83 王国の盾であれ
アルフォンス・ステルベンは、辺境伯領東の端にある砦から、じっと東へ視線を向けていた。
腕組みをしたまま身動きもせず、もう1時間以上寒風に身を晒している。
「閣下、そろそろお戻りを。お身体に障ります」
「私は——」
声をかけたイザーク・アンビュランス少佐は、長年ステルベン辺境伯家に仕える軍人であり、自身も子爵の爵位を持つ貴族である。
長く軍に所属しており、突出した攻撃力などは無いものの、手堅い守備と堅実な戦術運用が得意な、良くも悪くも『凡庸な軍人』であった。
「私は、いったい何をしているのだろうな」
「閣下?」
「……私は、長くランドルト王家にお仕えしてきた。国の東を護る辺境伯として、エントラッセン帝国に睨みを利かせてきた……というつもりだった。それがどうだ、帝国軍になすすべもなく敗れ、国王陛下よりお預かりした領土をも失い、多くの兵を死なせた挙句——」
一度言葉を切り、大きく深呼吸をする。
アルフォンスの疲れが見える顔の前に、吐いた息が白いモヤとなって立ち込める。
「アルトリリア殿下に助けられ、こうして生き恥を晒している」
「生き恥などではありません。閣下は今も東の守りを担っておられるではありませんか」
「東の守りか……エントラッセン帝国とは不可侵条約が成立している。おそらく帝国が攻めて来ることも、我々が帝国へ攻め込むこともあるまい。もはや私は……私は、すでに用済みなのではないか」
「閣下、お言葉ですがそれは違います」
イザークは短く言い切った。
アルフォンスは東へ向けた視線を動かさない。
「アルトリリア殿下の大望のため、殿下がお考えの『国』の姿を現実のものとするために、閣下の力は不可欠です。カンフル家とヴィンガーダルム家が攻撃に特化した王国の剣なら、西のロガンと東のステルベンは守備の要、王国の盾です。盾がそのように弱気なことをおっしゃらないで下さい」
「……そう、だな……」
アルトリリアの野望は、アルフォンスやイザークも知るところだ。
かつてベネディクト4世王により攻め滅ぼされ、女王は死に、王女は虜とされた今は無きデアハルス王国の復興。
デアハルス王家の王太子ディートリッヒ王女の血を引く最後の一人、アルトリリアの打った布石は、今やランドルト王国を四方から包囲しつつある。
国の四方の防衛の要である4つの辺境伯家はいずれもアルトリリアの計画に賛同していた。
権力の中枢にある4つの公爵家は、いずれも勢力争いや多数派工作、政局の小競り合いに夢中で、国が四方から削られていることに気付いていない。
いや、気付いていても、『まさかそんなことなど、あろうはずがない』と信じようとしていない。
「シーナから手紙が届いた。レオポルト王太子殿下が、とんでもないことをやらかしたそうだ」
「王太子殿下が? お嬢様は一体何と」
「王太子殿下が……ロガン卿の領土を勝手にサミッツ皇国に割譲し、その見返りに帝国への侵攻を持ちかける書簡を送ったそうだ。それも、よりによってあの狂信者の教皇アンナマリアにだ。おまけに、『褒美に教皇を正室にしてやる』などと、とんでもないことまでな」
「な」
イザークは言葉を失った。
国土の割譲など、それこそ国家の一大事である。
本来ならば国王が四方の辺境伯に諮り、公爵家とも入念に話し合い、国内の貴族への根回しだけでも数年を要するようなものだ。
国王の名においてのみ可能な、国策の大転換だ。
おまけに相互不可侵条約を締結した隣国に一方的に攻め込むなど、企てた時点で国際社会からは袋叩きにあうことは間違いない。
何よりの問題は、そんな文書を王太子が独断で国外に出した、ということだ。
「宰相のキルルージャ公爵はご存知無かったそうだ。おそらくはレオポルト殿下の独断専行……なのだろうが、国内の中央貴族はそうは見ていないようだ」
「そ、そんなことになったら……王家の求心力は——」
「王都は表向き平穏らしいが、政府中央は大混乱だそうだ。4公爵家はベネディクト陛下とレオポルト殿下に説明を求めているらしいが、お二人とも後宮から出てこないらしい」
「……閣下、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
がっくりと項垂れたアルフォンスは、冷たく冷え切ったバルコニーの手すりに両手をついた。
