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領収書、拝見します。〜左遷された天才経理の裏帳簿ハンティング〜  作者: 伊達ジン


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2/12

第2話 地下室の青い瞳と、冷たい歓迎

 重苦しい金属音とともに、地下2階に到着したエレベーターの扉が開いた。

 同時に、古紙とインク、そして長年淀みきった空気が混ざり合った特有の匂いが鼻を突く。

 高野清太郎は、右手に私物の入った段ボール箱を一つだけ抱え、革靴の硬い足音を響かせながらコンクリート剥き出しの廊下を踏み出した。


 地上15階の経理部フロアの、あの張り詰めた空気と絶え間ない喧騒とは別世界だ。

 ここは帝都物産という巨大な組織の最下層。陽の光も届かず、空調の効きも悪い。会社の輝かしい歴史から零れ落ちた不要なものだけが、ひっそりと堆積していく場所だ。

 しかし、清太郎の足取りに躊躇いはなかった。彼の胸の奥では、自分を罠に嵌めた直属の上司、鮫島健太に対する冷たく青い炎が静かに燃え続けている。この地下室は、彼にとってただの左遷先ではない。過去数十年にわたる帝都物産の、ありとあらゆる数字が眠る武器庫となるはずの場所だった。


 廊下の突き当たりにある重厚な鉄扉には、色褪せてひび割れたアクリルプレートで『第8資料管理室』と記されていた。

 ノックをしても、分厚い扉の向こうからは何の反応もない。清太郎は冷たい金属のドアノブを回し、錆びた蝶番のきしむ音を立てながら、中へと足を踏み入れた。


 そこは、日本を代表する総合商社の本社ビル内とは思えないほどの惨状だった。

 窓のない広大な空間には、無数のスチールラックが規則性もなく迷路のように並べられている。中には書類の重みに耐えかねて棚板がひしゃげているものもあり、そこから溢れ出したキングファイルや段ボール箱が、まるで地滑りを起こしたかのように床を埋め尽くしていた。

 天井の蛍光灯は数本が寿命を迎えかけてチカチカと不快なリズムで明滅しており、薄暗い部屋の隅には、いつから放置されているのか分からない旧型の巨大なシュレッダーや、黄ばんだパソコンモニターの山が墓標のように積み上がっていた。隅の方には、キャスターの壊れたオフィスチェアや、完全に枯れ果てたまま放置された観葉植物の鉢まで転がっている。


 微かにカビの気配すら混じる、酸化した紙特有の酸っぱい匂い。息を吸い込むだけで肺に埃が溜まりそうな空間だ。


 しかし、清太郎はその光景を前にしても微かに眉を動かしただけだった。

 淀んだ空気の中でも、彼の安物のスーツには一切のシワもなく、ネクタイの結び目にも僅かな乱れはない。靴の爪先は一切の曇りなく磨き上げられ、埃まみれの床を歩くその静謐な佇まいは、周囲の無秩序な空間から完全に浮き上がっていた。


「……随分と、風通しの悪い場所ですね」


 誰に言うでもなく呟きながら、清太郎は荷物置き場と化している手前のデスクを避け、迷路のようなラックの間を抜け、奥へと進んだ。

 書類の山の向こう側。唯一、蛍光灯がまともに機能している一角に、複数のモニターが要塞の壁のように並べられたデスクがあった。


 そこに、人がいた。

 キーボードを叩く乾いた音が、極めて不規則かつ高速なリズムで響いている。


 清太郎が歩み寄ると、モニターの裏から一人の女性が顔を出した。

 一瞬、清太郎の歩みが止まる。


 透き通るような白い肌に、流れるようなブロンドの髪。

 そして、冷え切った冬の海を思わせる、鋭く美しいブルーの瞳。


 彼女は、帝都物産のいかなる部署の風景にも似つかわしくない容姿をしていた。服装も、日本のオフィスではまず見かけないラフなものだ。上質な黒のシルクシャツは胸元が少し開けられ、袖は無造作に捲り上げられている。足元はデスクの上に投げ出されており、黒のスキニーパンツの先には編み上げのレザーブーツが見えた。

