39 身体強化術
汗だくの軍曹ルイは、歯ぎしりをしながらミナの法術を受けていた。
手首の関節は完全に骨折しており、法術をかけたとしても当面の安静を要する状態である。
さらに、ルイの骨折は手首だけではない。足首、肩、肘、膝、さらには背中の筋肉の部分的な肉離れ、つまり筋断裂を起こしていた。
「あと、あと30分もあれば……突破口を開けていたかもしれぬものを……」
ぎり、という歯ぎしりの音もかなり大きなものだった。
身体強化術を3重に掛けることは、軍全体でも出来るものはそうそう多くはない。ルイは身体強化術のエキスパートでもあった。
己の術に絶対の自信を持っていればこそ、未だに自分が試合に負けたということが信じられなかった。
「まさかこの俺が、こんな小娘に……だがいい気になるなよ、あと30分、いや20分もあればお前の防御ごとき——」
「へえ、じゃ実際やってみる? あと30分。出来るの? そのザマで」
いつの間にか、ルイのすぐ背後に立っていたリュウは、特に何の感情も交えない口調であっさりと言い放つ。
その言葉のせいであろうか、ルイはリュウの接近に全く気づけなかったことそのものに気づいていない。
「辺境伯軍は、みんな戦場でも同じこと言うんだろうね。あと30人、いや20人いれば勝てた。良い気になるなよ帝国軍って」
「小僧……ッッ」
「そもそもさ? ミナを見てみれば分かりそうなもんだけどなぁ。ほら、息も乱れてないし汗ひとつかいてない。あと30分続けてみれば良いよ。同じことの繰り返しだからさ。もちろん、おっさんが同じことをあと30分続けられれば、のはなしだけどね?」
「黙れ小僧! 貴様はプロの軍人というものを分かっとらん!」
「そりゃそうだよ、まだ学生だもの。ねぇ王女様、どう思います? あと30分やったらこのおっさん、ミナに一撃でも入れられると思います?」
ルイはふと我に返った。
自らをこの上なく冷たい目で見下ろす王女の視線に気づくなり、跪いて最敬礼の姿勢を取った。
頭を垂れ、王国の軍人としてあるべき姿をとったはずである。
が、アルトリリアの声は無慈悲と言えるほど冷たいものであった。
「ルイ・コンプリメ軍曹」
「はっ! 恐れ多くもアルトリリア王女殿下にお言葉を頂き、光栄でありま——」
「率直に申し上げて、私、少なからず失望しておりますの」
訓練所に居合わせた兵士、騎士全員が静まり返った。
アルトリリアは、現在のランドルト王室にあって王太子と人気を二分するほど人望がある人物だ。
もしも王太子がいなければ、アルトリリアこそが玉座の主にふさわしい人物とまで噂されている。
そんな王女が、ハッキリと口にしたのは『失望』の二文字だった。
ルイは激しい動きのあとの汗が、一気にすべて冷や汗に変わったかのように全身が冷たくなった。
軍人として、王族の前での失態は自分だけではない、自らが仕える主の面目を丸つぶれにさせてしまうようなものである。
そして今回、ルイが王女アルトリリアの前で犯した失態は、『プロの軍人が身体強化術の三重掛けをしながらも、なすすべ無く勝負に負けてしまった』という、ランドルト王国軍の歴史上初となる大失態だ。
「アルフォンス・ステルベン辺境伯」
「はっ」
「あなた、部下にどのような教育を施していらして? このようなザマでよく王国の東の盾を名乗れますわね。この体たらくでは、帝国との紛争で敗走したというのもうなずけますわ」
「……面目次第も……ございません」
アルトリリアの言葉には、一切の情け容赦がない。
まだリュウの話す言葉の方が、砕けたものである分人情味が感じられる。が、アルトリリアの言葉は完全に『絶対的な権力者が部下を糾弾するもの』である。
跪いたままのルイは、顔から血の気が引くあまり、目眩をこらえることができなくなっている。
「イザーク・アンビュランス少佐、あなたはどのようにご覧になったかしら? ルイ・コンプリメ軍曹の仰るとおり、あと30分続けていたら、ミナ・サージェリーの防御を突破できたとお考えかしら?」
イザークは思わず口をつぐみ、ちらりとうなだれている辺境伯へ視線を向ける。
「構いません、少佐の率直な意見を聞かせてくださいませんこと?」
「はっ……では、恐れながら申し上げます。小官は、ルイ軍曹に勝ち目はないと考えます」
「しょ、少佐殿!? なぜそのような事を! 自分はあと30分も攻撃をすればこの小娘を——」
「誰が発言を許しましたか? ルイ・コンプリメ軍曹」
一瞬でルイは口を閉じた。
王族を前にして、許可を得ずに立つことと、許しをもらう前に口を開くことは、時と場合によっては不敬罪に問われることもある。
「私はイザーク・アンビュランス少佐と話をしているのです。ご存知ありませんでしたの?」
「……も……申し訳ございま——」
「それで少佐、この無礼者に勝ち目がない、と判断した理由を聞かせて頂けるかしら」
「はっ」
ルイの消え入りそうな声を遮って、アルトリリアは視線をルイではなくミナへと向けると、優しげににこ、と笑みを見せる。
「まず見るべきは、2人の汗と、呼吸の状況かと」
「お続けなさい」
「はっ……ルイ軍曹は呼吸も乱れ発汗量も多くなっております。短期決戦を期して、10分で防御を突破するために身体強化術を3重に重ね掛けしておりました。これは体力、魔力いずれも著しく消耗するものであります。一方のミナ・サージェリー君は汗もかかず呼吸も整い、試合中も動きに一切の無駄がありませんでした。その証拠に——」