まるで氷の上に手を置いたかのように、凄まじい勢いで体温が奪われる。
「その……レオポルト殿下の書簡というのは、我が国の政府中央にもたらしたのは一体誰なんです」
「サミッツ皇国の枢機卿だそうだ。教皇の目に触れる前に、世俗派のシルルジア枢機卿が握り潰したらしい。ロガン卿のもとに詰問の騎士達がやってきたらしい。皇国からすれば『大精霊の威光を借りて、国際法に反する戦争を起こすとは不遜極まりない』『新生なる大精霊の代理人、教皇聖下を妻になどと、古今類を見ない侮辱である』ということだろう。下手をすれば——いや、下手をしなくても、皇国との戦争になる」
「……か、閣下、もし皇国がランドルト王国との戦争に踏み切るとしたら……」
「王国は西方だけではない、世界中ありとあらゆる国から攻め込まれることになる。皇国を敵に回す、教皇の逆鱗に触れるというのは、そういうことだ」
「で、では、今の時点で我が国は……まさに亡国の危機にあるのでは……」
「そのとおりだ」
アルフォンスはようやくイザークへと振り返る。
何日もまともに眠っていないであろう顔はやつれ、目の下にはくまが浮かんでいる。
眉間のシワは深く刻まれており、顔には無精髭まで生えていた。
「だからこそ、我々はアルトリリア殿下の大望成就を急がねばならん。レオポルト殿下やベネディクト陛下が教皇の逆鱗に触れる前に、国を分けねばならん」
苦し紛れの策でもあることは否定のしようがない。
言い訳として通用するか否かはさておいて、ステルベン辺境伯領がランドルト王国の一部である限り、皇国との戦争になったら安全とは言い切れない。
辺境伯領には多くの民が暮らし、畑を耕し、牛や羊を育てている。
護りの師とも言える老獪で狡猾な武人、カーン・ロガン辺境伯の教えにも、『軍は民の盾である』とあった。アルフォンスが士官学校の学生であった時、盾術の講師を努めていたのがロガン老だ。彼の教えは、軍人の多くに浸透している。
「それで、アルトリリア様はなんとお考えに?」
「シーナの手紙によれば『すでに手を打ってある、絶対に動くな』——とのことだ」
「そう……ですか……お嬢様は、リカルド様はご無事でしょうか」
「あぁ、シーナとリカルドは無事だ。……が、気を抜くわけにはいかん。イザーク。私からの書簡をシーナとリカルドに届けてくれ。すぐに用意する」
「はっ! 承知しました、このイザーク・アンビュランス、命に替えましても!」
「命になど替えるな。お前の命はそれほど軽くはない」
本来、アルフォンス・ステルベンは、西の辺境伯カーン・ロガンと同じく護りの名手である。
魔導ジャマーなどという帝国の最新兵器がなければ、たとえ帝国軍が10万の軍勢で攻め込んだとしても、ステルベン辺境伯領を守り抜くことが出来るほどの実力を持っている。
護城候と名高いカーン・ロガンから直接教えを受け、さらに王国の槍と名高いアニエス・カンフルとも姻戚関係にある。
ステルベン辺境伯領は、王国にとって難攻不落の城壁であるはずだったのだ。
「私も歳を取ったか……」
その彼が散々に打ち負かされ、領土を一方的に奪い返された。
帝国軍相手になすすべなく敗走した記憶は、いまだアルフォンスの脳裏に焼き付いている。
それ以上に強烈な記憶として残っているのは、アルトリリア王女と彼女が引き連れた5人の若者だ。
プロの軍人からすれば子供でしかない士官学校の学生でありながら、辺境伯軍の精鋭を一方的にやり込める手練手管を持ち合わせ、さらに帝国軍との交渉の場での護衛として指名された。シーナやリカルドも『敵対すべきでない』と語った、明らかな異常個体リュウ・ノーチ。
最年少の剣聖、セシリア・カンフルを護衛として伴うのは当然のこと、もう一人の護衛はシーナか、そうでなければアルフォンス本人が名乗り出るつもりであった。
『彼は、リュウはこう見えて出来ますのよ。辺境伯もご覧になったのではなくて?』
アルトリリアがそう語り、リュウの後ろ姿に向けた視線からは、全幅の信頼が見て取れた。
結果、リュウとセシリアは、魔法が全く使えないというエルフ族にとっては窮地以外の何物でもない場所から、アルトリリアを無傷で連れ帰ることに成功している。
「だが、まだまだだな、リカルドが一人前になるまでは、私も隠居するわけにはいかん」
