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76 傷痕

 石造りの大浴場は高い塀で囲まれ周囲の視界が遮られているが、湯船に浸かり顔を上げると、空には美しい輪のかかった満月が浮かんでいた。

 湯に浸かったまま、立ち込める湯気越しにぼんやりと月を見上げるアルムは、唐突に頭からざば、と勢いよく湯の中に全身を沈める。


 アルムは幼い頃、水が嫌いだった。

 後ろから力任せに頭を捕まれ、何度も何度も飼い葉桶の水の中に顔を沈められた。

 幼かった頃のアルムは、泣いて許しを懇願しても、周囲の男たちはただ下卑た笑いを浮かべるだけで、母親ですら助けようとはしない。


『お前なんて産まなければよかった。だから6人目なんて産みたくなかったのよ』


 それが、アルムが覚えているただ一つの母の言葉である。

 

 成長してからは虐待はさらにひどくなり、女性としての尊厳を毎夜毎晩踏みにじられていた。

 入浴のときには必ずと言っていいほど、同族の男が浴場に乱入し、ボロ雑巾のようになるまで弄ばれた。

 夜、納屋のような部屋で眠っていると、ほぼ毎晩のように父親や兄が部屋に入り込んで、アルムの小柄な身体を押さえつけた。

 魔法で身体強化を使う成人の男と、身体強化も魔法も使えない少女では、文字通り絶対に超えられない壁がある。

 レッドエルフの集落の中で、忌み子として生まれたのはアルムともう一人だ。アルムよりも少し年長のその少女は、貴族ではなく平民であったために、よりによって集落の男たちの共同所有物のように扱われていた。

 

 アルムが家出同然に実家を飛び出し、王都を目指したのは、その年長の少女が集落の長であるファーマシー士爵に、つまりアルムの父に弄ばれ殺された翌日だった。


『ここにいたら、父や兄に犯されて殺される』


 そう考えたアルムは、夜中いつものように自分を弄びに来た男の舌を噛みちぎり、急所を原型をとどめないくらいに踏み潰して服と金とナイフを奪い、父ロルト・ファーマシーの背後に立った。

 返り血を浴び、ボロボロの状態の娘を見ても父ロルトの表情は一切変わらない。むしろ汚らわしい者を見るような目でアルムを見下ろした。


『私は士官学校に行く。もう二度とここには戻らない』


 父は無言で士官学校への入学許可の書簡と、『末娘アルムをファーマシー家から勘当する。今後一切のアルムの行動についてファーマシー家は無関係である』という文面を無言でアルムに押し付けた。

 これが、アルムの最後の家族との時間となった。

  

 士官学校に入学してからの環境は、アルムにとって控えめに表現しても天国だった。


 殴られる事はあっても、ただの腹いせの道具として扱われることはない。

 格闘訓練で組み敷かれる事はあっても、そのまま家族の目の前で犯されることもない。

 安心して夜から朝まで眠れる寝床に、実家にいた頃からは比べ物にならないほど豪華な、晩餐と言ってもいいほどの食事が保証されている。これが天国でないとすれば、本物の天国なんかに行ってしまったら、キャパオーバーで鼻血でも出てしまうに違いない。アルムは本気でそう信じ込んでいた。


 士官学校の最底辺と蔑まれるGクラスで、異彩を放つ少年に出会った日のことを、アルムは鮮明に覚えている。

 リュウ・ノーチという平民の少年は、有名無実という言葉しか使えない『士官学校の平民枠』を使って、本当に貴族の子弟ばかりが通う士官学校へ入学してきた。

 アルムは入学当初、体術や戦闘技術においては赤狼族の戦士長の息子、リュッケンに次いで自分が次席であろうと考えていた。


 アルムが魔法を使えないエルフ、忌み子であると知った士官学校の上級生、アルバート・ランゲルハンスがアルムを性奴隷として扱おうとしたところに居合わせたのが、他ならぬリュウだった。

