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領収書、拝見します。〜左遷された天才経理の裏帳簿ハンティング〜  作者: 伊達ジン


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第6話 方程式の完成と、愚者の慢心

 薄暗い地下室に、雨霰のように叩きつけられる猛烈なタイピング音が鳴り響いていた。


「ダミー会社の口座から、さらに奥へ潜るわよ。……随分と古典的で面倒なルートを使っているわね」


 クロエ・マクスウェルの顔を青白く照らすモニターには、無数の文字列と、世界地図を模したネットワークのルーティング図が目まぐるしく展開されていた。彼女の透き通るような青い瞳は、一瞬の瞬きすら惜しむように、画面の奥に隠された『真実』を追尾している。地下室の淀んだ空気とは対照的に、彼女の指先だけが恐ろしいほどの生気と速度を持って躍動していた。


 鮫島が架空発注に使ったダミー会社の法人登記記録と、送金ログ。そこから引き出された5000万円の資金は、決してそのまま日本国内の口座へは戻っていなかった。


「バハマのペーパーカンパニーを経由して、キプロスの投資銀行へ。そこから三つの異なるダミー法人の口座に分割送金され、最終的に香港の暗号資産取引所のウォレットへ流れているわ。典型的な資金洗浄の手口ね」


 クロエは、キーボードの上で指を滑らせながら冷笑した。モニターの光が彼女のブロンドの髪の先まで冷ややかに染め上げる。


「でも、素人の浅知恵よ。トランザクションの分割タイミングが不自然すぎる。ミキシングサービスを噛ませるなり、匿名性の高い暗号資産に一度変換するなり、やりようはいくらでもあるのに。私を撒きたければ、もっとマシな業者を使うべきだったわね」


 彼女は、複数の海外口座を経由した資金洗浄の痕跡を、一本の逃げ場のない線へと結び直していく。ロンドン支社の内部監査室のエースとして活躍していた彼女の神がかったハッキング技術の前では、鮫島が付け焼き刃で用意した防壁など薄紙に等しかった。複雑に偽装されたIPアドレスのホップが次々と暴かれ、マネーフローの真の終着点がモニターの上に引きずり出されていく。


 その凄まじい情報の奔流を、高野清太郎は背後に立つ古いホワイトボードの前に立ち、静かに見つめていた。安物のスーツを隙のないシルエットで着こなす彼の右手には、黒のマーカーが握られている。


 傍らに置かれたパイプ椅子では、社長室秘書課の山内久美子が、息を呑んで二人の作業を見守っていた。彼女が持ち込んだ、鮫島の高級時計や愛人に関する『泥臭い社内情報』が、今まさに、一切の反論を許さないデジタルな確証へと変貌しようとしているのだ。


「……出たわ。香港の取引所から、最終的に日本の都市銀行にある三つの個人口座へ、ほぼ同時期に法定通貨として還流されている」


 クロエがエンターキーを強く叩くと、モニターに三つの口座の入出金記録がグラフ化されて表示された。


「素晴らしい。ご苦労様でした、クロエさん」


 清太郎は静かな声で労うと、振り返ってホワイトボードに向かった。彼の脳内ではすでに、すべての数字がカチリと音を立てて噛み合っていた。


「では、答え合わせをしましょう」


 清太郎はマーカーを走らせ、ホワイトボードの最上段に大きく数字を書き込んだ。ホワイトボードの表面を滑るキュッ、という高い音が、カビ臭い地下室の空気を引き締める。


『50,000,000』


「これが、鮫島課長が私に被せた架空発注の総額です」


 清太郎は滑らかな所作で、その下にマイナスの計算式を書き加えていく。迷いのない筆致だった。


「クロエさんが追跡した資金洗浄のルート。バハマ、キプロス、香港を経由する過程で、それぞれ中抜きの送金手数料と為替差損が発生しています。これらを正確に差し引くと……残額は『46,254,800円』」


 再びマーカーが鳴り、ホワイトボードに新たな数字が刻まれる。


「次に、久美子さんの情報とクロエさんの特定から判明した、鮫島課長の消費記録を並べます」


 清太郎の双眸が、狩りを見据えるように細められた。彼には、数字の裏側にある人間の醜い欲望の形が、手に取るように見えていた。


「まず、ホステスの中条美咲が住む港区芝浦のタワーマンション。久美子さんの持ってきた噂と、クロエさんが裏アカウントから特定した購入時期は見事に一致しました。詳細な登記簿と送金記録を照らし合わせると、初期費用の『マンションの頭金』として振り込まれた金額が『35,000,000円』です」


「そして、鮫島課長の腕で光っていたパテック・フィリップのノーチラス。正規店ではなく並行輸入店での購入記録が、先ほどの還流口座の一つから引き落とされています。この『高級時計の購入費』が『8,450,000円』」


 ホワイトボードに、次々と生々しい欲望の対価が並べられていく。


「最後に、残る一つの口座から引き出され、中条美咲の別口座へ定期的に送金されていた『ホステスの生活費』と、銀座のクラブでの未払いツケの精算額。この合計が『2,804,800円』」