イザークは、アルトリリアと同じようにミナに視線を向ける。
卓越した視力を持つエルフの軍人の目は、ミナの足元に向けられた。
「ミナ・サージェリー君は、直径1メートルの円の範囲から、一歩も脚を踏み出さずに全ての攻撃を捌いておりました」
周囲の軍人たちからざわめきが起こる。
ルイは目を見開き、言葉を失った。
「およそ防御の動きとしては理想的です。最小限の足捌き、体捌き、そして鉄杖の使い方も基本の受けと払いに絞っておりました。おそらく、ミナ・サージェリー君は今の1対1の攻防なら、何時間でも続けられるでしょう。ですがルイ軍曹の3重の身体強化術で動けるのは、長くて残り20分。おまけにミナ・サージェリー君は自身が法術士であり、回復のための法術を使えるものと推測します。となれば、持久戦になれば彼女の有利は絶対のものになります」
今度は、しん、と訓練場が静まり返る。
緊張と、恐ろしく重苦しい空気の中、リュウがひょいと軽く手を挙げた。
「あら、何かしらリュウ? 何か補足することでもあって?」
「まぁ、補足ってほどじゃないっすけど——」
リュウはそう言いながらミナに歩み寄る。その歩みに、足音というものが全く伴っていないことに気付いたのは、この場ではイザーク一人だけだ。
「ミナはGクラスでも体力はナンバーワンですからね。何時間でもどころか、1日中だって今程度の動きなら続けられる。だよな?」
「えっ? うん、まぁ。今くらいの軽いのでいいなら。途中お腹は空いちゃうかもしれないし、その、えっと……お、おトイレとか、その辺を度外視したら、うん、まぁその……1昼夜くらいなら?」
「じゃあついでに、このおっさんの攻撃を受けてみて、どうだった?」
「あ、えっと……あの、アルトリリア様、ホントのこと言っちゃって良いんですか?」
実に申し訳なさそうな視線をアルトリリアに向けるミナに、王女は悠然と微笑みながら頷いた。
「当然ですわ。許します。むしろ、隠し立ては許しませんわ。この場で感じたことを一切包み隠さずにおっしゃいなさい?」
「えっと、それじゃあ……」
今度はミナが視線を下に向ける。
呆然とうなだれる軍曹、ルイ・コンプリメをちらりと見てから、またアルトリリアへと向き直った。
「正直、普段の鍛錬の方が何倍もキツいかなって」
「だよなぁ。俺も同感」
「だってほら、手数だったらアルムのほうが圧倒的に早いし、重さだってリュッケンの方が重いし、それにほら、リュウは何でも仕掛けてくるか、怖いのもなんだかリュウで慣れちゃったし……だからその、なんていうか……『あれ? これだけ? 今日って訓練軽い日?』って思っちゃいました」
本来ならば、ルイは唾を飛ばすような勢いで文句を言っていただろう。
だが、こうして試合で敗れた上に情までかけられ、怪我の治療まで施された後とあっては言い返すことなどできようはずもない。
「あと、忘れてるかもしれないけど王女様、ミナは身体強化術を使ってない。Gクラスは誰一人、身体強化術を使わないんですよね。強化術を使わない1年生相手に何もできないような術って、何か意味あるんですかね? 俺平民だからわかんない」
「その通りですわね。では試しにこの場にいる全員、身体強化術を今すぐ解きなさい」
アルトリリアの号令に、ほとんどの軍人たちはためらった。
騎士の重たい甲冑や、軍人たちが持つ重い武器は、身体強化術の存在を前提として作られたものである。二重がけしているものも当たり前におり、筋力を6割から7割増強した状態で動けるようにした装備を纏ったものばかりだ。
「何をしているのです? アルフォンス・ステルベン辺境伯、卿は王族の命令に従うということも、手勢に教えておられませんの?」
「ぜ、全員! 今すぐ身体強化術を解除! 命令に従え!」
アルフォンスの号令の直後、多くの騎士たちはその場にへたり込んで動けなくなる。
軍人は武器を地面に取り落としてしまった。
「うーわマジか……え、身体強化使わなかったらこんなになんのかよ、マジ信じらんねぇ」
「ひ弱」
リュッケンとアルムは軽いながらもその言葉に一切の容赦がない。
リュウにいたっては、呆れ返ったようなため息を漏らすばかりだ。
「シーナ先輩……この人たちダメじゃないっすか? 普段訓練で何やってんですかね? ひょっとしてお紅茶でも飲んでチャンバラごっこやってるだけじゃないでしょうね?」
ぐっ、と言葉が詰まったような声は、シーナとアルフォンス、そして辺境伯家嫡男のリカルドの口から漏れたものだった。
「アルトリリア様、魔導ジャマーがもしこの状態を見越して設計されたものだとしたら、ランドルト王国は——」
辺境伯家の者たちが身動きできない状態に陥ったなか、トドメをさしたのはベルナデッタと並んで立っていたGクラスのリーダー、ベインであった。
「エントラッセン帝国に、為すすべ無く一方的に蹂躙されます」
「そのとおりですわね。良くぞ言いましたわベイン・ジーケンハウス。私も全く同意見ですわ。むしろそう考えるべきでしょう。身体強化術の存在を前提に装備を扱っている軍で、その強化術を無効化する。これは、明らかに我が国の軍のあり様を前提に設計されたものと判断すべきですわ」
ベインの冷酷な分析に答えたアルトリリアの顔からは、珍しく笑みが消えていた。




