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領収書、拝見します。〜左遷された天才経理の裏帳簿ハンティング〜  作者: 伊達ジン


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第4話 華やかなる侵入者と、噂の価値

 地下室の淀んだ空気の中、二つの全く異なる作業音が、奇妙な交響曲のように響き続けていた。


 クロエ・マクスウェルの指先は、キーボードの上を滑るように走り、極めて細かなタップ音を紡ぎ出している。彼女の顔を青白く照らすモニターには、新たなコードが凄まじい速度で弾き出され、次々とセキュリティ階層を突破していく痕跡が刻まれていた。先ほどの推論の裏付けを取るため、古い経費精算記録を抽出し、追跡不可能なルートで自らの手元へと引き寄せる作業だ。


 一方、高野清太郎は自身のデスクで、積み上げられた段ボール箱から次々と古いファイルを引き抜いていた。

 静寂の中、規則的な紙の擦過音だけが響いている。彼にとって、この無造作に積まれたキングファイルの山は、決して物理的なゴミではない。帝都物産の役員や管理職たちが、過去数十年間にわたって残してきた「欲望と不正の痕跡」が詰まった宝の山だった。


 視線が文字の上を滑るたび、印字された数字の羅列、ボールペンが紙を凹ませた筆圧の深み、不自然に間隔の空いた決裁日付といった微細な情報が、彼の脳内で次々と紐解かれていく。

 例えば、総務部の車両管理簿と、ガソリンスタンドの法人カード利用履歴。週末になると決まってハイオクが満タンに給油されている記録がある。走行距離の矛盾から、特定の社用車が役員の私的なゴルフ送迎や家族旅行に流用されているのは明らかだった。また別のファイルでは、期末の予算消化のために不要なノベルティグッズを大量発注し、出入りの印刷業者からキックバックを受け取っている部署の存在も浮かび上がる。


 数字の矛盾。インクの擦れ。決裁印の僅かな傾き。

 それらはすべて、人間が自己の利益のためにルールを歪めた瞬間の、無意識のログだ。清太郎は、それらの泥臭い事実を一切の感情を交えずに読み取り、自身の脳内に冷徹なインデックスとして構築していく。いずれ訪れるであろう、彼らを盤上から引きずり下ろすための弾丸として。


 安物のスーツの袖口が擦れる僅かな音だけを響かせながら、彼はひたすらに情報の海を泳いでいた。


 クロエはモニターの端から、その横顔を横目で観察していた。

 先ほどの、古い領収書から数年前の不正を見破った推論。彼の手元を見れば、それが単なるハッタリではないことがわかる。書類を捌く指の動きには一切の無駄がなく、異常な速度で数字の裏にある『真実』を拾い上げているのだ。

 ロンドンで彼女が対峙し、敗れ去った巨大な権力の壁。それを、この男ならば内側から論理的に破壊できるかもしれない。その予感が、クロエの胸の奥で微かに燻っていた。


 その時、重苦しい金属音が地下室に響いた。


 廊下の突き当たりにある、普段は誰も寄り付かない重厚な鉄扉が、錆びた蝶番をきしませながらゆっくりと開く。


 同時に、カビと古い紙の匂いが染み付いた地下室の空気が、ふわりと上書きされた。

 柑橘系の爽やかさから次第に甘いバニラへと変わる、上質で高級な香水の香り。


「あら。思ったよりもずっと小綺麗にしてるのね。もっとネズミでも走り回ってるかと思ったわ」


 ヒールの足音を響かせて現れたのは、社長室秘書課の山内久美子だった。

 豊満なプロポーションを強調するネイビーのタイトスカートに、上質なシルクのブラウス。彼女が足を踏み入れただけで、モノクロームだった地下室の風景が、一気に華やかな色彩を帯びたように錯覚する。

