02 かすかな記憶
がば、と勢いよくリュウは身体を起こした。
まだ外は暗く、起床時間には程遠い。いつもなら、迷うこと無くまたベッドに身を横たえて、薄い粗末な毛布を身体にかけ直すところだ。
「また夢か……」
リュウが大きく息を吐くと、部屋の中に白いモヤがふわりと立ち上る。
士官学校学生寮にしては安普請だが、これは平民枠とGクラス専用の、最下層の寮だ。
伯爵家以上の高位貴族の子弟や、Cクラス以上の生徒たちは、高級な宿の個室もかくやというほどの豪華な部屋で寝泊まりをしている。
少なくとも隙間風などとは無縁の部屋だ。
貴族の家の子弟からすれば、このGクラスの部屋は馬小屋にも劣る、悪夢のような部屋だ。
だが、リュウにとっては不思議なほど馴染んだ、なんの違和感もない部屋である。
リュウ・ノーチが『全ての記憶』を取り戻したのは、士官学校入学からさらに6年ほど遡ったある日のことだ。
7年前、リュウが救貧院を兼ねた孤児院に運び込まれた時は、すでに息も絶え絶えの重症の状態であった。
全身がボロボロに痛めつけられ、誰が見ても助からないであろうことは見て取れる状態。
そんなリュウにとって幸運だった事が2つある。
ひとつは、彼が運び込まれた孤児院がランドルト王国内にあって数少ない、良心的な孤児院であったこと。
恵まれない、身寄りのいない子供たちを引き取り、院長夫妻がまるで我が子のように慈しんで育てる、ほぼ唯一無二と言っていい施設だった事。
院長夫妻や、リュウにとっては先輩であり兄姉となる子供たちの献身的な介護を受けられた事は、リュウにとって最大の幸運と言えるだろう。
もう一つは、院長夫人が『法術』と呼ばれる癒しの術を使う事が出来た、ということだろう。
この法術なくしては、リュウは運よく命をとりとめたとしても、間違いなく五体満足ではいられなかったはずだ。
「院長先生は元気かな」
ぼそ、と呟いた声に反応するように、同室の獣人族の男が『うぅん』と唸って寝返りを打つ。
リュウには、孤児院に運び込まれる前の記憶が無かった。
いや、正確には、『この世界で生まれてから』孤児院に運び込まれるまでの記憶がない。
両親はいたはずだが、その顔も、名前も全く分からない。何なら自分の本来の名前も全く思い出せなかった。
おそらくは、頭を強打した事が原因となって、記憶を失ったのだろうというのが院長夫人の診察だった。
大恩ある院長夫妻にも、兄や姉、後に出来る妹や弟たちにも明かしていなかったが、リュウには『それ以前』の記憶がある。
それも、どう考えても夢物語や妄想としか言えないのに、夢物語や妄想にしては異常に鮮明な記憶だ。
リュウは、その記憶の中では『武之内隆造』と名乗る、70歳を超えた老武道家だった。
室町時代から続く古流兵法『武之内流兵法』を受け継ぐ道場主であり、令和28年という年号まで思い出せる。
武之内流兵法は、大別すれば『古流柔術』になるが、実態は総合格闘技、それも戦場格闘技である。
当身、柔、組討術といった己の五体のみを使った武術に加え、刀、槍、弓、分銅、鎖鎌、手裏剣、果ては暗器から毒に至るまでを網羅する、いわば『総合戦場格闘術』であった。
武之内隆造は、その武之内流兵法の宗家であり、唯一の継承者であり、唯一の免許皆伝であった。
「そりゃあ流行らないよなぁ……あんな物騒なもの」
隆造には弟子がいなかった。
隆造の先代、隆造の叔父の代から、武之内流兵法道場には誰一人門下生がいなかった。
当然、武之内家の生活は困窮していた。そんな状況で、隆造の叔父、隆太が足を踏み入れたのが『地下格闘技』の世界である。
戦場における究極の実践的格闘技の宗家としては、倫理やモラル、法律に目を瞑れば最高の『稼ぎ場』であった。
近代の総合格闘技やボクシング、柔道、空手といった技術体系を相手取り、武之内流は平成の時代に急速に進歩を遂げる事となる。
先鋭化し、より実践的となった武之内流を修めた隆造は、隆太から武之内流の哲学をも叩き込まれていた。
「手加減は相手に対する最大の無礼。戦場には卑怯という言葉はない。例え相手が女子供であろうとも、ありとあらゆる手を尽くせ……か。物騒な事教えてくれたもんだよ、あのクソ叔父は」
叔父であり先代宗家だった隆太が地下格闘技の試合に負け、命を落としてからは、免許皆伝の隆造が宗家となった。
一時期は地下格闘技界にその人あり、と呼ばれた隆造も、寄る年波には勝てなかった。
40歳を過ぎ、50歳を超え、還暦を過ぎた辺りでは負けがかさむようになり、借金も同時に増えていった。
道場の土地や建物も借金のカタに取られ、最後に大逆転を期して挑んだ相手は、異常に巨大な筋肉を持つ相手だった。
「まぁ、相手がドーピングをしていたとは言え、負けた以上は俺が弱かった。勝ったものが強く、負けた者は弱い。ただそれだけだ」
人体の限界に挑むようなドーピングを施した格闘家により、隆造は蹂躙された。
