33 遠い旅路
ランドルト王国の東側、エントラッセン帝国との国境地域を守るのが、王国の東の盾ステルベン辺境伯の領地である。
王国と帝国の関係が悪化したのは、ランドルト王国の現国王であるベネディクト4世が即位してからである。
前王、フランシスコ5世の治世下では関係は良好であり、現国王の叔母はエントラッセン帝室の一員である某公爵のもとへ嫁いでいる。
王室と帝室は、さほど強くないつながりであるとは言え、一応は姻戚関係にあると言ってもいい。
そんな王国と帝国の仲が険悪になったのが、ベネディクト4世が一方的に帝国に対して領土侵犯を行ったことがきっかけだ。
『帝国の搾取に対する正当な反抗である』
というのがベネディクト4世の掲げた大義名分だ。
事実、フランシスコ5世の時代までは、王国は帝国に対して貢物を毎年続ける、朝貢外交を続けていた。
フランシスコ5世の治世においては、帝国は王国の8倍の国土と6倍の人口、圧倒的な生産力に支えられた軍事力は10倍を超えている。
事実上、ランドルト王国はエントラッセン帝国の属国であった。
「そんな屈辱的な状態に嫌気が指して、周辺諸国を電撃戦で併合して帝国からの独立を宣言したのが、我らが太陽にして偉大なる父、王国を導く指導者、虐げられし国々の守護者を自称するベネディクト4世陛下である、ということは授業で話したね? ド底辺諸君?」
馬車の中でドヤ顔のまま『メディコ大陸近代史』の講義をしていたベルナデッタであったが、彼女は1時間程度前に馬車酔いのために休憩時間に盛大なリバースをしてしまっていた。
「あの、ベル先輩大丈夫なんすか、なんかまだ顔色悪いですけど」
「大丈夫だとも。ボクをナメないでくれたまえ、乗り物酔いくらい克服——うぷ——」
「おいベル! 馬車の中で吐くな! ステルベン家の馬車を汚すんじゃない!」
突然俯いたベルナデッタの前に、慌ててシーナが軍用のバケツを差し出した。
「止めろ! 一旦馬車を止めるんだ! 休憩だ!」
シーナが御者台のすぐ後ろの戸を開けて叫ぶと、馬車はかなり大きな振動とともに停車する。
おろろろろ、という実に嫌な声をあげながらベルナデッタはバケツに顔を突っ込んだ。
「……間に合ったか……まったく……ベル、オマエ馬車に乗る前に何を食った? どうすればこんなに馬車に酔うんだ」
「大したものは——うぇっ——食べてないよ……せいぜいバタークッキーを15枚ほど……」
「だからだこのバカ。馬にも乗れない、馬車もダメ、これじゃお前は前線へは行けないな」
「こ、こんなはずじゃなかった……ボクが馬車酔いごときに……まさかベイン君の前でこんな乙女の醜態を晒すなんて、これじゃ白昼堂々の露出プレイと同——うぷっ」
「おいベル、吐くなら外で吐け。まったく」
馬車の戸が開くと同時に、ベルナデッタはバケツを持ったまま外へと飛び降りる。
「まったく、しばらく換気しなければな……ベルがまさかこんなに酔いやすいとは思わなかった」
「ベルナデッタ先輩、あの、よければ法術かけますよ?」
ミナがベルナデッタを追いかけて馬車を降りていった。
法術には状態異常を解消するための術があるが、ミナはつい最近この術をマスターしたばかりだ。
「酔い止めの法術、使えるのかい……?」
「はい、こないだ覚えたばっかりですけど……使います?」
「頼んで……良——」
歩み寄るミナに背中を向けて、茂みの方向に顔を突っ込んで実に嫌な声をあげるミナの背中は、まるで子どものように小さい。
この姿を見て、彼女が軍学においてすでに数本の論文を発表し、近代戦術にまで影響を与えたという才媛であると見抜けるものはいないだろう。
「はぁい、じゃ法術かけますねー? ゆーっくり息を吐いてくださいねー? 大きく息を吸ってぇー……はい止めますっ」
