72 魔女と女狐
「ほう、ではあのバカ王子の書簡は女狐には届かなんだか」
「御意」
エントラッセン帝国軍の参謀、レザーマン・ネッケンは少しハスキーな声でそう答えると、女帝アンの目の前にメディコ大陸の地図を広げる。
「ランドルト王国王太子、レオポルトの書簡の内容については掴んでおります。どうやら王太子は自らが玉座に就くために、宗教的な後押しをサミッツ皇国に求めたようです。ですが、その書簡と前後して皇国からは『精霊の剣騎士団』がランドルト王国西方に入り込んだようですな」
「やれやれ、バカもここまで突き抜けるといっそ清々しいな。余も政治の世界に身をおいて長いが、よもやわざわざ、自らが王になったあとに介入のリスクを高めるような真似をするようなバカは見たことがない。愚王の子は輪をかけて愚者であったな。わざわざ亡国の軍勢を自国に招き入れるとは」
「御意に。どうやら教皇アンナマリアに、自身の帰依と引き換えにベネディクト4世の廃位のための働きかけを依頼した様子。それに、我がエントラッセンへ攻め込むに当たり、鉄十字騎士団の派遣を要求したとか」
「またずいぶんと丁寧に、あの女狐の神経を逆撫でするような真似をしたものだな」
「御意」
レザーマンは、言葉少なく返して大きく頷いた。
彼自身、大聖霊教会で洗礼を受けた『信徒』である。が、いわゆる世俗派であり、信仰心も『そこそこ』といった程度だ。
それだけに信仰を捨てたアンの考えも、頑迷な原理主義者である教皇アンナマリアの考えもある程度は理解できる。
参謀たるもの、あらゆる立場のものの考えを理解して、戦略や戦術を練らなければならない。この哲学を徹底しているからこそ、彼は長年名将エレンボーゲンの右腕としてその実力を発揮し続けることができたのだ。
「あの女狐に『大精霊に帰依するから見返りをくれ』などと言ったら、騎士団総掛かりでランドルト王国は焦土になるだろうな」
「おそらくは」
女帝アンは、教皇アンナマリアの狂信的な信仰心をよく知っている。
本来、信仰心というものは自発的なものであり、自ら大精霊の慈悲を自覚することで発露するもの。見返りと引き換えにするなどという考え方は、教皇などという立場にある者からすれば言語道断である。
レオポルトの書簡が、枢機卿シルルジアによって握りつぶされた事を知らないアンとレザーマンにとっては、レオポルトはわざわざ眠れるドラゴンの尾を踏みつけて、自分の威光のためにお前の背に載せろと言っているのと同じだった。
「あのバカ王子は一体何がしたいのだ。余には皆目見当もつかんが」
「奇遇ですな陛下。私も、全く持って理解しかねます」
「で? その情報は、当然アルトリリアにシュターガーの小僧も知っておるのだろうな?」
「は。ランドルト王国にも、我が手の者を潜ませております。王女アルトリリア、王弟シュターガーにも情報は共有済みです」
「うむ、ご苦労。余も出来る部下がおると楽ができて良いわ」
「お褒めに預かり恐悦至極に存じ奉ります」
「よさぬか、そうかしこまった言葉を使うでない。して、お主とヴィルヘルムはどう動く?」
「左様でございますな」
レザーマンは少し首を傾げ、指先をとんとんと軽く叩くように動かし始めた。
ランドルト王国最大の抑止力、筆頭軍師アーノルド・ヘルセネンという智謀の持ち主がいるとすれば、エントラッセン帝国軍にもレザーマン・ネッケンという智将がいる。
実のところ、このヘルセネン子爵とレザーマンは個人的にも知己であり、戦史研究や戦術論については互いの論文を読み合い、手紙を通じて互いの見解を交換し合うことも多い。
「教皇アンナマリアが、王太子レオポルトの書簡を受け取らず、その存在も知らぬ、という前提になりますが——」