 その手には、銀座にある高級ホテルのロゴが箔押しされた、瀟洒なケーキボックスが提げられていた。


「お久しぶりです、久美子さん」


 清太郎はファイルを閉じ、立ち上がって静かに一礼した。


「相変わらず隙がないわね、高野くん」


 久美子はふんわりとした柔らかい笑顔を浮かべ、清太郎の整然と片付けられたデスクを見下ろした。


「左遷初日なんだから、もう少し肩を落として絶望してみせてもいいのよ? 上の連中も、あなたがここで埃まみれになって泣いている姿を期待してるんだから。それにしても、経理部にいた頃からあなたのデスクは綺麗すぎたけど、まさかこの掃き溜めでまでその美学を貫くとは思わなかったわ」

「生憎ですが、ここは彼らが思っている以上に居心地が良いものでして。ご覧の通り、興味深い資料には事欠きません。わざわざご足労いただき、ありがとうございます」


 清太郎は穏やかに微笑み返し、パイプ椅子を一つ引き寄せてクロスで丁寧に拭き、久美子に勧めた。


「いつものブラックでよろしいですか?」

「ええ、お願い。今日のケーキは少し甘めだから、ちょうどいいわ」


 その一連の気安いやり取りを、クロエはヘッドホンを首にずらし、あからさまに不快そうな視線で睨みつけていた。


「……何なの、あなた」


 クロエの冷たく鋭いブルーの瞳が、久美子を頭の先から爪先まで値踏みするように見つめる。


「ここは会社のゴミを押し込める場所よ。お茶会がしたいなら上のラウンジでやってくれない?」


 クロエは、久美子のような存在を毛嫌いしていた。男性役員たちの顔色を窺い、愛想笑いと色気で社内政治の波を泳ぐ、日本の典型的な秘書。自らの実力で戦うのではなく、権力に寄生して保身を図る大企業の歯車。その象徴のような女が、わざわざこんな最下層にまでしゃしゃり出てきたことが、たまらなく不愉快だった。


 だが、久美子はパイプ椅子に腰掛けることもなく、クロエからの敵意を正面から受け止めた。そして、少しも怯むことなく、むしろ愛しむような笑みを浮かべた。


「ご挨拶が遅れたわね。社長室秘書課の山内久美子よ。あなたが噂の、ロンドンから来たお姫様ね」

「……お姫様?」

「ええ。正義感に駆られてお偉いさんに噛み付いて、あっさり羽をもがれた可愛いお姫様。高野くんの新しいお世話係にしては、随分と棘が強すぎるみたいだけど」

「……っ!」


 クロエの顔が微かに歪んだ。自身の最も触れられたくない傷を、笑顔のまま的確に抉ってきたこの女。ただの従順な秘書ではない。相手の急所を瞬時に見抜き、言葉のナイフを躊躇なく突き立てる狡猾さを持っている。

 クロエは無意識に立ち上がりかけ、久美子もまた、柔らかい笑顔の奥で一歩も引く気配を見せない。


 水と油。全く質の異なる二人が放つ静かな火花が、地下室の冷たい空気をチリチリと焦がした。


「まあまあ、お二人とも。そのあたりにしておきましょう」


 清太郎が、紙コップに注いだ湯気の立つコーヒーを差し出しながら、グラスの氷を転がすような静かな声で介入した。


「クロエさん、久美子さんは敵ではありませんよ。それに、彼女がわざわざこの地下室まで足を運んだということは、そのケーキボックスの中身よりも、ずっと価値のある『手土産』を持ってきたということです」

「ふふ、やっぱり高野くんには隠し事ができないわね」


 久美子はクロエから視線を外し、デスクの上にケーキボックスをそっと置いた。そして、周囲に誰もいないことを確認するように、少しだけ声のトーンを落とした。


「ねえ、鮫島課長の件だけど」


 その名前に、清太郎の表情から微かに温度が消えた。クロエもまた、不本意そうにしながらも視線を向ける。


「彼、最近すごく羽振りがいいのよ」


 久美子の艶やかな声が、薄暗い空間に響く。


「うちのおじさん役員たちから聞いた話なんだけどね。鮫島さん、この前銀座で飲んだ時に、腕にパテック・フィリップのノーチラスをつけてたらしいの。軽く見積もっても数百万円は下らない代物よ」