んっ、という妙な声の直後、なぜかミナも一緒に息を止める。
しばらくの沈黙の後、先に息を吐いたベルナデッタは不思議そうな顔でミナを見上げる。
「キミ、無詠唱で法術を使えるのかい? ド底辺クラスなのに珍しいな?」
「……あ、そっか、私は息止めなくっていいんだった……すみませんベル先輩、もっかい息を吐いてぇ」
「おいおいおい、頼むよぉ……早く何とかしてくれたまえよ……」
今度こそミナは小声で呪文を唱え、薄青の光を放つ手のひらを小さな背中にそっと乗せる。
大柄なノーム族のミナの手の平が、小柄なベルナデッタの背中の半分を覆う。
何度か深呼吸を繰り返したベルナデッタの顔色は、先程までの病人のような顔色だったベルナデッタは、すっかり血色が良くなっており、いつものドヤ顔にも元気が戻っていた。
「いやぁありがとうミナ君。今度キミにお礼をしたいんだが、何が良いかな」
「え、あ、いや……えっと、別にその、お礼とかは——」
「ミナ君、それはいけない。キミも準男爵令嬢だろう? 覚えておきたまえ、貴族にとって借りを作るというのはかなり大きなことだ。借りは早めに返しておくに限る。時間が経つと利息がつくからね。さぁさぁ遠慮はいらない。実際ボクの体調はかなり良くなったんだ。何でも言うだけ言ってみたまえよ。何なら獣人族の男によく聞く媚薬でも調達しようか。それか、リュッケン君との密会に使える、人目につかない密室が良いかな?」
礼を言う立場であるはずのベルナデッタの方がなぜかふんぞり返り、ミナの方が申し訳なさそうに俯いているという不思議な光景。
「おいベル、具合が良くなったならバケツを洗ってさっさと戻れ。まったく、お前のその休憩のために何回停まったと思ってるんだ」
「やぁやぁシーナ、済まない。もう大丈夫だ。ミナ君の法術ですっかり楽になった。さぁ、出発しようか」
呆れ返ったシーナに促され、ミナとベルナデッタという、身長差が最も大きな2人が馬車に戻ってくる。
換気もすっかり終わった馬車に乗り込むと、シーナが御者席とつながる窓を開け『良いぞ、出せ』と合図を送る。
王都にある士官学校から、東の国境近くにあるステルベン辺境伯領までは馬車でおよそ10日の距離にある。かなり遠く離れた地域だ。
おまけに今回は、旅慣れていないミナやベイン、それにベルナデッタまでもが同行している。無理のない旅程で14日を予定しているが、この間にも戦況が大きく動く可能性は十分にある。
「ただでさえ急ぐ旅なんだ、3年生のベルが足を引っ張ってどうする」
「いやぁ面目ない。だがまぁ、法術を使える者がいるというのは心強いものだね。頼りにしているよ、ミナ君」
「は、はい」
「さてと、講義が途中だったね。どこまで話したっけ? 確か——そうそう、我らが偉大な太陽にして王国の統治者、ベネディクト4世陛下の大いなる愚行についてだったね」
同席のアルトリリアは苦笑を漏らす。彼女にとってベネディクト4世は実の父に当たる。その『愚行』が下級生に紹介されるとあっては、本来ならば王族として止めなければならないところだ。
が、アルトリリアは『お続けなさい』と短く促して窓の外へと視線を移す。
ベネディクト4世が電撃戦を仕掛けたのは、帝国本国ではなく、ランドルト王国と同じく帝国の一部であった近隣の国だ。王国東部のステルベン辺境伯領や北部のカンフル辺境伯領は、この電撃戦でランドルト王国が帝国から奪い取った領土である。
もとは小さな国であったところを攻め滅ぼし、それぞれ戦功のあったシーナの父とセシリアの父に領土として与えたものだ。
「まぁそんなワケで、帝国からすれば我らが栄光あるランドルト王国は『勝手に独立を宣言した挙句、周囲の国、つまり帝国の属州を攻め落としてガッツリ領土を削り取っていった、野盗や山賊にも等しい存在』ってところだろうね。まぁ殿下には申し訳ないけど」