関節という関節、骨という骨を壊され、裏格闘技のリングで武之内流の歴史とともに、隆造はその生命を終えたはずだった。
次に目覚めたのは、このランドルト王国の孤児院である。
院長夫妻は、『タケノウチ・リュウゾウ』というやたら長く、発音しづらい名前をついに覚えられず、次第に略称として読んでいた『リュウ』と、武之内の最後にあたる『ノーチ』がそのまま彼の名前になった。
法術という回復の術により、五体の自由を取り戻したリュウは、自らの身体を見て身震いした。
若い。というよりも、幼い子供の身体だ。おそらくは年齢は10歳にもならないくらいであろうか。
これからいくらでも鍛錬することが出来る、若く、成長期の健康な身体。
そして何よりも、リュウの頭の中には、武之内流の理論、術技、哲学、奥義、それらの全てが収められていた。
武之内流兵法は、『武道』ではない。あくまで『兵法』、つまり戦場における技術である。
よくある『武道』に求められる人格形成など完全に度外視した、いかに効率よく、確実に、人体を損壊し絶命せしむるか。そのことだけを追求し600年近く練り上げられた技術体系、それが武之内流兵法だ。
その免許皆伝の知識と『経験』を持った状態で、リュウ・ノーチは8歳の肉体を手に入れている。
『さらなる高みに行ける』
リュウが、その身の内にいる武之内隆造が起こした身震いは、まさしく武者震いだった。
その日から、リュウは鍛錬を始めた。
院長夫妻は『きっと頭も打って、それに家族も一度に失ったショックなのだろう』と、リュウをそっとしておくことにした。
孤児院の仕事では、レンガ運びなどの力仕事を率先して手伝った。
時折リュウが見せる奇妙な歩き方や身体の使い方は、孤児院の兄姉、妹や弟たちからは好奇の目で見られていた。が、それも3年もすれば『まぁリュウだし、しょうがないよ』と誰も気にしなくなった。
院長夫人は、時折リュウがひどく身体を痛めつけるような訓練のようなものをしている現場を目撃していた。
決まってその翌日には、リュウは夫人に法術をせがんで来た。夫人は母親として、リュウの怪我や身体の不調を癒す事はためらわなかった。
日本という世界にあってはあり得ない速度での回復により、リュウの身体はその小柄さに似合わぬ強靭さを手に入れる事となる。
「今にして思えば、無茶苦茶だったけど……でもそのお陰で、今日は証明できた。武之内流がこの世界で通用することを」
もともと武之内流は、非力な小兵が甲冑武者を相手に生存し、かつ仕留める事を目的として術理を磨いてきた流派である。
小柄なリュウの身体は、前世よりも小さくなっているものの、むしろ武之内流にとっては『最適化された』と言っても過言ではない。
おまけに、古代の小柄な武者が備えていたであろう、高密度にして高出力の筋肉に頑丈な骨、そして柔軟性に富んだ腱や靭帯をも身につけるに至った。
いわば、600年間磨き抜かれた人体破壊術を極めた武術家が、その技術と知識、経験をそのままに十代前半の年頃に若返ったようなものである。
武術家を、武之内流宗家を自認するリュウがその力を試さずにいられなくなるのに、そう時間はかからなかった。
リュウが院長夫妻に、『軍人に、騎士になれば高い給金を貰える。ついては、士官学校へ行きたい。平民枠があるはずだ』と直談判したのは、リュウが14歳の頃である。
『いや、確かに平民枠というものは便宜上あるけれど……事実上、士官学校は貴族の子弟だけが通うものなんだよ』
『貴族は恐ろしいものだ。関わっちゃいけない』
『士官学校に入れたとしても、平民が入ったとしても、傷つけられるだけじゃ済まないよ。下手すると殺されるどころか、魔法の実験台にされるっていう噂よ?』
『リュウ、お前が色々鍛錬をしてるのは知ってる。でもな、貴族が使う身体強化の魔法の前じゃ、平民がどれだけ鍛えたって何の意味もないんだ。悪いことは言わない。他の道を探しなさい』
そう諭された挙句、リュウは孤児院を家出同然に飛び出して士官学校の平民枠をただ一人受験し、学科で抜群の成績を修めて入学を果たしている。
このランドルト王国における士官学校の入試など、中学校入試程度の難易度でしか無かった。
仮初にも平成の日本で工業高校への進学経験があるリュウにとって、『バカにしてるのか』と思える程度の問題だ。
だが、この成績が、貴族の子弟達や教師たちに目を付けられるきっかけになった。
「今にして思えば、もうちょいわざと間違えておけば良かったか」
苦笑を浮かべ、リュウは再び硬く寝心地の悪いベッドに横たわり、毛布を身体にかける。
明日からは、リュウに対する風当たりはますます強くなるだろう。
「楽しみだ」
小さくつぶやくと、リュウは静かに目を閉じる。
「あぁ、楽しみだ。ここでも、あの地下格闘技場と同じように、思う存分武之内流を——」
恐ろしく物騒な考えを思い浮かべ、薄っすらと笑みを浮かべたままリュウは再びの眠りに落ちていった。




