80 頭脳戦
大の甘党で知られるアーノルド・ヘルセネンは、テーブルに置かれた角砂糖をすべてコーヒーの大きなマグカップに放り込み、何度も何度もスプーンでぐるぐるとかき混ぜている。
足を組んで少しうつむき気味になりながらも、その眼球はほんの微細な動きを超高速で繰り返している。
「なるほど、つまり皇国がアルトリリア殿下と、シュターガー総司令官の動きに釘を刺してきた、ということですか」
「うむ、まぁそう見て差し支えないだろう」
アーノルドの対面に腰掛けているのは、黒髪の美しいエルフの女、アニエス・カンフル。王国の北を護るカンフル辺境伯家の当主である。
「まぁ困ったものじゃわい。教皇聖下ももう少し、俗世というものをご理解なされれば良いのじゃが」
「ロガン老の仰るとおりですが、まぁ難しいでしょう」
「うむ。儂もそう思う。とりあえずはお茶を濁して追い返すことは出来たものの、アレはそのうちまたやってくるじゃろうて。それも、今度は大軍で乗り込んでくるはずじゃ」
「我々辺境伯は、王家から国の護りを任されている。その分、多くの軍事力を持っているし権限も持っているし、負うべき責任は重い。だからこそ、ロガン卿も私も常に『何から何を護るのか』を意識せねばならない。ヘルセネン卿もそこはご存知だろう」
アーノルドに負けず劣らず、砂糖をたっぷりと入れたコーヒーを口に運んで、アニエスは引き締まった『智将モード』のまま話を続ける。
「ロガン卿もご存知でしょう。アルトリリア殿下がエントラッセンの女帝アンと手を組みました。シュターガー・ランドルト総司令官も殿下の動きに呼応しておられます」
「うむ。無論じゃ。儂とて王都に目と耳は持っておる」
「ではロガン老はどうお考えに? 殿下をお止めになりますか」
アーノルドの問いに、老ドワーフの辺境伯カーン・ロガンは『ふむ』と小さく呟いて数秒黙り込む。
「儂は、前王フランシスコ陛下のさらに前、ニコラ陛下の頃から国を守っておった。まぁ最初は南、ヴィンガーダルムの小倅にかの地を任せて以来は西の護りじゃな。ベネディクト陛下の思惑は明らかじゃ。『信仰派』の儂を教皇聖下との橋渡し役としたかったのじゃろう。実に——」
ふぅ、とロガンは大きくため息をつき、思い切り苦いエスプレッソをぐい、と一息に飲み干した。
「実に浅はかじゃ。ニコラ陛下はもっと思慮深いお方じゃった。フランシスコ陛下は穏やかで平和を愛するお方じゃった。それが何じゃあの体たらくは。儂がお諌めする声に耳も貸さずにデアハルスを攻め滅ぼし、いたずらに女帝の怒りを買ってしもうた。アルトリリア殿下がおられなんだら、おそらくは先のステルベンの角での紛争を機に、とっくに戦争になっておったであろうよ」
「同感ですね、ロガン老。まぁその点に関しては参謀本部も、間違いなく亡国の危機であったと分析しています」
「問題はその後じゃ。ベネディクト陛下は、エントラッセンとの不可侵条約と講和条約、友好通商条約の締結を『戦勝』と見ておいでじゃ。嘆かわしい、実に嘆かわしいわい。おまけにレオポルト殿下も陛下と変わらぬ。控えめに言うても、ランドルトの将来は暗いと言わざるを得まいて」
「なるほど。そこも参謀本部——いや、私の意見と同じですね。では義姉上はどうお考えに?」
「そうだな、概ねロガン卿と同じだね。ベネディクト王はクソだが、レオポルト殿下はクソ以下だ。あんな王子が国王になるなど、たちの悪いジョークか笑えない喜劇でしかない」
西の辺境伯、ロガンの言葉も辛辣だが、北の辺境伯アニエス・カンフルの言葉はそれ以上に情け容赦ない。このあたりは流石セシリアの母でベルナデッタの伯母といえるだろう。