「ほう、あの女狐に辿り着く前に、書簡が握りつぶされるという仮定、であるな」
「御意に。おそらくは文書も騎士団の何者か、もしくは枢機卿の何者かが受け取り、教皇に取り次ぐこととなるでしょう。仮に『信仰派』の枢機卿が受け取ったにせよ、『世俗派』が受け取ったにせよ、まず件の書簡を直接教皇に見せるということはございますまい。精一杯言葉を濁して『斯様な申し出がレオポルト王太子から届いた』と伝えるにとどまるでしょうな」
「ふむ。それで?」
「おそらくは、国境を接するランドルト王国西側の防衛の要、ロガン辺境伯に接触を試みるでしょう。ただし、これはレオポルトへの接触を目的としたものではないでしょう」
「ロガン辺境伯に、離反を持ちかけるか?」
「おそらくは。ロガン辺境伯はランドルト王国内では、比較的大聖霊教会への信仰心が強い御仁と聞きます。となれば——」
ふむ、と女帝アンは呟いて足を組み替える。
アンも600年にわたり帝国を統治していた類まれな政治家である。戦争も何度も経験してきた。権謀術数、外交上の腹芸だの騙すような話術なども当然のように身につけている。
老練な政治家としてのアンが結論を導き出すまでに、それほど長い時間はかからなかった。
「なるほどな。こちらと、それにアルトリリアとシュターガーの小僧の動きを察してのことか。あの女狐がよく使う『大精霊の託宣』というやつか」
「御意に。どうやら皇国もなかなかに優秀な諜報部隊を抱えているようでございます」
「であろうよ。レザーマン、お前も知っていよう。宗教というものは実に恐ろしい。余が信仰を捨てたのも、為政者が信仰を根拠に国を治めてはならぬと気付いたからよ。王であれ皇帝であれ、およそ国を治めるものは、己の責任において国を導かねばならぬ。間違っても、国を導く決断を神だの精霊だのに委ねてはならぬ。余は、余の決断と責任において帝国を治めておる。大精霊の託宣とやらに国の行く末を委ねるなど、為政者として最もやってはならぬことだ。そこには為政者の責任が生じておらぬ」
「確かに、陛下の仰るとおりかと」
アンも、最初から信仰心を持ち合わせていなかったわけではない。
まだエントラッセンが帝国ではなく王国であった頃、女王であったアンは日々の祈りを欠かさない信心深いエルフの女だった。
「為政者は、いかなるときもその決断に責任を持たねばならぬ。であればこそ、玉座の主は権力を持つことが許される。己の決断に責任を持てないものが権力をもつなど、民にとっては悪夢以外の何物でもなかろう」
「なるほど、陛下が仰るのは教皇アンナマリアのこと……だけではございませんな?」
「そうだ。あの奸賊ベネディクトのことだ。あやつは神だの精霊だのを根拠にしておらぬ。そこだけは評価出来ようが、調べた限りでは政務を側近どもに放り投げて、己自身は後宮に入り浸っておるそうではないか」
「確かに、そのようですな。アルトリリア王女の知らせでは、王太子レオポルトも父親に負けず劣らず好色であるとか」
アルトリリアの情報網は、おそらくはランドルト王国でも随一といえる段階に入っていた。
側近であるリュウが育った孤児院で、リュウの武術の手ほどきを受けた兄姉によって、レオポルトに関する情報もアルトリリアの下へ届けられている。
親レオポルト派というべき者たちは、もっぱら中位から高位の貴族の当主か王都内の御用商人、つまりレオポルトが金を配っている者に限定される。
市井においては、王太子レオポルトの評判はおしなべて低い。中には『あんなのが次の王様なんだろ? 変わらねぇって。今の王様と同じじゃねぇかよ。俺達のことなんて興味ねえさ』と、最初から諦めてしまっているような声も出ている。
