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領収書、拝見します。〜左遷された天才経理の裏帳簿ハンティング〜  作者: 伊達ジン


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第3話 数字は嘘をつかない

 地下室を支配する淀んだ空気の中、二つの異質な音が響いていた。


 一つは、クロエ・マクスウェルが叩く、機械銃のようなキーボードのタイピング音。もう一つは、高野清太郎が古いキングファイルのページを一定のリズムで捲る、乾いた紙の擦れる音だった。


 配属されてから数時間。清太郎は自身のデスクの清掃を終えると、迷路のように立ち並ぶスチールラックの奥へと歩を進め、無造作に積み上げられた段ボール箱をいくつか自席へと運び込んでいた。

 箱の側面にはひび割れたマジックの文字で『2018年度〜2019年度 経費精算・決裁書控』と乱雑に書かれている。


 清太郎は安物のスーツの袖を僅かに引き上げ、その中から埃を被った分厚いファイルを取り出すと、デスクの上にうず高く積み上げた。そして、一番上のファイルを開き、黙々と目を通し始めたのだ。


 クロエはモニターの端から、その様子を冷ややかな視線で観察していた。


(何のアピールかしら。誰かが見ているわけでもないのに)


 彼女にとって、この地下室にある過去の書類など、単なる物理的なゴミでしかない。デジタル化されることなく放置された、会社の恥部や無能さの吹き溜まり。それをわざわざ引っ張り出してきて、さも重要な業務であるかのように眺める姿は、左遷された現実を受け入れられない哀れな男の逃避行動にしか見えなかった。


 しかし、数分が経過した頃、クロエはタイピングの手を無意識に止めていた。


 清太郎の書類を捲る速度が、異常だったのだ。


 パラ、パラ、パラ……。


 一定のテンポで捲られていくページ。清太郎の視線は書類の行を追うような動きを見せない。視線が紙面を滑るだけで、そこに刻まれた情報を一瞬にして脳裏に焼き付けていくような、常軌を逸した処理速度だった。

 それでいて、ただ流し見をしているわけではないことは、その淀みない所作と、時折ピタリと手が止まる瞬間があることから明らかだった。ページを捲る指先の動きには一切の迷いがなく、必要なデータを無意識下で選別しているかのようでもある。


(……読んでる? いいえ、あれじゃただの速読のパフォーマンスよ。あんなスピードで数字の意味を理解できる人間なんているわけが……)


「……興味深いですね」


 不意に、清太郎が独り言のように呟いた。

 温和で静かな声だったが、地下室の反響のせいか、クロエの耳に妙に鮮明に届いた。


 清太郎はファイルの中の特定のページを開いたまま、少しだけ首を傾げていた。


「どうやら、帝都物産の経費処理の杜撰さは、今に始まったことではないらしい」

「……独り言なら、外の廊下でやってくれない?」


 クロエはヘッドホンを首にずらし、苛立ちを隠さずに冷ややかな声を投げた。


「これは失礼。あまりにも滑稽な計算式を見つけてしまったもので、つい口に出てしまいました」


 清太郎は悪びれる様子もなく、薄く微笑んだ。その視線は、手元の古い領収書に釘付けになっている。


「滑稽? ゴミの山からゴミを見つけて喜んでるの? 暇なエリート様は羨ましいわね」

「ゴミというよりは、人間の欲望の痕跡、と言うべきでしょうか」


 清太郎はファイルを手に取り、クロエのデスクの方へ向き直った。


「例えば、この2018年11月の第3営業部の交際費精算書。添付されているのは、銀座の高級クラブの領収書で、金額は28万5000円。但し書きは『飲食代として』。宛名は空欄です」

「それが何? 大企業の営業なら、その程度の接待費、珍しくもないでしょう。ただの紙切れじゃない」

「ええ、一枚だけならただの紙切れです。ですが、問題は『ズレ』です」


 清太郎はファイルを片手で支えながら、もう片方の手で、デスクに積み上げられた別のファイルの束から、迷うことなく一枚の書類を抜き出した。インデックスも付いていない膨大な書類の中から、数秒以下の速度で目的の紙をピンポイントで引き当てたその手業に、クロエは微かに眉をひそめた。


