しく見えるものですな」

「まさしく、仰るとおりです。——して、件(くだん)のレオポルト王太子殿下からの書簡については?」

「まぁまぁ、その件については少々時間がかかりますでな。何しろ国内でも、宰相閣下すら知らぬところで出てしまいましたもので、少なからず混乱が起きております。いやはやなんとも、お恥ずかしい限り」

「いやぁ何をおっしゃいますやら、才気煥発で知られるレオポルト殿下らしいのでは」

「いやいや、そう仰っていただけると救われますな。何しろ儂ら年寄りの役割は、若い衆の尻拭いばかりですのでな」

 

 老獪な曲者同士の会話は、一言一句余さずすべてが腹の探り合い、牽制の応酬である。

 頑迷な原理主義者である教皇の過激な動きに、巧みなブレーキ捌きで皇国が暴走しないように調整を行っているのが、世俗派の枢機卿シルルジアだった。

 信仰派の枢機卿も数名存在するが、全枢機卿の中でも位階が最も高いのが教皇の側近を務めるシルルジアだ。

 教皇が長い瞑想に入る際などは、一時的に教皇代理を務めることもある。

 

「ところで、貴国とエントラッセン帝国の間で密約が存在する、という噂がございますが、これの真偽については?」

「ふむ、事実ですな」

 

 外交上の最高機密に当たる情報を、ロガンはあっさりと明け渡した。が、シルルジアには驚いた様子もない。

 シルルジアが情報を切り出したからには、『サミッツ皇国はすでに情報を掴んでいる』ということを意味する。ここで下手にごまかしたりすれば、話がさらにややこしくなる。

 百戦錬磨の古狸、カーン・ロガンにとってこの程度の牽制の応酬など、子どものままごと遊びのようなものである。

 もしも仮に、カーンの代わりに席についていたのがロレンツォ・ド・キルルージャであったら、最初から最後まで完全にシルルジアに良いようにあしらわれていたことだろう。

 それも、ロレンツォ自身が『自分が主導権を握って会談を終えた』と信じ込んだまま、結局はシルルジアの望む結果に喜んでサインを書き入れてしまったことであろう。

 

「ほほう、貴国の王女、アルトリリア殿下とエントラッセンの女帝アン陛下との密約、その内容については教えては頂けませんかな」

「ふむ、左様ですな。……まぁここは、他ならぬシルルジア猊下であればこそ、儂も大精霊サジタリウス様に帰依する者として隠し事は出来ませんなぁ」

 

 カーンは机の上に大きな地図を広げた。メディコ大陸全図と銘打たれた地図だが、非常に古いものである。

 ベネディクト4世が、宗主国であったエントラッセン帝国に翻意した または 旗幟を鮮明にした 等の文脈だが同音の「反旗を翻した」の誤字大事件の前の地図だ。

 

「我らランドルト王国の民を守る盾、四方の辺境伯はこのところベネディクト4世陛下の行いを深く憂えておりましてな」

 

 ベネディクトの暴政は、何も今に始まったことではない。

 強欲の代名詞とすら呼ばれるベネディクト4世の治世はお世辞にも善政とは呼べず、どれだけ贔屓目に見ても暴政である。

 一部の貴族による搾取に民は苦しみ、重税によって吸い上げられた富は王が囲っている後宮を維持するための予算となっている。

 軍においても爵位が最優先であり、無能な指揮官が有能な部下を無駄死にさせるケースが目立っていた。

 であればこそ、女帝アンも教皇アンナマリアも、ランドルト王国の暴走を止める機会を伺っていたのだ。

 

「誰よりも深く民の苦しみを思い、そして国を憂う気持ちを持っておられるのが、我が国の第十三王女のアルトリリア殿下。そして王弟シュターガー・ランドルト大公閣下でありますな」

「ほう、シュターガー大公閣下も。聞けば、ベネディクト陛下が即位した際にも貴国の多くの臣がシュターガー閣下が戴冠されなかったことを嘆き悲しんだとか」

「何を隠そう、儂もその一人でしてな。大公閣下が軍の総司令官であられるのは、儂ら軍人にとっては数少ない救いのひとつですなぁ」

「なるほど。軍の動きを大公閣下が抑えて来たからこそ、帝国からの離反の後はほとんど表立った動きが無かった、ということですな?」

「左様。じゃが……猊下もご存知でしょう、我が国の未来は率直に言って暗い。その何よりの証左が——」

「レオポルト殿下、ということですか」

「いかにも」

 

 実のところ、レオポルトは現国王の方針を踏襲するという意味においては、現在王位継承権を持つ王族男子の中で最も優れている。

 ただし、それが国の豊かさ、国民の幸福につながるか否かはまったくの別問題だ。

 仮に、ランドルト王国の平和と繁栄を望むのであれば、アルトリリアを女王とする道が、間違いなく唯一選ぶべき選択肢だろう。だが、現在の王国においてアルトリリアが玉座の主となる道は、最初から閉ざされている。

 ランドルト王国の国法において、王位継承権は無条件で男子が優先され、かつて女王が即位した実例はまったくない。

 前例踏襲主義にすがりつく王族も貴族たちも、アルトリリアが最善であることを理解しつつも、その選択肢に手を伸ばすことが出来なかった。

 