 清太郎はそこで筆を止め、ゆっくりと振り返った。


「35,000,000 + 8,450,000 + 2,804,800。……クロエさん、合計は?」


 クロエはモニターに表示された電卓アプリすら見ず、呆然と呟いた。


「……46,254,800」


「その通りです」


 清太郎はホワイトボードに、一本の長い横線を引き、最後に『0』と書き込んだ。


 架空発注された5000万円からマネーロンダリングの手数料を引き、残った金額。それが、鮫島と愛人の消費した金額と、1円の狂いもなく完全に一致した瞬間だった。


「人間の欲望は、最終的には必ず数字となって表れます。彼の5000万円は、綺麗に使い切られました」


 清太郎の言葉は、一切の感情を交えない、事実のみを語る圧倒的な冷たさを帯びていた。


 沈黙が地下室を支配した。換気扇の低い駆動音だけが、異様に大きく聞こえる。


「……嘘でしょ。あのただの噂話が、1円単位でピッタリ合うなんて……」


 久美子は口元を手で覆い、信じられないものを見る目でホワイトボードを見つめていた。長年、社内政治の波を泳いできた彼女でさえ、人間の業の深さがこれほど残酷に数値化される光景は見たことがなかった。


 クロエは、背筋に冷たい氷を滑らせられたような、強烈な戦慄を覚えた。


 たった1円のズレも許さない、異常なまでの執着と分析力。権力というヴェールで隠された醜悪な人間の心理すら、この男はすべて冷徹な数字の方程式に変換し、計算し尽くしてしまうのだ。


 だが、その戦慄の直後、クロエの胸の奥底から得体の知れない興奮が湧き上がってきた。


(この男となら……)


 かつてロンドンで、彼女を絶望させ、すべてを奪い去った巨大な権力の壁。正義感だけでは決して打ち破れなかったその不条理すら、この高野清太郎という劇薬と、自らのハッキング技術があれば、論理という圧倒的な暴力で叩き潰せるかもしれない。


 彼女の中で死にかけていた反逆の炎が、新たな酸素を得て再び燃え上がろうとしていた。正義ではなく、完璧な計算式で悪を屠る。その甘美な予感に、クロエの青い瞳に、今まで失われていた鋭い光がはっきりと宿った。


 場面は変わり、地上15階の経理部フロア。


 絶え間ないキーボードのタイピング音と、複合機が書類を吐き出す音が響く中、フロアの奥にあるガラス張りの課長席で、鮫島健太はふんぞり返るように革張りの椅子に深く腰掛けていた。


「ふん……」


 鮫島は、左腕の袖口をわずかに引き上げ、そこから覗くパテック・フィリップのノーチラスの冷たい金属の輝きに、下劣な笑みを浮かべた。


 あの目障りなエリート気取りの若造は、すべての罪を被って地下室に落ちた。婚約破棄もされ、出世街道から完全に外れた今頃は、埃まみれの部屋で己の不運を呪って泣き喚いていることだろう。


(俺は完全な犯罪を成し遂げた。この会社で生き残るのは、真面目に数字を追うだけの馬鹿じゃない。力を使って他人を踏み台にできる人間だけだ)


 鮫島は淹れたての高級なコーヒーを啜りながら、ガラス越しにフロアで忙しなく働く部下たちを見下ろした。彼らは誰も、自分の上司が数千万円もの裏金を操り、悠々自適に肥え太っていることなど微塵も疑っていない。規則に縛られ、目の前の小さな数字に一喜一憂するだけの凡人どもだ。


 己の頭脳と手腕が彼らとは次元が違うのだという優越感が、鮫島の中で快い熱となって燻っていた。


 彼は手元の社内ポータルサイトの人事情報を眺め、忌々しげに舌打ちをした。


「だが、まだ足りないな。あいつが会社に居座っていること自体が、目障りだ」


 清太郎が自ら絶望し、退職願を出して消え去ることを期待していたが、一向にその気配はない。むしろ、地下室へ異動する際のエレベーターで見せたあの不気味な微笑みが、時折彼の脳裏をよぎり、正体不明の苛立ちを呼んだ。


 ならば、こちらから引導を渡してやるまでだ。


 彼は手元の内線電話を取り上げ、人事部の顔馴染みの担当者へとダイヤルした。


「ああ、俺だ。経理部の鮫島だ。いやな、例の『第8資料管理室』の件だが……あんな無駄な部署、これ以上のコストをかけて維持する意味はないだろう。次のリストラ候補として、地下室の廃止を進めてもらえないか。上に話を通すなら、俺からも後押しする」


 清太郎の退路を完全に断ち、自主退職に追い込むための最後の一手。受話器を置いた鮫島の口角が、醜く吊り上がった。


 同時刻。最下層の地下室。


 すべての証明を終えた清太郎は、自身のデスクに戻り、マグカップに注がれたコーヒーを静かに持ち上げた。


「証拠は装填されました」


 清太郎はコーヒーの黒い水面を見つめながら、優雅に微笑んだ。それは温和な青年の仮面の下に隠された、獲物の息の根を止めるタイミングを計る捕食者の笑みだった。


「あとは、彼が最も高く登った瞬間に、梯子を外すだけです」

「趣味が悪いわね。さっさと監査部にこのデータを送りつけて、警察に突き出せば終わる話じゃない」


 クロエがヘッドホンを首にずらし、呆れたようにため息をついた。だが、その声に以前のような冷たい棘はなく、むしろ次に彼が何を仕掛けるのかを楽しみにしているような響きがあった。


「それだけでは、彼が私から奪った平穏への代償としては安すぎます」


 清太郎はマグカップをデスクに置き、見えない観客に向けて深く一礼するように身を屈めた。


「彼には、自分が築き上げた虚栄の城が、足元からすべて崩れ去る絶望を味わっていただかなくてはなりません。……最高の舞台を用意して差し上げましょう」


 温和な微笑みを浮かべる彼の背後で、鮫島という愚者を完全に抹殺するための、逃げ場のない包囲網が静かに完成していた。

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