「こちらは同日、同じ第3営業部の別の社員が申請しているタクシーの深夜割増領収書です。乗車地は六本木、降車地は品川区。時間帯は午前2時」


 清太郎の双眸が、鋭い光を帯びて細められた。


「銀座のクラブの領収書と、六本木からのタクシー代。これらが『関連している』と言えば、クロエさんはどう思われますか?」

「……こじつけね。たまたま同じ部署の人間が、同じ日に別々の場所で飲んでいただけでしょう」

「普通はそう考えます。ですが、この二枚の領収書には、数字以上の情報が残されている」


 清太郎の脳内では今、特異な現象が起きていた。

 紙の質感から伝わる指先のわずかな抵抗、印字されたインクの微小な滲み、ボールペンが紙を凹ませた筆圧の深さ。通常の人間には到底知覚できないレベルの微細な情報が、色彩や音程、あるいは立体的なホログラムのような空間配置を伴って、彼の脳内に濁流のように流れ込んでくる。不自然な数字は耳障りな不協和音として響き、改ざんされた筆跡は本来あるべき色とは違う毒々しい色を帯びて浮かび上がる。


「まず、銀座のクラブの領収書。金額の『285,000』という数字ですが、末尾のゼロの筆圧と傾きが、前の数字と明らかに異なります。よく見ると、元の数字は『28,500』。誰かが後からゼロを一つ書き足し、カンマの位置を巧妙に修正しています。安酒場の領収書を、クラブの桁に改ざんしたわけです」

「……筆跡鑑定の真似事?」

「いいえ、ただの事実の確認です。さらに決定的なのは、タクシーの領収書の裏側です」


 清太郎がタクシーの領収書を裏返すと、そこには肉眼では判別しづらい、ごく僅かな赤黒い染みのようなものが付着していた。


「ワインの飛沫ですかね。そして、銀座のクラブの領収書の端にも、同じ成分と思われる微小な染みがある。この二枚の領収書は、経理部に提出されるずっと前……おそらく、申請者たちが酒を飲んでいたそのテーブルの上で、同時に存在していたことになります」


 清太郎は淡々と、しかし決して揺るがない確信を持って言葉を紡ぐ。


「推測しましょう。2018年11月の金曜日。第3営業部の当時の次長と、その部下数名は、銀座ではなく六本木の安いダイニングバーで飲んでいました。会計は2万8500円。彼らは店から白紙に近い領収書を貰い、後日、桁を一つ増やして架空の接待費として申請した。そして、その改ざんの口裏合わせに加担した見返りとして、部下は六本木から自宅までのタクシー代を経費で落とすことを許された」


 クロエは鼻で笑おうとした。あまりにも飛躍した、妄想のような推理だ。

 だが、清太郎の瞳があまりにも凪いでいて、冗談を言っているようには到底見えなかった。


「……バカバカしい。そんなの、ただのあなたの作り話よ。証明のしようがない」

「証明は可能です」


 清太郎は即座に返した。


「クロエさん。あなたのその素晴らしい環境を使えば、2018年当時の第3営業部の勤怠データと、経費精算システムのログにアクセスすることは可能ですか? 当時の次長は、おそらく現在の取締役営業本部長、神崎氏のはずです」

「……何?」

「神崎氏の当時のスケジュールと、この二人の社員の勤怠記録。そして、その年の11月に、神崎氏の口座に不自然な入金、あるいは不自然な現金引き出しの記録がないか。確認していただけませんか」


 クロエは清太郎を睨みつけた。


「私にハッキングの手伝いをしろって言ってるの?」

「ただの確認作業ですよ。もし私の推論が間違っていれば、私はただの妄想癖のある窓際社員ということで構いません。二度とあなたのお仕事の邪魔はしないと約束しましょう」


 挑発にも似た清太郎の申し出に、クロエは小さく舌打ちをした。

 この男の余裕ぶった態度をへし折ってやるのも悪くない。


 彼女はモニターに向き直り、キーボードに指を走らせた。

 薄暗い空間に、モニターの青白い光だけが彼女の横顔を無機質に照らし出す。指先がキーボードの上を舞うように滑り、セキュリティの壁を一枚、また一枚と物理的な扉をこじ開けるかのように破壊していく。黒いターミナル画面に緑色の文字列が滝のように流れ、帝都物産の古いアーカイブサーバーのデータベースの奥深くへと潜り込んだ。


「……第3営業部、当時の次長は確かに神崎ね。勤怠データ……2018年11月16日の金曜日、神崎と問題の部下二人は、19時に退社打刻。その後のスケジュールは『社内作業』になってるけど、ログアウト記録は19時5分。完全に退社してるわ」


 クロエの声のトーンが、僅かに下がった。


「神崎の経費精算のアカウントログ……接待費の申請が行われたのは、翌週の月曜の朝。申請元のIPアドレスは……社内のネットワークじゃない。週末に、自宅かどこかの外部ネットワークからシステムにアクセスして、金額を打ち込んでいる」


 さらに彼女の指が動き、別の階層へとアクセスする。

 それは、社員の給与口座の動きを管理する提携銀行のシステムへの、非合法なバックドアからの侵入だった。


「……神崎のメイン口座。11月25日の給与振り込みの直後、経費として振り込まれた28万5000円のうち、25万円が即座に現金で引き出されてる。……残りの3万5000円が、実際の飲み代とタクシー代の埋め合わせね」