 まるで自然な動きのように、やや大げさに躓いたように見えたリュウは、アルムの胸を鷲掴みにしていたアルバートの金的に的確に肘を入れたのだ。


『あー先輩、さーせん。てかアルム、探したぜ。昼休みだろ。飯行こうぜ飯』


 生まれ初めて、自分に向けて差し伸べられた救いの手だった。

 自分よりも少し背が低い、平民で孤児の少年。自分が何の種族かも解らず、本当の年齢も、親の顔も名前も知らない、社会の最底辺にいたであろう15歳の少年が、自分に手を差し伸べた。


『で? このパイセン、知り合い?』

『……知らない』

『そっか。ヤだったら大声出して良いんじゃね? それかブン殴るか、キンタ◯蹴り上げて潰すとかさ』


 あまりにも軽く、あっけらかんとした物言いで、うずくまり脂汗をだらだらと流す麗しの侯爵令息を見下ろすリュウの振る舞いは、アルムにとっては革命にも等しい変化をもたらした。


 嫌だったら、拒んで良い。

 やられたら、やりかえす。


 自分にその技術も力もないことはアルム自身よく知っていた。が、この数日後に行われたリュウと侯爵令息の『公開試合』の翌日から、アルムの人生は大きく変わる。

 アルム自身、自らが『身体強化を重ねがけした貴族の、プロの軍人』を一方的に蹂躙できるような力を持てるとは思わなかった。

 同時に、強くなればなるほど、心のなかで業火のように燃え盛っていたファーマシー家への復讐という人生の目標が、取るに足らないことと思えるようになっていた。これには、アルム自身も大いに驚いている。


 武之内流の鍛錬に、Gクラスの誰よりも高いモチベーションを持って臨んでいたアルムに、リュウは『なんでそんなに強くなりたいんだ?』と尋ねた事がある。

 アルムの答えは単純明快、自分を傷つけ、押さえつけ、そして辱めた同族への復讐だった。

 普通の武道の指導者なら、『復讐は何も生み出さない』『そんなことに使うなら、もう教えない』と答えたことだろう。

 だが、リュウの答えは単純明快だった。


『そっか。なるほどな、だからか』


 その返事の後も、リュウの指導はまったく変わらなかった。

 あまりの変化の無さに、アルムのほうが不安になったくらい何も変わらない。


『リュウは、復讐のために武之内流を使うな、とか言わないの』

『え? なんで?』

『なんでって……武道の教官とかなら、多分そういう』

『まぁ武道ならそうだろうね。でも言ったろ? 武之内流は兵法であって武道じゃない。弱者が生き残るための技術だ。アルムが生きていくのにその復讐が必要なら、誰にも止める資格なんて無いだろ』

 

 リュウはあっけらかんと、まるで単純な算数について語るかのような表情でアルムに語りかけた。

 

『例えば、目の前で子供を殺された母親に「復讐なんてやめておけ」なんてさ、まぁ物語としては正しいんだろうけど、俺なら言えない。その母親にとって、復讐出(・)来(・)た(・)か(・)ど(・)う(・)か(・)よりも、自分自身が我が子の仇を討った、っていう実感が大事なんだよ。そうしないと前を向けない。前を向けないと生きていけないっていうなら、俺はその復讐はするべきだと思う。復讐は何も生み出さない、なんていうけどさ、俺はそうじゃないと思うな。少なくとも、虐げられた、傷つけられた人が前を向くのに必要だっていうなら、その人にとっては必要不可欠なプロセスなんじゃねぇかな。しらんけど』