「我ら軍部は、アルトリリア殿下の目指す国の姿をうかがいましてな……ときに猊下は、かつて存在したデアハルス王国のことはご存知ですかな?」

「もちろん、存じておりますとも。美しき女王、ハイデマリー陛下によって正しく治められた『清く美しき、正しき者の国』デアハルス、教皇聖下も、信仰派でない王族の中では唯一、デアハルス王家とは親しくしておいででしたな」

「さすが、猊下は博識であられますな。実を申せば、アルトリリア殿下はデアハルス王室の正統、ハイデマリー陛下の嫡孫にあたるのです」

「ほう?」

 

 ぴくり、とシルルジアの片眉が跳ね上がる。

 彼にとっては、初耳となる情報であった。

 国外に出回るランドルト王家の情報は、その殆どが王位継承権の序列が上位となる、男子に関するものばかりだ。

 数多くいる王女の中の一人であったアルトリリアの情報は、ランドルト王国の外ではほとんど出回っていない。

 

「ハイデマリー陛下の一人娘、ディートリッヒ殿下がベネディクト陛下の側室とおなりあそばしたのちに、ただ一人お生まれになった王女、それこそがアルトリリア殿下じゃ」

「ほうほうほう、それはそれは——いや、このシルルジアも世間知らずでございましたな。まさか左様なこととは——」

 

 当たり障りのない返事を返しながらも、枢機卿の頭の中では凄まじい速度で情報が駆け巡っていた。

 善政を敷き、小国ながらもサミッツ皇国ともエントラッセン帝国とも対等に渡り合い、怪物とも魔女とも呼ばれた女帝アンが自ら師事しに赴くほどの叡明な女王、ハイデマリーの評判は、現在でも国際社会では伝説のように語り継がれている。

 中には、ハイデマリーが手を軽く上げただけで戦争が一つ終わり、指を動かせば銀山を掘り当て、民の暮らす街を歩けばその道には花が咲き乱れ民の歓喜の声が響き渡った、などと神話のように語られるものもある。

 

「では、アルトリリア殿下はもしや……御母上、ディートリッヒ殿下の故国でもあるデアハルスの復興を?」

「さて、殿下の深謀遠慮など、この老いぼれには眩しすぎて到底見えませんなぁ。じゃが、もし仮にそうであれば、今のステルベン辺境伯領とカンフル辺境伯領にまたがる山岳地帯、あの美しき山々に囲まれた正しき者の国デアハルスが、その輝きを取り戻すとなれば——」

「いやはや、それはそれは……昔を懐かしむばかりの、この私のような老いぼれにも、心が踊る話となりますな?」

「左様。それに、この話は教皇聖下にとってもお喜びいただける話となるのでは。率直なところ、教皇聖下はベネディクト陛下のことを、快くは思うてはおられますまい?」

 

 このことは、国際政治の現場ではもはや常識である。

 何しろ、ベネディクトの嫌われっぷりは、メディコ大陸を飛び越した他の大陸にまで広く知れ渡っているのだ。

 

「ハイデマリー女王陛下の嫡孫、デアハルス王家の正統であらせられるアルトリリア殿下がお立ちになるとなれば、この老いぼれも、最後に一花咲かせてみたいと、年甲斐もなく血が沸き立つのも致し方ないことかと思いましてな」

「いやいや、まったくもって——これはまた面白い話を聞かせて頂きましたな。ついつい貴国の暁の星、レオポルト殿下の書簡の話を忘れてしまいましたわい」

「はっははは、それは惜しいことでしたな、猊下に我が国の恥をお忘れ頂こうと思うて、とっておきの話としてお聞かせしましたものを」

「いやぁ、これはこれは……久方ぶりに興奮しましたわい。さて、興奮のあまり殿下がどのような書簡を送ってこられたのか、忘れてしまいましたな」

「ほう、それでは猊下、もっとワインをお召しあれ。酒の力で嫌なことなど忘れてしまいましょうぞ」

「これはこれは、さすがは老獪で知られるロガン卿ですなぁ。もっとも、我ら年寄りは物忘れが進んでいけませんなぁ」

「まったくです。まぁ、儂ら老人は、朝と夜と、物を忘れるのばかりが早くなりますな。歳は取りたくないものじゃ」

 

 老人二人の茶番は、この日の夜遅くまで続いた。

 翌朝、シルルジア枢機卿は『ついつい、大精霊サジタリウス様の恩寵について、ロガン卿と語り合ったのが盛り上がったあまり』深酒が過ぎたとのことで、懐に忍ばせた『ランドルト国王ベネディクト4世への公開質問状』を紛失してしまったという。

 その代わりとばかりに、『なぜか荷物に紛れ込んでいた、かつてのメディコ大陸全図』を土産として持ち帰る事となった。

 

 神聖サミッツ皇国の教皇、アンナマリアが突然『ランドルト王女、アルトリリア・ランドルトに大精霊の加護あれ』と声明を発表したのは、古狸たちの会談の3日後のことであった。

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