67 オトナの謀略
「やぁやぁ、あなたがジーケンハウス卿ですな? 私はアーノルド・ヘルセネン。軍師を務めております」
ヘルセネン家で行われた、実にささやかな婚約祝賀の宴のわずか10日前のことだった。
ランドルト王国軍参謀本部の庁舎、そのエントランスでわざとらしく大きな声をあげ、冴えない男へ歩み寄った長髪の男がいた。
左足が不自由なのか、固い石床に杖でかつんかつんと音を立ててゆっくりと歩くその男こそ、参謀本部の事実上の頭脳と呼ばれる男、筆頭軍師アーノルド・ヘルセネン子爵。士官学校にて軍学講師をつとめるベルナデッタ・ヘルセネンの父である。
「ひ、筆頭軍師殿!? あ、あの、何、え?」
話しかけられた冴えない男は、ジョナサン・ジーケンハウス準男爵。参謀本部財務部経理課にて、今年の人事で主任に昇格したばかりの男だ。
飛び抜けて有能というわけではないが、細かいところに気がつく丁寧な仕事が評価されつつある。特に暗算に長けており、4桁同士の掛け算程度なら瞬時に答えを出せるほどの腕前だ。
「自分にその、筆頭軍師殿のようなご多忙なお方が一体——」
「いや突然失礼。いきなりですが、これから少々お時間はよろしいですかな?」
「じ、時間、ですか……」
「実はジーケンハウス卿に、ランドルト王国の国防に深く深く関わる、それはそれは重大な案件についてご相談がありましてね? 経理課長には『ヘルセネンに呼び出された』とお伝え頂ければ時間を作って頂けるかと——いや、直接行ったほうが確実ですな? さぁさぁ行きましょう! 経理課は確か3階でしたな? いやぁ脚がこんな具合なものでね、階段はいささか苦手でしてな。はっはっはっは」
「ヘルセネン卿!? あ、あの、だだ大丈夫です! 私が経理課長に報告してすぐに戻ります!」
「おや、それはありがたい。ではここでお待ちしますので、どうぞお早く」
ジョナサンは大急ぎで階段を駆け上がる。
つい先程、午後の最初の定型業務として小口現金の実数確認を済ませたところだ。ある程度時間的な余裕は作れるはずだ。
経理課長に『ヘルセネン卿から相談があるとのことで』と伝えた時点で、子爵家出身の部長は何かを諦めたようにジョナサンに直帰の許可を出し、机の引き出しから胃薬を取り出した。
「良いから行け。筆頭軍師殿を待たせるな。下手に機嫌を損ねると延々話に付き合わされかねん……ああもう全く、ヘルセネン卿はどうしてこう、いつもいつも……」
——と謎のセリフを呟きながら、マグカップのコーヒーで胃薬を流し込むと、聞えよがしのため息をはいて頭を抱える。
あからさまに途方に暮れた上司に一礼すると、ジョナサンは階段を下り庁舎1階で奇妙に思えるほど楽しそうな笑顔を浮かべたアーノルドの元へと歩み寄った。
「お待たせしました、筆頭軍師殿」
「おぉ、さすがお早いお戻りでしたな! いやぁ、私では登って下るだけでも半月かかってしまいそうでして、実に助かりました。やはりあなたは『善き人』ですな、ジーケンハウス卿」
「は、はぁ……」
実にツッコミづらいセリフを無遠慮に言う辺りは、さすがはベルナデッタの父である。
庁舎を離れた2人は、なぜか肩を組んだ長年の親友のように並んで歩き、すぐ近くのカフェへと入り込む。
特に参謀本部の女子職員に人気の店で、『とにかく何もかも、ことごとくがおしなべて甘い』と評判である。
「ときにジーケンハウス卿、甘いものはお好きですかな? 甘味は頭脳労働には欠かせないものです。ここは小官が出しましょう。さぁさぁ遠慮せずに! ちなみにここの店はガトーショコラとカスタードタルト、それにココアがおすすめです。そうだ、是非全部頼みましょう。私は毎日2回はこの店で頭脳の養分を補給しているのです。特にココアは濃厚で絶品ですよ!」
有無を言わさぬ勢いで話し続けるアーノルド・ヘルセネンは、本当にケーキを2つずつとココアを1杯ずつ、慣れた様子で注文してしまった。
給仕のノーム族の娘にも『やぁやぁ、昨日ぶりだね? 今日のその髪型もよく似合っているよ。素晴らしい』と常習犯であることがバレバレなナンパのような声掛けまでする始末だ。
ちなみに給仕の娘も、カウンターの奥にいるエルフ女の店長も、この眼鏡をかけた長髪、杖を持った男がランドルト王国の国防戦略を担う筆頭軍師である、ということは承知している。
「そ、それでその、筆頭軍師殿? 国防に関わる重要な案件というのは一体……私はその、ご存知かと思いますがただの経理の担当でして、軍略は国防の戦略などという重要案件に関わる権限を持っておりません」
「いやいやジーケンハウス卿、何を仰る。これは、卿にしか相談出来ない案件なのです。まぁまぁ、脳の養分が不十分な時に重要な案件の決断をするべきではありません。まずは食べようではありませんか」
テーブルに運ばれてきた、生クリームがこともかと言わんばかりに添えられたケーキは、見るからに胸焼けしそうなくらいに甘そうな逸品だ。
口に運ぶと案の定、口の水分が一瞬で吸い取られるほどの甘さである。ジョナサン・ジーケンハウスは慌ててココアを口に含むが、とんでもない甘さのココアは『飲めば飲むほど喉が渇く』という不可思議なメニューである。
「す、すみません、水を頂けませんか……」
