第5話 アナログの紙束と、デジタルの裏垢
「大企業の歯車たちの噂話なんて、嫉妬と見栄でいくらでも尾ひれがつくわ。確たるデジタルな痕跡もないのに、そこの秘書さんが持ってきた曖昧な情報を頼りにハッキングしろなんて、正気とは思えないわね」
クロエは明確な拒絶を示し、勢いよくモニターに向き直った。キーボードの上に手を置いたまま、微動だにしない。彼女の細い肩のラインが、不機嫌な緊張感で強張っているのが分かった。
無理もない。彼女の技術は、国家規模のセキュリティすら突破できる代物だ。それを、出所も定かではない社内のゴシップの裏付けに使えというのは、彼女のプライドが許さないのだろう。それに、彼女自身が大企業の人間たちのドロドロとした欲望に巻き込まれて左遷された過去がある。噂話という不確かな人間の感情に振り回されること自体に、強い嫌悪感があるはずだ。
だが、清太郎は不快感を示すこともなく、紙コップのコーヒーを一口ゆっくりと飲んだ。冷めかけたブラックコーヒーの苦味が、静かに思考を研ぎ澄ませていく。
「正気ですよ。むしろ、狂い始めているのは彼の方です」
静かな声と共に、清太郎は立ち上がった。安物のスーツが微かに擦れる音だけを響かせ、自身のデスクの背後にそびえ立つスチールラックへと向かう。薄暗い地下室の空気が、彼の動きに合わせてわずかに揺れた。
「確たるデジタルな痕跡がないのであれば、まずはアナログから線を引けばいいだけのことです」
清太郎は、無造作に押し込まれていた膨大なキングファイルの山から、躊躇うことなく三冊を抜き出した。何年もの間放置され、うっすらと埃を被った背表紙には『2018年度 経費精算綴』とある。それをデスクにドンと置くと、久美子が持ってきたフルーツタルトの箱を端に寄せ、重い表紙を広げた。
「クロエさん。あなたにはただの紙切れに見えるかもしれませんが、これらはすべて、彼らが自らの手で残した『欲望のログ』です」
清太郎の長く整った指先が、ファイルに綴じられた領収書の束を滑っていく。その視線は文字を読んでいるのではなく、一瞥しただけで、ページ全体の情報を脳裏に焼き付けているかのようだった。パラ、パラ、と一定のリズムで紙がめくられる乾いた音が、換気扇の唸る地下室に響く。インクの擦れ、不自然な数字の並び、筆圧の深さ。彼にしか見えないノイズが、濁流のように脳内へと流れ込んでくる。
「ここ半年間の鮫島課長の交際費精算には、非常に耳障りな『ノイズ』が混じっています」
清太郎の手がピタリと止まり、一枚の領収書を指差した。
「銀座の『Club L』。この店での接待名目の支出が、およそ半年前の10月を境に急激に増加しています。金額も一度につき20万円から30万円。しかも、決裁書に同席者として記載されている取引先の役員は、私が以前担当していた方ですが、重度のアルコールアレルギーで下戸として有名な方です。当然、二次会で酒を強要するような場には決して顔を出しません」
その言葉に、パイプ椅子に腰掛けていた久美子が目を丸くして頷いた。
「間違いないわ。その役員さんの接待は、いつも老舗の料亭でお茶と和食よ。銀座のクラブなんて絶対に行かないわね。いくらご機嫌取りでも、人選を間違えすぎてる」
「つまり、鮫島課長は一人で、あるいは身内だけでこの店に会社の金で通い詰めていたことになります」
清太郎は別のページを開き、数枚の領収書を横に並べた。まるでカードゲームの手札を広げるような優雅な手つきだった。
「しかし、その異常な支出はわずか三週間でパタリと止み、以降は元の月に一、二回程度の常識的な範囲に収まっています。なぜだと思いますか?」
モニターから背を向けたまま、クロエが小さく鼻を鳴らした。
「……金が尽きたか、店に飽きたか」
「あるいは、店に通う必要がなくなった。つまり、お目当てのホステスを店から引き抜き、『買い上げた』と考えれば、辻褄が合います」
清太郎の双眸が、狩りを見据えるように細められた。
「彼が通い詰めていたのは半年前の10月。この『Club L』という特定の店のデータから、同時期に突然姿を消したホステスを炙り出すことは……やはり、あなたのような一流のハッカーでも不可能ですか?」
薄暗い空間に、数秒の静寂が落ちた。
