嘉笑苑① ピアノの許へ
翌朝、6時ごろに目が覚めた。いずみとの約束の時間まではまだ十分に時間がある。洗面所で顔を洗い、朝食にすることにした。食パンが1枚残っていたので、その上にピザソースを塗ってチーズの乗せて焼いて食べることとした。あとは、冷蔵庫を見たらプリンとバナナがあったのでそれも食べることにした。テレビを見ながらゆっくりと食べ、それからコーヒーを淹れた。今度は、テレビを消し、スマホを見ながらブラックコーヒーを楽しんでいた。
そろそろいずみとの約束の15分前になったので、俺はゆとりをもって表に出た。夏真っ盛りで、この時間でもとても暑かった。今日の俺の服装は、黒色系のジーンズに白色系のTシャツだ。カバンはいつものリュックにし、靴は動きやすいスニーカーにした。少し待つと、いずみがやってきた。いずみの車はいつもと違っていた。青色のコンパクトカーと呼ばれる5人乗りの普通車だった。おそらくお兄さんの車を借りてきたのであろう。
「あら、最近柊太は早いわね。たたき起こす楽しみがなくて残念だわ。」
いずみは開口一番、物騒なことを言った。
「大丈夫だよ。昨日はあまり飲んでいなかったしね。ちゃんと6時には起きて準備していたよ。」
俺は笑いながら言っていずみの車の助手席に乗り込んだ。
「ちゃんと持ってきたんでしょうね?」
いずみが俺の顔を見て言った。
「何を?」
「ピアノの調律道具よ。」
「・・・」
そんなことは全く考えていなかった。
「やっぱりね。私の家にあったものを借りてきたから、今日はそれを使いましょう。」
「使うって言ったって、俺は全く心得がないんだけど・・」
折角の道具があっても使い方が分からなかったらやりようがない。
「私がある程度できるから、柊太は手伝ってくれたらいいわよ。その体で、先方様にも紹介してくれたらいいから。」
いずみがサラッと言った。そういえば、いずみは子どもの頃からピアノをやっているんだった。もう、かなりの腕になるのだろうと思う。
「じゃあ、行くわよ。今日は、いつもの車と違うわよ。その後の展開が分からないから、お兄様にお願いして借りてきたの。」
そう言っていずみが車を発進させた。今日はウィークデーということもあり、この時間帯の京都市内はかなり混雑していた。時間には余裕はあるが、結構かかるなと思った。
西大路通を五条まで下り、そこから国道9号線に入り亀岡方面へと向かった。1時間ほどで亀岡市内の中心部付近に差し掛かってきた。そこで、時間調整とトイレ休憩を兼ねてコンビニに寄った。コンビニも少し混んでいた。そこで俺は二人分の飲み物を購入した。
「はいこれ、どうぞ。それにしても暑いね。」
俺はいずみに飲み物を渡した。冷たいブラックコーヒーだ。
「あら、ありがと。気が利くわね。」
いずみは素直に受け取って飲み始めた。俺も、同じものを買っていたので同じく飲み始めた。
「さて、ここからよね。いろいろと最終確認をしておきましょう。行き先はケアハウス「嘉笑苑」。訪ねて行く方が、施設長の柏原貴代子さんね。柊太のところの四谷所長の紹介で来て、私が楽器にある程度詳しいということにするわけね。」
「そういうことだね。」
俺は異論なく頷いた。少し休憩をして、コーヒーを飲み終わった俺といずみは、空き缶を回収ボックスに捨ててきて、車を発進させた。あと、ここからは20分ほどみたいだ。約束の時間の30分くらい前についてしまいそうだから、一度前を通って場所を確認してから、少し車を転がして、10分前に伺うことにした。
しばらく国道9号線を走ってから、車は脇道の県道に入って行った。そこからそれほどかからないうちに目的地に近づいてきた。ナビで見ると、もう目と鼻の先だった。また、脇道に入るとその建物はあった。少し古い造りの3階建ての建物だった。奥行きが広い感じで、門はなかった。入り口前にスペースがあり、そこが駐車場という感じだったが、そんなに広いスペースではなく、社用車と来客用の車を停めるスペースみたいだった。
それを、見届けてから俺たちの車は一旦通り過ぎた。ナビを見ながらしばらく車を走らせて、頃合いを見計らって、車を施設の敷地内に乗り入れた。
「じゃあ、ご挨拶と、車をどこに停めていいのかを聞いてくるね。」
俺は車を降りて、「嘉笑苑」の入口へと向かった。車を降りた途端、モワァーとした暑さが襲ってきた。セミがこれ以上音が出ないくらいに喧しく鳴いていた。俺は手早く入口へと向かった。
入り口は自動扉だった。自動扉を入ったところに受付的なカウンターがあり、ガラス扉が付いていた。俺に気がついた職員がガラス扉を開いた。
「何か御用ですか?」
その職員は事務的に聞いてきた。
「はい。本日10時に柏原施設長とお約束させていただいております、紫王院と申します。柏原施設長はいらっしゃいますか?」
「少々お待ちください。」
その職員は事務室内の奥のデスクに向かって行った。そのデスクには、だいたい四谷所長と同年代と思しき女性が座っていた。この女性が間違いなく柏原施設長だろう。二言、三言と話をして、柏原施設長がカウンターに向かってきた。
「あなたが、紫王院さんですね。暑い中、遠いところをわざわざありがとうございます。さあ、どうぞ。」
「ありがとうございます。車はどこに停めさせていただいたらいいですか?」
「そうねえ、一緒に行きましょう。ご案内します。」
柏原施設長はドアの方に回り、履物を下履きに履き替えて俺と一緒に外に出た。
「あの、ワンボックスカーの横に停めてくれるかしら。」
「分かりました。」
俺はいずみのところに戻って車を停める位置を案内した。いずみは、言われたとおりに車を停めて降りてきた。
「おはようございます。私は蒼ノ京といいます。こちらの、紫王院の知人で、楽器に少し詳しいので本日一緒に伺わせていただきました。本日はよろしくお願いします。」
いずみが柏原所長に挨拶をした。
「これはご丁寧にありがとうございます。暑いでしょう。中に入って話をしましょう。」
柏原施設長に伴われておれといずみは「嘉笑苑」の中へと入っていった。