「やっぱり、ですよね? 畏まりました。すぐお持ちします。ヘルセネン閣下はどうなさいますか?」
「あぁ、私は不要だよ。いやぁ今日も美味しいね。キミも今日も美しいよ」
「はいはいありがとうございます。はいどうぞ、お水です」
「あ、ありがとうございます……」
水差しごとテーブルに置かれた水をコップに1杯飲み込んで、ジョナサンはようやくひと心地ついた。
が、安心は出来ない。何しろまだ曲者として知られるヘルセネン筆頭軍師から、『国防に関わる重要案件』とやらについて何も話が出ていないのだ。
「筆頭軍師殿、そろそろその……重要案件というものは一体……?」
ジョナサンは必死で考えを巡らせていた。
経理課主任の自分にしか相談できない国防に関わる案件ともなれば、きっと予算に関するものに違いないだろう。
ひょっとしたら財務部長や経理課長にも秘密にしなければならないような、金の動きの調査かもしれない。
このところ南方方面の公爵家から起案された、南方防衛予算増額稟議が不自然なほど早く決裁された件だろうか。
それでなければ、神聖サミッツ皇国との折衝を担当している西方の公爵家からの納税申告額が、昨年から妙に減っていることについてだろうか。
軍部の金の流れはすなわち軍の人の流れだ。南方の護りを司るヴィンガーダルム辺境伯家から提出された騎士の増員申請についても、南方のカホウ連合王国との現状の関係性から考えればやや不自然な点もある。
いずれにせよ、たかだかいち経理課主任である自分に出来ることは限られている。
場合によっては、ヘルセネン子爵の『使い捨ての駒』として調査を命じられることも考えうる。
万が一そうなった場合も、嫡男ベインは士官学校でGクラスながら頑張っているとの手紙も受け取っている。自分にもしものことがあっても、準男爵家はベインが継ぐことになる。次男はまだ幼く跡取り争いが起こることはあるまい。あぁベインよ、息子よ。この頼りない父を許してくれ。お前には苦労ばかりさせてしまう。だが残された家族を、幼い弟妹の事を、そして母の事をよろしく頼む——。
悲壮な決意を即座に固めたジョナサンに、アーノルドはとびきり楽しそうな表情で顔を近づける。
「ほかでもない、卿の嫡男、ベイン・ジーケンハウス君のことだ」
「せ、倅が……その、息子がなにかその、やらかしましたでしょうか……?」
「まぁやらかしたといえばやらかした、と言えますな。何しろ昨年の合同演習では士官学校の歴史上初となる、Gクラスを総合優勝に導いた立役者、それに個人成績でも最優秀賞というとんでもない偉業を成し遂げています。いやぁ私も娘のベルナデッタから聞きましたが、愉快痛快とはまさにこのこと! 素晴らしい偉業ですジーケンハウス卿、あなたの息子は本当に素晴らしい! 逸材だ! 天才ではないかも知れないが、稀代の俊英と呼んで差し支えないでしょうな! 卿も鼻が高いでしょう!? そうでしょうそうでしょう! そうでしょうとも! わかりますぞジーケンハウス卿、私も娘の活躍を聞くだに、いつも『いいぞもっとやれ』と心のなかで快哉を叫んでいるところでありましてな!」
「は……は、はぁ……」
「そこでです。実のところ私は高位貴族の好む婉曲な表現だの思わせぶりな口ぶりというものが大嫌いでしてな? 単刀直入に申しましょう、貴家の嫡男ベイン・ジーケンハウス君をぜひとも! 是が非でも我が家の婿として、ヘルセネン家の跡取りとして迎え入れたいのです!」
「……………………は?」
さすがの事態に、細やかな気配りと目配りが出来る男として知られるジョナサンも、その頭脳の回転がぴたりと止まる。
これは決して頭脳のエネルギー源である糖分が不足したからではない。むしろエネルギー源は過剰なほどだ。
ジョナサンの考えが止まってしまったのは、筆頭軍師アーノルド・ヘルセネンの『相談』があまりにも予想外であったためだ。
「娘のベルナデッタからも聞き及んでおります。えぇ評判はうかがっておりますとも! 効果的な軍略を立案し! さらに剣術においてはあの天才剣聖セシリア・カンフルに続いて2人目、1年生時点でシルバー級認定を受けたそうではありませんか! これを俊英と呼ばずしてなんと呼びますか! 彼こそ国の未来を担う逸材! さらには娘からの拙い指導で魔法まで使えるようになったとか。いやぁ実に素晴らしい! これほど多様な能力を身につけるには、それこそ血の滲む努力を重ねたに違いありますまい? そんな努力が出来る人材であるからこそ、娘ベルナデッタも心底惚れ込んで——」
「ま、待ってください! その、少々お待ちを! ヘルセネン卿!」
「えぇえぇ待ちますとも。わが娘にとってもこの上ない縁談となりますからな。ぜひとも御子息と、細君にも諮って頂きたい。善きお返事を期待していますよジーケンハウス卿!」
結局この日、ジョナサンは『息子の縁談ということであれば、その、一応は息子と相談してからお返事を』とだけ返して、どこをどう通ったのか思い出せないような状態で粗末な自宅にたどり着いた。
妻から『どうしたんですか! 何があったのです!? まさか戦争が!?』と青ざめたような顔で詰め寄られたジョナサンが、息子に思わぬ縁談が舞い込んだ事を打ち明けることが出来たのは、夕食を済ませ一晩眠った次の日の朝、朝食の席であったという。