孤児院の長男であるノーム族の男アルツと、長女であるエルフの娘レセプトは、依頼を出したアルトリリアも驚くほど多くの情報をもたらした。
レオポルトがどこの店でどんな酒を飲み、いくら支払ったのか。
その時の同席者は誰で、どのような話をしたのか。
時にはレオポルトが入り浸る酒場で、皿洗いのアルバイトとして店に入り込み聞き耳を立てるなど、さすがリュウの兄と姉であるとアルトリリアやベルナデッタが感心するほどの行動力を見せていた。
「アルトリリアもなかなかに良い手駒を持っているようであるな」
「御意に。情報は命でありますからな」
「あぁまったくだ。さすがは我が友ディートリッヒの娘、情報と人の扱いをよく心得ておるわ」
「して陛下、王太子レオポルトの器はどうご覧になりますか」
「小物だ。到底王の器ではない。ランドルトの民が実に気の毒でならぬ。だがそこを考えれば、せめてアルトリリアが国の半分を奪い返してデアハルスを復興できれば、少なくともかの国の民の半分は救われよう。ならば余は良識ある為政者として、アルトリリアを助けてやるべきであろう」
「御意にございます、陛下」
「さて、女狐はどこまで読んでおるかの。大精霊の託宣とやらで、どこまで事態を見通せるものか、見せてもらおうではないか」
「なるほど、それも一興でありますな」
レザーマンはほんの少しだけ小首をかしげ、何度もふむふむと呟いて頷いた。
「どれ、一杯付き合えレザーマン。ヴィルヘルムがおらぬでな、余の酒に付き合おうという物好きがおらんで退屈しておったところだ」
少女のように幼い見た目の女帝は悠然と立ち上がり、執務室の棚から重厚なカットグラスを2つ取り出した。
「シュターガーの小僧が土産で持ってきたランドルト王国の酒だ。ランドルトのワインは飲めたものではないが、蒸留酒はなかなかイケるぞ」
「ほう、それは楽しみですな。して、将軍はどちらに?」
「なに、ちょっと仕事を言いつけてある。アルトリリアが事を起こすにあたって余も手を貸すと約束したのでな。余がしたためた書簡を届けるよう、まぁいわばおつかいだ」
「お使い、とは一体どこへ?」
「まぁ多少の因縁がある土地だ。ステルベン辺境伯とカンフル辺境伯を訪ねるよう言いつけておる」
ステルベン辺境伯といえば、つい数ヶ月前に戦火を交え、魔導ジャマーの力もあってほぼ一方的に帝国軍に蹂躙されたばかりだ。
その時の帝国軍側の総司令官がほかならずヴィルヘルム・エレンボーゲン将軍である。
「それはまた随分と……いや、将軍も気が進まなかったでしょうな」
「気が進む進まぬで仕事を選べる立場ではなかろうて。それに、形式だけとはいえ我が帝国とランドルト王国は相互不可侵条約を結んでおるのだ。軍の高官同士が交流を持ったところで何も不思議はあるまい?」
「なるほど……確かにそれはその通り、『仕事』でありますな」
「であろう。レザーマン、お前が余の酒に付き合うのも仕事であるぞ?」
「心得ております、陛下」
酒豪でも知られる女帝の酒に付き合うとなれば、この日この後はまともな仕事はできまい。
レザーマンは素早く考えをめぐらし、この日残っていた業務の中で今日中に外部に提出しなければならないものが無いことを確かめる。
「帝国の臣民として、皇帝陛下の酒を断るわけには参りますまい」
「うむ、であろう? さぁ座れ。これは火がつくほど酒精が強い酒でな、意外と後味が甘い。シュターガーの話ではナッツと合わせるのが良いそうだ。どれ、誰かおらぬか? 煎りたてのアーモンドとくるみを持ってこい。ヘーゼルナッツもだ」
女帝の声に答えた数名のメイドが、にわかに慌ただしく動き始める。
女帝アン・エントラッセンの、夕方の仕事の『いつもの光景』であった。




