79 曲者
ランドルト王都のヘルセネン子爵邸の朝は早い。
邸宅の主、アーノルド・ヘルセネン卿は早朝から王都で発行されている新聞全てにも目を通し、とびきり濃いコーヒーにこれでもかというほど砂糖を入れる。
日頃からメイド達に『旦那様、コーヒーに砂糖を入れるより砂糖にコーヒーをかけた方が早いのでは?』『旦那様のそれはもうなんというか、コーヒーという飲み物への冒涜ですね』と酷評される飲み物に仕立て上げる。
細身の身体からは想像も出来ないほどのボリュームの朝食を平らげて、邸宅の一室へと足を向ける。
部屋の壁には、亡き妻アンジェラ・カンフル・ヘルセネンの肖像画が掲げられていた。
現カンフル辺境伯であるアニエスの妹であり、短剣術の達人であると同時に、知略にも優れた人物だった。
その知略は、天才として国外にまで名を知られていたアーノルドも舌を巻くほどで、軍学、政治学、数学、さらに魔法物理学に魔法陣学に至るまでいくつもの博士号を持っていた。
さらに魔法陣学においては、世界的な大家であるマルコ・シーネ子爵との共同研究で、『家庭用冷蔵器具用魔法陣』を開発、ランドルト王国における食品流通と保存に革命をもたらしたとも言われている。
パーティや着飾ることに全く興味を示さず、社交界には全く顔を出さない事もあって、王国貴族界でアンジェラの顔を見たことがあるものはごく僅かだ。
生前、『アーノルド、キミも気の毒にな。ボクのようなド変人の醜女が妻で』と語っていたが、アンジェラはエルフ族にしては容姿に優れていたわけではない。
大きく丸い目にやや低い鼻、頬にはそばかすがあり、かなりの痩せ型であった。エルフ族の間では『身の毛もよだつ醜女』などと呼ばれていたこともある。
背は低く、髪は細くウェーブがかかったくせ毛。あまりにも膨大な本を読み続けた生家、エルフなのに視力は極めて悪くド近眼で、常に度の強い眼鏡をかけていた。
自宅でも白衣を着ていたような変わり者だが、その性格と才覚は一人娘ベルナデッタに受け継がれている。
そんな特徴的な容貌の持ち主であったアンジェラ・カンフルを『是が非でも我が妻に』と迫ったのは、他ならぬアーノルドだ。
「さて、そろそろベルと婿殿を起こしてあげなければいけないね。ベルが寝坊助なのは相変わらずだ。キミに似たのかな、ハニー」
5分間、じっと肖像画を見上げていたアーノルドは、写実的に描かれた妻の肖像画に微笑みかけると、機敏に身を翻し部屋を痕にする。
この5分間の『儀式』は、どんなに忙しい朝でも欠かすことはない。妻アンジェラが病に倒れ命を落としてから、アーノルドにとって神殿での祈りなどとは比べ物にならないほど、神聖なものだ。
変人の天才アーノルド・ヘルセネンがアンジェラのことを知ったのは、彼女が記した戦史研究における一本の論文だった。
ドワーフの英雄、コッヘル将軍について記録された内容を散々にこき下ろすもので、『このような寝物語を戦史として扱うのは、歴史に対する冒涜にほかならない』と結んだ論文は、当時戦史研究学会で見向きもされなかった。
論文を繰り返し読み、『栄光のランドルト王国戦史』と見比べながら、何杯もコーヒーをおかわりしながら朝まで書斎にこもっていたアーノルド・ヘルセネンは、徹夜明けのまま突如馬に飛び乗ったかと思うと、そのまま王国の北へと向かい、先触れもなくカンフル辺境伯家へと乗り込んだ。
当時すでに筆頭軍師であったアーノルドは、当主だったアニエス・カンフル卿に直談判し、アンジェラと初めて顔を合わせたその場で、衆目の面前で堂々とアンジェラに求婚したのだ。
『私はあなたほどの才女を他に知らない! 是非ともあなたが欲しい! 是非私の妻に!』