「ベル? 申し訳ないだなんて、思ってもいないことは言わないでも構いませんわよ。全部本当のことですもの」
アルトリリアは怒る様子など微塵もみせずに、優雅に苦笑を浮かべて見せる。
下手をすれば王室に対する不敬罪で、余裕で罪に問われるような発言を、王女が聞き流したのだ。士官学校1年生にとっては肝を冷やすどころの話ではない。
「ベルの言い方はともかくとして、言っている内容は全て事実ですわね。私の父、ベネディクト4世は祖父のフランシスコ5世までの帝国への臣従が耐えられませんでしたの。国民の安全のために、帝国の女帝に頭を下げることすら出来ない『ケツの穴の小さな愚物』ですわね」
「あの、リリア様? ケツの穴って」
「さすがリリア様、攻め方がエグい」
リュウとアルムが嗜めるのは、相当なことであろう。
思わず2人共に突っ込んだが、王女アルトリリアは全く動じない。3年Sクラスと1年Gクラスという、かなり尖った集団の中で間違いなく最も大きな器の持ち主だ。
「帝国からの搾取などというのも、ただの言いがかりですわね。むしろ帝国は王国内のインフラ設備にかなりの資金を出していましたもの。それに朝貢外交というのも事実ではありますけれど、その見返りが平和なのです。平和を確保しつつ民衆の生活を守る、そのためにこそ王家がありますのよ。それなのに、勝手にパチ切れて紛争を起こすなど、どう贔屓目に見ても正気の沙汰とは思えませんわね」
どうやら、一行の中で現王ベネディクト4世にもっとも容赦がないのは、実の娘であるアルトリリアのようだ。
「お母様も生前、常々仰っていましたの。あの男は見栄とプライドと、それから物欲だけが肥大化した怪物だと。私も全くの同意見ですわ」
「アルトリリア殿下、どうかそのあたりで……おい1年生、分かっているな? この馬車の中で見聞きしたことは、一切他言無用だ。誰が何を言ったか、問われても答えるな。良いな?」
「い、いや、でもシーナ先輩?」
リュッケンがつい声をあげるが、3年生のマスター級格闘士の鋭い目線に、つい口を閉じてしまった。
「良いな? リュッケン?」
「あ、はい……」
「そうだよリュッケン、こういうときって多分、何も言わないほうが良いと思う」
「うむ、ミナはよく分かっているな。リュッケンも、可愛い彼女を泣かせたくはなかろう? 悪いことは言わん。黙っていろ」
「こ、怖ぇ……これが権力かよ。オトナって汚ぇ」
「そうだ。将来平穏な生活を送りたければ、歯から先に出す言葉には注意するんだな」
場違いな程にリラックスした馬車の中で、シーナだけはまるで悲痛な決意でも固めたかのような険しい表情のまま、窓の外に目を向ける。
まだ王都を出て4日、辺境伯領までは遠い道のりの半分も来ていない。
「先は長い。リュウもアルムも、それにベインも。貴様らも休めるときには休んでおけ。それも軍人として大事な——どうやら一部心配無用な奴らがいるようだな」
お世辞にも快適とは言い難い馬車の上で、いつの間にかアルムとリュウは互いにもたれかかって寝息を立てていた。
「あらあら、仲が良いこと。大変結構ですわ。二人に子が生まれたら、私から名前をプレゼントするくらいのことはしても良いかも知れませんわね。そう思いませんこと? シーナ?」
「殿下、ですからお戯れを……コイツらは起こさなくても宜しいんですか」
「えぇもちろん。休める時に休め、と言ったのはシーナ、あなたではなくて?」
「そうですが……たしかにその、まぁ……おいリュッケン、ミナ、ベイン、何を見ている。見世物じゃないぞ」
苦し紛れに下級生を睨みつけるシーナの生まれ故郷、ステルベン辺境伯領まで、馬車であと8日。
この日の野営ポイントとなる丘が遠くに見え始めていた。




