77 目覚めた朝に
「ん……っ」
小さく声を出して、アルムがゆっくりと身体を起こす。
シーツがずるりと下がって、浅黒い肌と小ぶりな乳房があらわになったが、アルムは全く気にする様子もなくベッドから降り立つと、一糸まとわぬ姿のまま部屋の窓へと歩み寄る。
まだ日の出前、東側の火山の山頂近く、稜線のシルエットが青紫色の空に浮かび上がっている。
武之内流の鍛錬で鍛えられた肢体は贅肉などというものはなく、引き締まった腹筋は薄っすらと6つに割れるように筋が入っている。
足腰の鍛錬を重視する武之内流の門弟らしく、ふくらはぎから太ももにかけても、高出力と機動力を両立出来る、健康的な太さが保たれていた。
「……きれい」
全裸のまま窓のそばに立ち、じっと視線を外に向けたまま、誰にも聞こえないような小声でぼそっと呟いた。
火山の山頂付近からは水蒸気が立ちのぼり、徐々に近づいてくる朝陽に照らされて暗いオレンジ色から徐々に明るい色へと移り変わる。
後ろから聞こえる物音に振り返ると、アルムの視線の先ではリュウが無防備な寝顔を見せている。
シーツを大きく開けて見えるリュウの身体は、全身が古傷だらけだった。
一体どこで、どんな生き方をすればこんなに傷だらけになるんだろう、と思えるほどおびただしい傷痕が刻み込まれている。
昨夜、ベッドの中で至近距離で見たリュウの顔にも、よく見るといくつか傷痕がある。特に左胸あたりには深く刻まれた傷があった。
比較的小柄な16歳の少年、というには不自然なほど鍛え上げられた筋肉の鎧。
アルムは、昨夜リュウの身体を、ベッドの上で隅々まで見た。
リュウは『まぁ、そういう生き方してきたからなぁ』とあっさりと笑って済ませたが、中には致命傷の痕なのではないかと思えるほど大きなものもある。
ベッドの中でリュウが語った『そういう生き方』がどういう生き方なのか、アルムは聞かなかった。
『リュウはリュウ。私にとってはそれだけでいい』
昨夜リュウと抱き合った時には、湯上がりの高い体温もあって汗ばむほどだったのに、朝方は少し肌寒い。
アルムにとって、自分が心から好きな男と、自分の意思で身体を重ねたのは生まれて初めてのことだった。
それも、事前にちゃんと身体を清めて、暖かい部屋の柔らかいベッドの上で、優しく壊れないように『女の子』として扱われたことですら初めての体験だ。
まるで貴族のお嬢様のように、男の腕の中で嬉しさのあまり泣いてしまったことも初めてである。
アルムはファーマシー騎士爵家の令嬢なので『貴族のお嬢様』ではあるのだが、家畜や慰み者として扱われ続けていたために、普通の女の子がどう振る舞うのかも知らなかった。
「アルム? 風邪引くぞ」
ふわ、と優しくタオル生地のローブが肩にかけられる。
少し驚いて振り向くと、いつの間にか起きていたリュウが背後に立っていた。
狩人として、ファーマシー家の奴隷のように『獲物を狩るまで帰ってくるな』と森の中に放り出され、意識を研ぎ澄まさなければ自分が魔獣に食われてしまう、そんな環境に身をおいていたアルムですら、リュウの気配には気付けない。
一体どんな生き方をすれば、日常生活でこんな気配の消し方が出来るのだろう、と不思議になってしまう。
「リュウ、見て。日の出」
「お、ちょうど良いタイミングだったな」
「きれい」
「うん」
短い言葉で、お世辞にも色気やムードに富んだものではない。
まるで子供の頃から共に過ごした幼馴染同士のような、なんの遠慮も気兼ねもない、家族のような言葉の交わし方。