「まぁヴィンガーダルム卿は沈黙を貫いていて何を考えているかわからない。ステルベン卿は、アルトリリア殿下には返しきれない音がある。何しろ紛争をほぼ『無かったこと』にしてくれたからね。一生頭が上がらないだろう。事実上国の四方の内、東、西、北が王家を見限った、という状況だね」
「うむ。まさしくじゃ。であればこそ、コトを成し遂げて事態が落ち着くまでは、宗教の介入は避けねばならぬ。まぁ教皇聖下はかなり頑迷な原理主義者じゃが、信仰派の言う事ならば耳を傾けるやもしれぬ。神聖サミッツ皇国の動きは儂が目を配っておくとしよう。帝国側はステルベン卿とカンフル卿が抑える。カホウ連合王国側はヴィンガーダルム卿が……というのが理想的であったのじゃが……」
「ヘルセネン卿、ヴィンガーダルム卿への書簡は送ってくれたのだろう? 返事は無かったのかね?」
アーノルド・ヘルセネンの返事の代わりに、3人が顔を合わせている王都の参謀本部会議室のドアをノックする音。
「どうぞ」
「失礼します、ヘルセネン卿。あの……ヴィンガーダルム卿がお見えになりました」
「ありがとうございます、ジーケンハウス卿。お通ししてください」
まさか自分の息子が、この日の朝まで上司の愛娘とベッドの上で『次世代のための最も基本的な取り組み』に明け暮れていたなど知らぬベインの父、ジーケンハウス卿がドアを大きく開くと、ひときわ大柄なノーム族の男が部屋に入り込んできた。
深紅の装束をまとった精悍な男こそ、序列第一位の剣聖にして『一人で一軍を凌駕する』と言われる武人、ヨシュア・ヴィンガーダルム辺境伯である。
「ほう、久しいの、小倅」
「これはこれは、ご足労頂きありがとうございます、ヴィンガーダルム卿」
「久しぶりじゃない、生きてたのね」
三者三様の出迎えに、ヨシュアは全く表情を変えずただ小さく頷くのみであった。
「で? あなた自身がここに来た、ってことは——」
アニエスがゆっくり立ち上がり、ヨシュアのすぐ前の椅子を動かして席を勧める。
しばらくじっと立ち尽くしていたヨシュアは、エルフの女性としては長身なアニエスを見下ろした後、静かに椅子に腰掛ける。
頑丈な木製の椅子が『みし』と悲鳴を上げるほどの巨躯は、全身が高密度で巨大な筋肉に覆われていた。
「あなたもこっち側だと思っていいのね?」
椅子に腰掛けてようやく立ち上がったアニエスと視線の高さが合ったヨシュアは、ゆっくりと、だが大きく頷いた。
南の辺境伯ヨシュア・ヴィンガーダルムはとにかく寡黙な男として知られている。
沈黙の誓いでも立てているのかと思えるほどに物静かで、慣れぬ者からすれば『実はゴーレムなのではないか』と疑ってしまうほどだ。
「さて、ステルベン卿からは書簡が届いています。ステルベン卿は『アルトリリア殿下の意向に従う』とのことです。これで我が国の防衛を担う4辺境伯家が志を同じくすることが確認されましたな。いやぁ結構結構、実に喜ばしいことです」
「ふむ。そうじゃな。儂ら辺境伯は国の護りの要。そして護るべき国とは——」
ロガンがちらり、とアニエスに視線を移すと、妖艶なエルフ女は口角を上げ笑みを浮かべる。
「国とは、国王にあらず。国とは民である、ですか? ロガン卿?」
「左様。儂らは今、改めて問われておる。国とは何か。国家とは何を指すのか。そして儂ら軍部が護るべきものは何か。どうじゃヘルセネン卿? お主ら参謀本部はどう考えておるかの?」
「いやぁ、さすがロガン老、完璧な『フリ』ですね。実にやりやすい」
満面に笑みを浮かべたアーノルドはゆっくりと立ち上がり、壁に貼られたメディコ大陸の地図の前に立った。