 久美子は役員たちの世間話や、若手社員の愚痴から泥臭い社内情報を拾い集めることに長けている。


「それだけじゃないわ。最近、銀座の高級クラブのお気に入りのホステスを愛人にして、都心のタワーマンションを買い与えたっていう噂で持ちきりなの。……ただの経理部課長の給料で、そんなことができるはずないわよね?」


 久美子の瞳が、意味深に清太郎を見つめた。


 清太郎の目が、鋭く細められた。


「愛人にマンション、ですか」


 低く呟くその声には、一切の感情が乗っていない。だが、彼の脳内では、先ほどから組み上げられていた方程式に、最後の決定的なピースがカチリとはまる音がしていた。


 鮫島が清太郎に被せた、架空発注された『5000万円』。海外のダミー会社へと送金されたその大金の行方は、追跡が困難であるかのように思われていた。だが、人間の欲望は必ずどこかで溢れ出す。完全に隠蔽したつもりでも、手に入れた金を使いたいという欲求を抑え込むことはできない。


 数百万円の高級時計。銀座のクラブでの豪遊。そして、愛人へのタワーマンションの贈与。


 それらを合計すれば、いかほどの金額になるか。


 消えた5000万円の使途として、久美子の持ってきた生々しいゴシップは、あまりにもできすぎていた。


「数字は嘘をつきません。ですが、人間の行動もまた、嘘を隠し通すことはできない」


 清太郎の唇に、三日月のような冷酷な微笑みが浮かんだ。

 彼がどれほど巧妙にシステム上で裏金を作ろうとも、現実世界で消費したという『事実』は必ずどこかにログとして残る。


「素晴らしい手土産です、久美子さん。これで、彼の首を絞めるロープの太さと長さが分かりました」

「どういたしまして。でも、気をつけてね。鮫島さん、あなたが目の前から消えたことで、自分が完全な犯罪者になれたと勘違いして、かなり気が大きくなってるみたいだから」


 久美子はケーキボックスを開け、中から色鮮やかなフルーツタルトを取り出した。


「さあ、頭を使う前には糖分補給よ。ロンドンのお姫様も、意地を張ってないで一つどう?」

「……いらない」


 クロエはそっぽを向き、再びキーボードに両手を置いた。ただのゴシップ好きの女が持ってきた出所不明の噂話になど、これ以上付き合う気はないという意思表示だ。


 だが、清太郎は静かに口を開いた。


「クロエさん。先ほどの『準備運動』の続きを始めましょう」

「何よ。まだやる気なの?」

「久美子さんの情報が事実であれば、鮫島課長が架空発注した5000万円の終着点は、その愛人のホステスと、タワーマンションにあるということになります」


 清太郎の双眸が、狩りを見据える捕食者のように冷たく光った。彼は完璧なポーカーフェイスを維持したまま、静かに、だが明確な意図を持って言葉を紡ぐ。


「クロエさん。あなたのその技術で、そのホステスの素性と、マンションの正確な購入時期を特定することは可能ですか?」


 清太郎の依頼に、クロエはゆっくりと椅子を回転させた。

 彼女の青い瞳が、呆れたように清太郎と、そして久美子を交互に見る。


「……バカバカしい」


 クロエは冷たく言い放ち、鼻で笑った。


「パテック・フィリップに、タワーマンション? そんなオヤジたちの出所もわからない噂話、本気で信じてるの?」


 クロエにとって、データとして裏付けのないアナログな伝聞など、何の価値もないノイズでしかない。大企業の人間が酒の席で面白おかしく脚色した噂に踊らされて、わざわざ自分の貴重なリソースを割くなど御免だった。


「大企業の歯車たちの噂話なんて、嫉妬と見栄でいくらでも尾ひれがつくわ。確たるデジタルな痕跡もないのに、そこの秘書さんが持ってきた曖昧な情報を頼りにハッキングしろなんて、正気とは思えないわね」


 クロエは明確な拒絶を示し、清太郎から視線を外すと、勢いよくモニターに向き直った。

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