だが、ローブ越しにアルムの引き締まった、やや筋肉質な肢体を後ろから抱きしめるリュウの手つきは、愛する女を守ろうとする男のそれだ。
「なぁアルム」
「うん」
「ゴメンな。俺、不慣れでさ。痛くなかったか?」
「全然。優しすぎてもどかしかったくらい」
「マジか」
「リュウは私に何をしても良い」
「アルムはもっと自分を大切にする、ってことを覚えたほうが良いと思うな」
「リュウが大切にしてくれるから、それで良い。私もリュウのことを大切にする」
「そっか」
リュウは、今生では女性と交わったことはない。前世の武之内隆造であった頃は妻こそいなかったものの、裏社会という場所に身を置いただけはあって、それなりの経験はある。
賭け試合で大番狂わせを演じたときなど、賭けに勝った大富豪の実業家から、一度に部屋に入り切らないほどの人数の娼婦を送りつけられたこともある。
もちろん、娼婦の中には隆造の命を狙う刺客もいたが、それでも女性経験皆無というわけではなかった。
ただ、かつて隆造であった頃も含めて、リュウには『ただ好きな相手と、なんの思惑も損得勘定もなく、ただ自然に結ばれた』という経験はなかった。少なくとも昨夜までは。
「今頃リュッケンとミナもイチャついてる」
「そうかぁ? アイツら絶対まだだと思うぜ?」
「昨夜女湯で、ミナも焚き付けておいた。ミナから行っちゃえって」
「いや無理だろ。だってミナだぜ?」
「……うん、無理かも」
「リュッケンもたいがいヘタレだからなぁ、もう。ミナだって待ってるんだろうから、ガッて行っちまえよって思うよ」
「同感」
「あいつはアレだな、積極的なように見えてめっちゃ慎重なんだよな。普段の稽古見ててもよく分かるよ。多分、あいつはイケるって確証が無いと踏み出さないタイプだな」
「だとしたら何も見えてない。ミナはもう待ってる」
「だよなぁ……」
アルムとリュウの顔に日差しが差し込んでくる。アルムが眩しそうに目を細め、リュウに抱きしめられたままの姿勢でリュウの手を取り、ローブの中へ引き入れる。
「リュウ、手、冷たい」
「ん? あぁ、さすがに今の時期、山の上だと朝は冷えるよな」
「寒い。温めて」
ぐい、とリュウの手を引っ張り、アルムはベッドに潜り込むと、ローブをもぞもぞと脱ぎ捨てる。
「お願い、リュウ。来て」
アルムに手を引かれるままにベッドに戻ったリュウは、朝陽からアルムを隠すように毛布をかけると、自身も毛布の中に潜り込んだ。
二部屋割り当てられた内のひとつでリュウとアルムがお互いの温もりを確かめ合い始めた頃、朝陽に気付いたリュッケンは一人ソファの上で身体を起こした。
「……朝かぁ……ミナはまだ寝てるな」
客室の中には、大きなベッドが一つだけ据え付けられていた。
昨夜、先に風呂から部屋に戻ったミナと、少し遅れたリュッケンは二人揃って部屋を見て仲良く途方に暮れた。
『なんでベッドが一つだけなんだよ……』
『あ、あのさリュッケン、どうしよう……』
『どうしようって、そりゃあ……俺、床で寝るからミナがベッド使えよ』
『そんな、リュッケン風邪引いちゃうよ? 今はあったかいけど、朝方とか絶対冷え込むよ?』
『いや、だってさ……一緒に寝るわけにはいかないだろ? そうだ、俺ちょっとセシリア先輩に相談してくる。もう一部屋使わせてもらえないか——』
『ま、待ってリュッケン!』
ぱし、とフサフサの体毛に覆われたリュッケンの手を、ミナの大きな手がとって引き止める。
『……ほ、ほら、その……もう遅いしさ、セシリア先輩ももう休んでるよ……あ、あの、私……私だったら、大丈夫だから』
『いや、でもさ』