愛と性におおらかなエルフ族の女であっても、初対面での第一声がいきなりのプロポーズ、というのにはさすがに驚きであった。
だがアンジェラは、この程度の事態でうろたえるほど『小さな女』ではない。ほんの2秒の間、彼女の頭の中で凄まじい速度で計算と思索が行われたのだろう。アーノルドの『ぜひ私の妻に』の言葉が言い終わると同時に、アンジェラは悠然と微笑んで美しいカーテシーで答えた。
『喜んで、ヘルセネン卿のプロポーズをお受けいたします。良いだろう姉さま? ボクはどのみちこんな見た目だ、一生独身だと思ってたけど、よもや妹の恋路を邪魔するような真似はしないだろうな? そんなことをしたらスレイプニルの8本の脚に蹴られるぞ?』
おそらくはランドルト王国史上最速、初対面からわずか4秒での婚約成立であった。
結婚式は盛大に行われる——などということもなく、貴族としては異例中の異例だが『そんなことに費やす金と時間があるなら本を買って読む』と、夫婦揃ってド変人っぷりをいかんなく発揮している。
やがて二人の間には一人娘であるベルナデッタが生まれるのだが、幼い娘を見て母となったアンジェラは『良かった、父親似なら美人になるだろう。いや、でも背丈はボクに似るかもしれないな。そうなったら許してくれ、キミの器量の良いところは父親譲り、悪いところは母親譲りだ。恨むならボクを恨みなさい』と繰り返し語っていたという。
アンジェラが病に倒れあっけなく命を落とした時、アーノルドはひと目も憚らず棺にすがりついて声をあげて泣いた。
社交界にも一度も姿を見せなかった謎の才媛、アンジェラ・カンフル・ヘルセネンが、夫アーノルドから深く深く愛されていた、ということが世間に知られたのはこの時が初めてだった。
ベルナデッタは当時12歳。変人ながら不世出の天才と謳われた両親から超英才教育を受けた彼女は、この時すでに父と母が記した論文のすべてを諳んじるほどの実力を身に着けていた。
『ベル、あなたはお父様に似て頭も切れるし可愛い娘だよ。でも、だからこそ伴侶となる殿方はちゃんと選びなさい。そして選んだ殿方は絶対に逃してはダメだ。あなたにはボクと同じ、カンフル家の女の血が流れているのだから』
アンジェラの遺言は、今もベルナデッタの頭の中に、そしてベルナデッタの新しい寝室に生きている。
「ベル先輩、あの、そろそろ起きてください。もう朝ですよ?」
「んー……やらぁ、もっと寝るぅ……」
「あぁもう、こういうことになるから、もっと早く寝ましょうって言ったんですよ。もうヘルセネン卿は起きておられ——」
ベインの言葉が終わる前に、凄まじいハイテンポなノック。そして返事を返す前にドアを蹴破らんばかりの勢いで、勢いよく寝室のドアが開いた。
「やぁやぁおはようベル! 婿殿! 今日もいい天気だ、そろそろ起きなさい」
「うわぁ!? す、すみません! あの、これはその、深い理由がありまして!」
大慌てでベインは、ベッドの上でだらしなく尻を丸出しにしていたベルナデッタに毛布を被せる。
「おや? ——ふむ、なるほど。すまない、これは私としたことが、娘夫婦の仲睦まじいところを邪魔してしまったかな? いや失敬失敬」
「そうですよお父様。年頃の娘の、それも新婚夫婦の寝室のドアをいきなり開けるなんて。せっかく昨日の夜から夜通しヘルセネン家の跡取りを作っていたのに。ねぇ旦那様?」
「あああああの! あの! 違うんです閣下! あ、いや、えっと義父上! これはですね——」
「そうかそうか。大変結構。ベイン君もしばらく士官学校が休みなのだろう? 存分に励みたまえ。子孫繁栄、家門が栄えるのは良いことだ。じゃあベル、婿殿、後でメイドに強精剤を持ってこさせる。遠慮なくイチャイチャしていたまえ。では父はそろそろ仕事に向かう。行ってくるよ」