「な、何を仰るんですか閣下! 閣下はまだまだ、この王国の盾でいてもらわねば困ります!」
「そうか……そうだな。だが、王国の盾というのも、いささか考えなければなるまい。私はアルトリリア殿下に返しきれない借りがある。となれば、武人としてその借りにはなんとしてでも報いねばならん」
「はっ。仰るとおりであります」
厚手の外套を翻し、アルフォンスは建物の中へと歩み入る。
長く薄暗い廊下の先にある会議室には、辺境伯軍の将が居並んでいた。
「イザーク、シーナへの手紙はこの軍議が終わってからだ。頼めるな?」
「もちろんです閣下」
「よろしい。では諸君、状況は共有出来ているな。王都から連絡があった。最後まで動向が掴めなかったヴィンガーダルム卿も『こちら側』だ。本日ただいまより、我々ステルベン辺境伯軍はアルトリリア王女殿下の指揮下に入る。同じく北のカンフル辺境伯軍も王女殿下の麾下に、そして南のヴィンガーダルム辺境伯軍と西のロガン辺境伯軍は、王弟シュターガー・ランドルト大公閣下の麾下に入ることとなる」
軍議の場で驚いたり狼狽えたりするような者は、ステルベン辺境伯軍には存在しない。
ここ数ヶ月、帝国軍との戦いで味わった手痛い敗戦以降、この地では身体強化に頼らないでも行動できるよう、全軍を挙げて厳しい訓練に明け暮れている。
その厳しい訓練から脱落するものは、今のところ一名も出ていなかった。
「わかっていると思うが、この場での発言内容は記録され、秘匿される。良いな、裏切りは一切許さない。諸君と私とは一蓮托生だ」
「はっ!」
全員が一斉に立ち上がり敬礼の姿勢をとる。
アルフォンスが手を軽く上げると、全員が敬礼を解いて椅子に腰を下ろした。
テーブルの上には、ランドルト王国の地図が広げられている。
辺境伯アルフォンスと向かい合う位置には、一人だけ甲冑を身に着けていない男が腰掛けていた。その男にアルフォンスが視線を向け、大きく深呼吸をしてから口を開く。
「では、作戦のご説明をいただけるか、レザーマン・ネッケン参謀長」
「承りました、辺境伯閣下。それでは——」
中年の男はゆっくりと立ち上がり、懐から軍人将棋で使う駒を取り出した。
「僭越ながら、エントラッセン帝国西方方面軍より、ヴィルヘルム・エレンボーゲン将軍に代わりましてご説明致しましょう。これから先の大戦略となります。皆様メモはお取りにならぬようお願いいたします。すべて、記憶して下さい。仔細は事前にエレンボーゲン将軍より書簡の手交があったかと存じます。その書簡に記載のプロトコルにて、今後は情報のやり取りをお願いいたします」
レザーマンの訪問に先立って、帝国の西方方面軍総司令官、ヴィルヘルム・エレンボーゲンは密かにステルベン辺境伯家とカンフル辺境伯家を訪れていた。
皇帝の使者としての表敬訪問、というのが表向きの理由であり、実際には『帝国とアルトリリアの国、新生デアハルスとの軍事機密のやり取りに当たっての細かな取り決め』の打ち合わせであった。
『一度は矛を交えた間柄ではあるが、皇帝陛下の意図はただただランドルトに生きる民を救わんがため。ベネディクト王の暴政に苦しむ民を救うには、アルトリリア殿下の策に手を貸すのが最良とお考えだ。なればこそ、我が軍も協力は惜しまない。軍とは、民のために存在するものですからな。軍人ならば、私情よりも軍人としての義務を優先すべきでありましょう』
そう語ったエレンボーゲンの言葉に、アルフォンス・ステルベンは一言も反論できなかった。
ステルベン辺境伯領と同じく、北のカンフル辺境伯領でも同じようなやり取りがあった。アニエス女辺境伯の返事は、快諾であったという。
「皆聞いたな? 事前に伝えておいた機密情報取り扱いの規則を厳守しろ。暗号もすべて頭に叩き込め」
かん、かん、かん、と硬い音を立て、ランドルト王国の国境付近にいくつものコマが配置された。
「ご協力感謝します、辺境伯閣下。さて、本作戦の作戦名は『落日』、この名前は、シュターガー・ランドルト総司令官閣下による命名です」
偉大なるランドルト王国の支配者にして全国民の父、王国を照らす太陽と謳われるベネディクト・ランドルト4世。
その太陽が沈むときは、刻一刻と近づいて来ていた。