「……ッ」
カチャン、とエンターキーが乱暴に叩かれる音がした。
クロエが振り返ることもなく、キーボードに指を走らせ始めたのだ。
「私に不可能なんて言葉を使わないで」
吐き捨てるような声とは裏腹に、モニターを乱舞するコードの速度は先ほどまでとは比較にならないほど跳ね上がっていた。清太郎の意図的な挑発に乗せられたと分かっていながらも、彼女のハッカーとしての本能が、目の前に提示された「謎」を解き明かそうと火を吹いたのだ。大企業のゴシップなど下らないと言いつつも、そこに明確なパズルが存在するなら解かずにはいられない。
「ターゲットは銀座の『Club L』。半年前の10月に在籍していたキャストのリストアップね。……店の公式ホームページのアーカイブ、SNSの過去ログ、キャスト紹介サイトのキャッシュデータをスクレイピングするわ」
クロエの顔を照らすモニターの光が、次々と切り替わる。彼女の青い瞳が、膨大な文字列の中から必要なデータだけを無意識下で抽出していく。地下室の淀んだ空気を切り裂くように、高速のタイピング音が響き渡る。
「……出たわ。半年前の10月に在籍リストから名前が消えたホステスは四人。うち二人は系列店への移籍記録あり。一人は実家への帰省をSNSで報告してる。残る一人は……源氏名『美咲』。25歳。SNSの公式アカウントも10月12日を最後に更新が途絶えてる」
「ビンゴね」
久美子が、感嘆の息を漏らした。手にしたタルトを食べるのも忘れて、モニターに映し出される情報に見入っている。
「でも、源氏名と止まったアカウントだけじゃ、今の居場所なんて分からないんじゃ……」
「素人と一緒にしないで」
クロエの指先が、目にも留まらぬ速度でキーボードの上を滑っていく。
「公式アカウントが止まっているなら、裏を探せばいい。同僚ホステスのフォロワーリスト、タグ付けの痕跡、削除されたコメントのキャッシュ……あったわ。美咲の公式アカウントと極めて親しいやり取りをしていて、かつ現在もアクティブな鍵付きのプライベートアカウント」
黒いターミナル画面の横に、ブラウザが立ち上がる。表示されたのは、フォロワー数がわずか十数人の、アイコンがティーカップに設定された非公開のアカウントだった。
「ご丁寧に承認制にしてるけど、この程度の鍵、私にかかれば開け放たれたドアと同じよ」
ものの数秒でセキュリティの壁を突破し、クロエはその裏アカウントの投稿一覧をモニターに表示させた。そこには、高級レストランでの食事や、ブランド品のバッグ、そして高層階からの夜景など、明らかに生活水準が跳ね上がった写真が並んでいた。承認されたごく少数の人間にだけ見せるための、承認欲求と自己顕示欲の塊のようなログだ。
「うわぁ……分かりやすい。典型的なパパ活女子の匂いがするわね」
久美子が呆れたように呟く。
「でも、写真には位置情報は残ってないわ。警戒してるのね」
クロエは冷たく言い放ち、一枚の写真を拡大した。それは、シャンパングラスを片手に微笑む美咲らしき女性の自撮り写真だった。
「位置情報がないなら、画像そのものから特定するまでよ」
クロエは画像解析ツールを立ち上げ、写真の特定部分を異常な倍率で拡大し、コントラストを調整した。
「……瞳に反射した景色。そして、背後の窓ガラスに映り込んだ夜景の光源パターン」
「ちょっと待って、そんな映画みたいなこと本当にできるの?」
久美子が身を乗り出すが、クロエはモニターから視線を外さずに答える。
「画質が良ければね。最近のスマートフォンのレンズ解像度を舐めないことよ」
モニター上に、反射した夜景の光の点がマッピングされていく。
「赤い航空障害灯の配列と、首都高速のカーブの角度。東京タワーがこのサイズで見えて、かつあのビルの影に隠れる位置……。港区芝浦エリアに限定されるわね」
さらにクロエは別の投稿写真を開いた。大理石のテーブルの上に置かれた、高級デリバリーの食事風景だ。彼女はその写真の隅に、ピントがボケて写り込んでいるレシートの切れ端を拡大し、画像鮮明化処理を施した。文字の輪郭が浮かび上がり、印字された情報が読み取れるようになる。
「店舗コード『804』。このデリバリーチェーンの芝浦エリア担当店舗ね。配達エリアの制限と、先ほどの夜景の角度をクロスリファレンスにかける」