『わ、私その、えっと、ほら、弟とか妹といっしょに寝るのも慣れてるし、だからその——』
『そうだ! 俺このソファで寝るから! 大丈夫! あの、俺も赤狼の戦士だから、女が嫌がることとか絶対しないからさ! 親父からも、戦士として恥になるようなことはするなって言われてるしさ!』
『……リュッケン?』
『だから! だからさ、心配しないで大丈夫だから! 大丈夫! 俺、ミナには指一本触ったりしないからさ!』
泣き出しそうなほど残念そうなミナの表情を、『男と同室になったことで不安になってしまったことのあらわれ』と受け取ったリュッケンは、本当にソファから一歩もベッドに近寄ったりしなかった。
何度もミナが『風邪引くよ』『私は本当に大丈夫だから』『こっちおいでよ』『ノームと獣人でも狭くないよ』と、精一杯の勇気を出してベッドに誘ったにもかかわらず、である。
残念ながら、リュウとアルムがベッドを共にしたその夜、諦めたミナと理性をフル動員させたリュッケンは、夜遅くまで話し続けていた。
『——それでさ、俺が12歳のときだったかな、親父からナイフをもらったんだ。赤狼族じゃ12歳が成人の仲間入りなんだけど、そこで父親からナイフをもらって、一生使うんだ。今もあるぜ、ほらこれ』
『へぇ、そうなんだぁ……じゃあリュッケンに子供が出来たら、やっぱり同じようにするの?』
『ん? あぁ、そりゃそうだろうな。親父は爺ちゃんから、爺ちゃんはひい爺ちゃんからナイフをもらって、結婚したら自分で鉄を打って鍛えて、子どものためのナイフを用意するんだ。俺んちの親父は凝り性でさ、わざわざ集落にドワーフの鍛冶屋のおっちゃん呼んで、ナイフの作り方習ってたぜ。こう、鎚っていうんだっけ、ああいうのも買ってきてさ。多分好きだったんだろうなぁ、そういうモノ造り系のが。とにかく器用でさ、母ちゃんにビーズのネックレスとか作ってプレゼントしてた』
『すごぉい、私んちのお父様、すっごい不器用なの。しょっちゅうボタンは掛け違うし、お母様がいないと何にも出来なくって。でもお母様が言うには、優しいところが何より良いんだって。私にもね、真面目で優しい男を選びなさいって。それでね——』
実にほのぼのとした、淫靡さなどとは全く無縁な夜であった。
温泉で身体も温まり、セシリアの手配した夕食をたっぷりと食べたミナは次第にうとうとし始め、リュッケンに何かを話しながらむにゃむにゃと呟いて、ついに寝落ちしてしまった。
ゆったりとしたローブの無防備な襟元からは、豊満な胸の谷間がガッツリ見えてしまっている。
はだけた裾からは、ギリギリ下着が見えそうなラインで脚もあらわになってしまう、という、男が同じ部屋にいる状況からは考えられないほど無防備な寝姿である。
リュッケンは理性と赤狼の戦士の教え『戦士は女子供を護るもの』をまるで呪文のように小声で繰り返しながら、ミナに優しく毛布をかけ、自らはソファへと戻っていく。
『見るな、見るなよ? 駄目だ、いくらミナが好きだからって、寝てるところを盗み見るなんて絶対駄目だ。俺は赤狼の戦士、汚い手を使って良いのは戦争の時だけ、絶対傷つけるようなことしちゃ駄目だ』
と繰り返していたリュッケンは、ミナが毛布の中で『このヘタレ……でもそこが好き』と呟いた声に気づくことはなかった。
だが、そのミナも、朝陽を見上げるリュッケンが振り返りながら自分をじっと見ていたことに気づかない。
「やべぇ……やっぱミナってカワイイよなぁ……真面目だし優しいし……どうしよ、あーもうどうしよ……どうすりゃ良いんだよぉ……」
と、ひとり頭を抱え呟いていたことにも気づかなかった。