 嗚呼、救われた。

 レッドエルフ族の忌み子として産まれ、踏みにじられ、殴られ、犯されてきた自分の人生が、この小柄な孤児の少年に。


 その日から、アルムの興味の全てはリュウに向けられている。

 そして今日、この日。アルムが『こんなもの、おとぎ話の中にしか存在しない』と心から考えていた、自分に対するプロポーズの言葉が、リュウの口からアルムに届けられた。


 リュウの育ての親の故郷であり、今や自分たちを導くアルトリリアの母の故郷であるデアハルス王国。

 そこへ行って、結婚式をしよう。

 アルムにとって、復讐以外での生きるモチベーションを持てたのは、人生で初めてのことだった。


「ちょ、ちょっとアルム!? 大変! アルムが溺れてる!!」


 不意に、凄まじい膂力で体ごとお湯の上へ引き上げられた。


「大丈夫!? 今法術かけてあげるから!」


 少しウェーブの掛かった長い銀髪に青い瞳。そして見上げるような大柄な身体。

 ノーム族のクラスメイトにして、アルムの親友、ミナだった。


「大丈夫、ちょっと沈んでただけ」

「ちょっとじゃないよぉ……何その『沈んでただけ』って、ビックリしたぁ。先に入ったはずなのに姿が見えないし、呼んでも返事しないし」

「お湯の中で、リュウのプロポーズの言葉を反芻してた」

「そっか……そっかぁ、そうだよね? そうだよねえ? プロポーズされたんだよね? ね、ねぇどうだった? その、やっぱり嬉しかったんだよね? なんて言ってくれたの?」


 突然、ミナが恋バナ大好きな純真な少女に戻る。

 本来、ノーム族はこういう種族なのだ。

 大柄で力も強く、法力にも恵まれながら、博愛的で平和主義者の多い穏やかな種族である。

 そんな愛情豊かな種族にあって、ミナは16歳と思春期真っ盛りだ。恋バナともなれば、食欲を凌駕する唯一の要素とも言える。


「あらあらぁ? 楽しそうな話してるじゃない子猫ちゃん達? おねえさんも混ぜて?」


 少し鼻にかかった、妖艶な色気のある声の主、セシリアは、なんと身体にバスタオル一枚巻かずに堂々と裸体をさらけ出して二人に歩み寄ってきた。

 剣術で鍛えられ、余分な贅肉などが一切ついていない引き締まった身体に、思わず同性であるミナも見とれてしまう程に美しい胸。つややかな黒髪が白い肌に映えており、確かにこれなら士官学校の男子生徒が稽古を願い出るはずだ、と納得出来てしまう美貌である。

 

「あ、セシリア先輩! あの、アルムが今日リュウからプロポーズされて、それを思い出してたって言うんです!」

「んふふふ、そっかぁ、リュウ君やるじゃない。良かったわね、アルムちゃん?」


 ミナは身体にバスタオルを巻いているものの、豊満な胸のあたりがかなり窮屈そうである。

 湯船の中で立ち上がったアルムは、セシリアとミナの前にまるで裸を晒すように両手を広げて見せた。


「セシリア先輩、ミナ、私……穢れてない?」


 アルムの表情は、湯気に隠れてはっきりとは見て取れない。が、その声はアルムには珍しく不安げであった。


「私は……忌み子だから、今まで数え切れないくらい同族の男に犯された。今更リュウにあげられる『初めて』なんてどこにも残ってない。そんな私が……私は、リュウにふさわしくない……」

「アルムちゃんはキレイよ。大丈夫。おねえさんが保証する」


 ちゃぷ、と軽い水音を立て、セシリアが同じエルフ族のアルムに歩み寄ると、裸のままで優しく小柄なアルムを抱きしめる。


「好きなんでしょ? リュウ君のこと」

「好き。超好き」

「リュウ君はなんて言ったの? アルムちゃんのこと」

「……私のどこが穢れてるんだって……きれいだって……でも、私は——」

「私もリュウ君と同感。大丈夫アルムちゃん、あなたは確かに沢山辛い思いをして、沢山ひどい目にあった。でも、リュウ君はねぇ? あなたの傷痕も何もかもひっくるめて、キレイだって言ってくれたんだと思うなぁ」


 ぐす、とセシリアの豊満な胸の中で、アルムが鼻をすする。


「大丈夫よアルムちゃん、あなたはキレイ。どこも穢れてなんかいない。誰もあなたを穢すことなんて出来ないの。明日はお昼くらいまで寝てていいから、今夜はリュウ君にいっぱい、愛してもらいなさい?」


 なぜか釣られて感極まったミナは、涙をこらえるように空を見上げる。

 湯気と雲の切れ間から、また美しい輪のかかった満月が顔をのぞかせていた。

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