「結論から言いましょう。王家などクソくらえだ」
国家反逆罪、王家への不敬罪で即刻死刑となりうる発言だった。だが、この場でアーノルドの発言を止めるものも咎めるものも、一人もいなかった。
「我々軍人は、こう教わります。『国と民の盾であれ』とね。そう、我々は矛である前に盾でなければなりません。それも弱き民、力なき民の盾です。この一点においてのみ、私はコッヘル主義古典軍学を支持します。まぁ後は取るに足らない夢物語ですがね? あぁそうだジーケンハウス卿、使い走りにして申し訳ないが、使用人にコーヒーと砂糖のおかわり、それにヴィンガーダルム卿に軽食を持ってくるように指示してください。それから——えぇと? どこまで話しましたかな?」
ベインの父ジョナサン・ジーケンハウスが一礼して会議室から出ると、ヘルセネンは演説を続ける。
「我々軍人は、盾であり、同時に強大な力を持つ矛でもある。強大な力は厳密に管理され、制御されなければならない。これは参謀本部の共通見解であり、軍の運用の根幹をなすものです。管理と制御を失っては、軍はただの野党や山賊に成り下がる。それでは軍の存在意義がありません。ここにおられるカンフル辺境伯、ロガン辺境伯、そしてヴィンガーダルム辺境伯、残念ながらご出席が叶わなかったステルベン辺境伯は、幸いにも判断を誤らなかった。誰にとって幸いか? それは紛れもなくこのランドルト王国の民にとってです」
ヨシュア・ヴィンガーダルムは、苦虫を噛み潰したような顔で腕を組む。
「繰り返しましょう。ランドルト王家などクソくらえです。少なくとも、偉大なる統治者にして王国の太陽、我らの愛する父たるベネディクト4世陛下はクソ極まるクソであり、王国を導く暁の星レオポルト王太子殿下はクソ以下のクソにたかるクソバエであらせられます。我らの救いは、王家全員がそうではない、ということです。そして我らにとっての悪夢は、クソとクソバエが王家の頂点に鎮座在しているということにほかなりません。ベネディクト4世陛下の後宮予算のために国内の学校や孤児院が閉鎖され、民には重税が課されている。レオポルト王太子殿下の選民思想のために、国内ではノーム族、ドワーフ族に対する差別が始まりつつある。我々が護るべき民が、苦しんでいるのです」
ドアをノックする静かな音に、アーノルドが『どうぞ』と答えると、参謀本部の女性職員が軽食とコーヒー、焼き菓子をテーブルに手際よく並べ、音もなく出て行った。
「さ、どうぞどうぞヴィンガーダルム卿、そのサンドウィッチは参謀本部近くの、美味いパン屋が出しているものです。シュターガー・ランドルト大公御用達の店での品で、私の娘も好んで買い求めております。ロガン卿もカンフル卿、義姉上もどうぞコーヒーと菓子を。重大な決断と大事な話は、空腹のときにしてはいけませんからな? 私もちょっと失礼してコーヒーを頂きましょう」
コーヒーを愛する老人カーン・ロガンが絶句するほどの量の砂糖をコーヒーに入れ、なぜか飲み込むときに咀嚼が必要なモノを口に含み、満足げにごくりと飲み込んだアーノルドは、3人の辺境伯に一歩歩み寄る。
「それでは、改めてご説明致しましょう。我々軍人がランドルトの民を護る盾として、いつ、誰が、何をすべきか。参謀本部が——いや、このアーノルド・ヘルセネンがブチ上げた大戦略を」
国家の大戦略を一手に担う大軍師、アーノルド・ヘルセネンがテーブルに差し出した1枚の紙には、もはや誰にも『解釈』を許さない明確な言葉が記されていた。
ランドルト王国解体計画——それが、この狭く防音の魔道具で厳重に機密が守られた空間で語られた内容である。