 ターミナルに表示された数字の羅列が、清太郎の語った「作り話」を、寸分の狂いもなく事実として裏付けていた。


 クロエの手が止まった。

 静まり返った地下室に、サーバーの冷却ファンの音だけが虚しく響く。


 彼女はゆっくりと椅子を回転させ、清太郎を見た。

 その青い瞳には、明確な驚愕が浮かんでいた。


「……あなた、何者なの」


 たった二枚の古い紙切れ。インクの擦れと、微小な染み。それだけで、数年前に起きた不正の現場を、まるで隠しカメラの映像を見ていたかのように正確に再構築したのだ。

 それは単なる分析力や記憶力の範疇を超えている。数字の裏に隠された人間の行動原理を完全に読み切る、悪魔的な直感だった。


「ただの経理マンですよ」


 清太郎はファイルを閉じ、静かに微笑んだ。


「数字は嘘をつきません。嘘をつくのは、いつだって人間の方です。そして、人間が欲をかいて数字を弄れば、そこには必ず不自然な『ズレ』が生じます。私には、そのズレがひどく耳障りな不協和音として感じられるだけのこと」


 彼の言葉には、一切の誇張も衒いもなかった。事実を事実として述べているだけの、圧倒的な冷たさがあった。


「……気味が悪いわね。それほどの能力があるなら、どうしてこんなゴミ捨て場にいるのよ。あなたがその気になれば、あの無能そうな上司の不正なんて、簡単に見破れたはずじゃない」


 クロエの問いに、清太郎の微笑みが僅かに形を変えた。

 温和な表面の奥底に隠されていた、絶対零度の殺意のようなものが、ほんの一瞬だけ顔を覗かせた。


「ええ。鮫島課長が私に被せた5000万円の架空発注の偽造は、この神崎氏の不正よりもさらに雑で、ひどく醜悪なものでした。ですが、権力というフィルターを通せば、その杜撰な数字も『真実』として処理されてしまう。私がその場で彼を論破したところで、用意された泥沼に沈むだけだったでしょう」


 清太郎はデスクの上に積まれた書類の山に、優雅な手つきで触れた。


「彼は私が絶望し、静かに消えていくことを望んでいる。自分が完璧な犯罪を成し遂げたと、勝利の美酒に酔っているはずです」

「……だから、泳がせていると?」

「彼は私から、社会的信用と、未来の伴侶と、平穏な日常を奪いました。その代償は、決して安くはありません」


 清太郎は、クロエの青い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その声のトーンは、地下室の温度をさらに数度下げたかのように冷え切っていた。


「私は、1円のズレも許さない。彼がどのような杜撰な数字で自らの首を絞め、すべてを失うのか。……暴力や感情論ではなく、彼が最も信じている『権力』と『数字』の力で、合法的に彼の人生を盤上から退場させます。そのために、私には完璧な証拠が必要なのです」


 静かで、熱すら帯びていない声だった。だが、そこに込められた復讐への執念は、クロエの背筋を粟立たせるほどに深く、そして理路整然としていた。


 権力の前では誰もが腐敗し、無力になる。クロエはそう信じていた。

 だが、違った。


 この男は、システムに組み込まれた歯車ではない。システムそのもののバグを見つけ出し、内部から論理的に破壊する劇薬だ。


(……この男なら)


 ロンドンでの理不尽な左遷。すべてを握り潰されたあの日の無力感。

 分厚い氷の壁で閉ざされていたクロエの心に、微かな亀裂が走る音がした。


「……性格が悪いのね、あなた」


 クロエはフッと息を吐き、口角を少しだけ上げた。それは、地下室で初めて見せた、彼女の人間らしい表情だった。


「経理マンとしては、最高の褒め言葉です」


 清太郎は恭しく一礼し、再びデスクの上のファイルへと手を伸ばした。


「さあ、準備運動はこのくらいにしておきましょうか。クロエさん、もしよろしければ、手始めに鮫島課長の過去数年間の経費精算記録と、関連する決裁ログを洗っていただけませんか。もちろん、気が向いた時で構いませんが」

「……言っておくけど、私のハッキングは安くないわよ」


 クロエはターミナル画面のログを全消去し、新たな暗号化プロトコルを立ち上げながら、モニター越しに悪態をついた。


「ええ。最高の技術には、相応の対価を支払う用意があります」


 狂いなくページを捲る乾いた音と、高速でコードを打ち込む電子音だけが、薄暗い地下室の淀んだ空気の中で、奇妙に揃ったリズムを刻み続けていた。

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