画面上に港区の3Dマップが表示され、二つの条件が交差するポイントが赤くハイライトされた。
「特定したわ。港区芝浦、地上42階建ての高級タワーマンション『グラン・レジデンス芝浦』。窓のサッシの形状と夜景の高さから計算して、35階以上の南東角部屋で間違いない」
クロエは息をつく間もなく、さらに深い階層へとダイブする。彼女の集中力は今や完全に研ぎ澄まされ、邪魔するものは何もない。
「ここまできたら、あとは法務局の不動産登記データベースにバックドアからアクセスするだけ。……グラン・レジデンス芝浦、38階の南東角部屋。所有権の移転登記が行われたのは、半年前の『10月12日』」
モニターに表示された登記情報の写し。
「名義人は『株式会社ミサキ・プランニング』。代表取締役は、中条美咲。ホステスの本名ね。抵当権の設定はなし。つまり、億を下らないあの部屋を、ローンも組まずに『現金で一括購入』している」
クロエはゆっくりと椅子を回転させ、清太郎を見た。その青い瞳には、自らの技術に対する絶対的な自信と、僅かな高揚感が浮かんでいた。
「さて、私の仕事は終わったわよ、エリート様。これで噂が事実だという裏付けは取れたけど……これと、鮫島の架空発注がどう結びつくの?」
その問いに対し、清太郎は既に動いていた。
彼の手には、先ほどまでデスクに積み上げられていた別のファイルの束から引き抜かれた、一枚の決裁書が握られていた。迷うことなく一発で目的の紙を引き抜くその手業は、まるで最初からそこにあると知っていたかのようだった。
「見事です、クロエさん。あなたの特定した『10月12日』という日付。それが、この方程式の最後のピースでした」
清太郎は、手にした決裁書をデスクの上に広げた。
「これは、鮫島課長が私に被せた5000万円の架空発注先である、海外のダミー会社の法人登記記録と、送金ログのコピーです」
清太郎の長く美しい指が、書類の上の数字を正確になぞる。
「鮫島課長がダミー会社を設立したのが、半年前の10月5日。そして、このホステスが店を辞めてタワーマンションを現金で購入したのが、そのわずか一週間後の『10月12日』です」
その言葉に、地下室の空気がピンと張り詰めた。
「10月上旬に裏金を作るための『器』が用意され、その直後にホステスがタワーマンションへ移り住んでいる」
清太郎は視線を上げ、クロエと久美子を交互に見た。その瞳の奥には、数字がピタリと符合したことへの、冷酷なまでの悦びが静かに燃えていた。
「私の手元にある決裁書類と、あなたが引きずり出したデジタルデータ。別々の場所に存在していた二つの事象が、10月上旬という時間軸で、寸分の狂いもなく交差しました」
一切の感情を交えない、事実のみを語る圧倒的な説得力。
久美子は口元を手で覆い、絶句した。
「……嘘でしょ。あのただの噂話が、まさか横領の決定的な証拠に繋がるなんて」
「数字は嘘をつきません。そして、人間の欲望もまた、完全に隠し通すことはできない」
清太郎はファイルを閉じ、クロエに向けて深々と、そして優雅に一礼した。
「素晴らしい。あなたの神がかった技術と、久美子さんの卓越した情報網があれば、彼がどれほど巧妙に立ち回ろうとも、その首に完璧な縄をかけられますね」
一切の衒いのない、心からの賛辞だった。
清太郎のその真っ直ぐな言葉に、クロエは一瞬だけ目を丸くし、そして僅かに頬を朱に染めて顔を背けた。
「……私の腕を舐めないで。これくらい、準備運動にもならないわ」
そっぽを向きながらも、その声の棘は先ほどよりもずっと柔らかくなっていた。ヘッドホンを首に直す彼女の手つきには、自らの技術が正当に評価され、巨大な敵を追い詰めるための武器として完全に機能したことへの、隠しきれない充実感が滲んでいる。
「さあ、証拠は揃いつつあります」
清太郎はコーヒーの残りを飲み干し、静かに微笑んだ。それは、獲物を罠に誘い込む蜘蛛のように、冷酷で美しい微笑みだった。
「あとは、消えた5000万円が、タワーマンションや高級時計にどのように姿を変え、1円の狂いもなく消費されたのか。……彼自身が逃げられない『完璧な方程式』を組み上げるだけです」