「行ってらっしゃい父上」
「あ、あの、閣下!?」
ばたん、と勢いよくドアが閉じ、廊下から聞こえる『はっはっはっは! これはヘルセネン家の繁栄間違いなしだな! 結構結構! 実に喜ばしい!』と快活なヘルセネン卿の声と、杖が床を叩く音が遠ざかって行く。
ベインのすぐとなりで、ベルナデッタはあちこち顕になった半裸のまま、ベッド横のテーブルにおいたメガネをかける。
「やぁおはよう旦那様」
「お、おはようございます、ベル先輩」
「おっと、先輩はなしだと言っただろう。キミはボクの旦那様だぞベイン君。妻に『先輩』なんてつけないでくれたまえ。……いや、そういうプレイもありだな? なるほど、旦那様はそういう学園の先輩後輩モノが好み——」
「おはようございます、ベルさん。着替えて朝食にしましょう」
「なんだ、去年までは本当に先輩後輩だったじゃないか。遠慮するな。何なら士官学校の制服もあるぞ? 朝食の後は制服プレイでも楽しむかい?」
うふふ、と童顔に似合わないほど妖艶な笑みを浮かべ、ベルナデッタはベッドの上でベインににじり寄る。
「それとも? 朝食はこのボクかな?」
「……勘弁してくださいよベルさん……結局昨日、というか今日寝たのも日が昇ってからですよ……」
「ん? 当然だろう、新婚夫婦なら夜通し愛し合うのは当たり前だ」
「まだ婚約なんですけどね……」
「同じようなものだ。どうせ結婚するんだからね。それに当家の当主である父上が『励みたまえ』と言ったんだ。なら励むべきだろう?」
「はぁ……それならなおのこと、ちゃんと食事をしましょう。さすがにもう何も出ませんよ……」
目の下にうっすらとくまが見てとれるベインは、文字通り夜通しベルナデッタに『搾り取られ』ていたために、もはや精も根も尽き果てた状態だ。
よろよろとベッドから降りたあと『先に着替えますから、向こうを向いていてください』とベルナデッタのいたずら心を刺激する言葉をかけて、手早く着替えを済ませる。
すっかり何かを諦めたベインが着替えるさまを、ベルナデッタがガン見していたことはもはや言うまでもない。
「それじゃあ、メイドの方に朝食をお願いしてきます。ベルさんも着替えておいてください」
「何だ、ボクの着替えは覗かないのかい? 新妻の着替えに興味がないとは、嘆かわしいな」
「じゃあ、連絡してきます」
だいぶベルナデッタの扱いに慣れたベインは、あえて答えることなく部屋をあとにする。
後ろ手に寝室のドアを締めると、大きく伸びをする。
「痛たたたた……腰が痛い……」
ごきごき、と骨が鳴るような妙な音を立てるストレッチをしてから、ベインはまだ慣れない邸宅の廊下を進んでいく。
さてキッチンはどこだっけ、誰にお願いすれば良いのかな、などとつぶやきながら歩いていると、曲がり角で若いメイドに出くわした。
「あら若様? おはようございます。ちょうど起こしに伺おうかと思ってました」
「あ、あぁ、おはようございます。今起きたところです。すみません、盛大に寝坊してしまいました……」
「いえいえぇ、昨夜もお楽しみでしたね? お嬢様もすごくお喜びみたいで」
ぶふぉっ、と変な音を立てる咳をして、ベインは少し苦しげにうつむく。
「お嬢様はほら、色々アレな方ですけど、まぁ——」
若いメイドはにっこりと笑みを浮かべて、ぐっと拳を握りしめる。
「頑張ってくださいね? 精がつくものお作りしてますから。どうぞ食堂へ」
自由奔放にも程があるヘルセネン家の家風にベインが慣れるまで、まだ時間が必要であった。