 首元にはシルバーの細いネックレスが鈍く光り、彼女の放つ「誰にも干渉されたくない」という強いオーラを際立たせている。


「……何?」


 女性が口を開いた。流暢な日本語だったが、その声のトーンには隠しきれない苛立ちと、見知らぬ他者を徹底的に拒絶する冷たさが滲んでいた。

 年齢は20代後半といったところか。その整った顔立ちには、化粧っ気こそ薄いものの、隠しきれない華やかさと、何かを強く睨みつけるような芯の強さがあった。


「本日付でこちらの部署に配属されました、高野清太郎と申します」


 清太郎は手元の段ボール箱を近くの空きスペースに置き、丁寧にお辞儀をした。声のトーンは地上にいた時と変わらず、あくまで温和で紳士的だ。


「……はあ」


 女性は青い瞳で清太郎を頭の先から爪先まで一瞥すると、つまらなそうに鼻で笑った。


「また厄介払い? 人事の連中、ゴミ箱とここの区別がついてないみたいね。それとも、私が英語しか話せないとでも思って、通訳のつもりで送り込んできたのかしら」

「いいえ。私個人の事情による異動です。あなたのお仕事の邪魔をするつもりはありませんので、ご安心を。ところで、お名前を伺っても?」

「クロエ。クロエ・マクスウェルよ。別に覚えなくていいわ、どうせすぐに辞めていくんでしょうから」


 クロエはブーツを下ろし、再びモニターに向き直った。

 彼女の視線の先には、複雑なコードの羅列と、いくつもの黒いターミナル画面が展開されている。帝都物産の標準支給品ではない。私物のハイエンドなノートパソコンと、自前で持ち込んだであろう高解像度モニターだ。画面から放たれる無機質な光が、彼女の白い肌を冷たく照らし出している。

 清太郎の鋭い視力が、画面の端に表示された見慣れぬIPアドレスと、不自然なルーティングの痕跡を瞬時に捉えた。実行されているスクリプトのログや、暗号化通信のパケット監視ツール。経理部での通常業務では絶対にアクセスしない、幾重にも暗号化された海外サーバーの階層。手元のキーボードを叩く指の動きも、まるで複雑なピアノの難曲を弾きこなすかのように高速で、ただの事務作業のそれとは次元が違う。


(なるほど。ただの窓際社員、というわけではなさそうですね)


「クロエさんですね。よろしくお願いします」


 清太郎は表情を変えずに相槌を打ち、自身の席になるであろう、段ボールが山積みになったデスクに向かった。

 スーツが汚れることも厭わず、無造作に積まれた箱を一つずつ床へ下ろしていく。持ち上げる際も背筋を伸ばし、膝を柔らかく使って箱を運ぶ。その所作には一切の無駄がなく、流れるように滑らかだ。

 空になったデスクの表面にはうっすらと埃が積もっていたが、清太郎は鞄からハンカチ代わりのクロスを取り出すと、手際よく丁寧にそれを拭き上げ始めた。


 その様子を、クロエはモニターの横から冷ややかな視線で観察していた。


(何なの、この男)


 クロエは内心で舌打ちをした。

 ここ数ヶ月、この地下室に追いやられてくるのは、メンタルを病んだ中年の休職明けか、使い込みがバレて退職までの時間稼ぎをしているような、目に光のない連中ばかりだった。彼らは一様に背中を丸め、自分たちの不遇を嘆き、ただ時間が過ぎるのを待つだけの存在だった。

 だが、目の前の男は違う。

 安物のスーツだが、その着こなしは異様なほど洗練されている。埃まみれの段ボールを扱う手つきすら優雅だ。顔立ちは端正だが、それ以上に、その瞳の奥にある静けさが気味が悪かった。絶望も、怒りも、焦りもない。まるで、左遷されたことすら計算通りであるかのような落ち着き払った態度だ。


(エリート崩れが、余裕ぶって。大企業の人間なんて、どいつもこいつも保身と欲望の塊のくせに。……ことごとく腐っているわ)


 クロエの胸の奥で、苦い記憶が重く疼く。

 かつてロンドン支社の内部監査室で、彼女は自分の能力を信じていた。会社の膿を出し、正しさを証明できると本気で思っていた。だが、本社役員という巨大な壁の前では、彼女の集めた確たる証拠すら、ただの紙屑にすぎなかった。

 真実は容易く握り潰され、すべてを奪われた。気がつけばロンドンの曇り空から遠く離れた、言葉も文化も違うこの極東の地下室に追いやられ、彼女のキャリアも誇りも闇に葬られたのだ。

 正義など、権力の前では何の役にも立たない。あの日の強烈な無力感と人間不信が、彼女の心に分厚い氷の壁を作っていた。


「無駄な努力ね」


 クロエは、黙々とデスクを拭き上げている清太郎に向けて、冷たい声を投げた。


「ここには仕事なんてないわよ。あるのは、過去の人間が残したゴミみたいな書類だけ。あなたがどれだけスーツを綺麗に着こなして、仕事ができるふりをしたところで、誰も評価しない。息をひそめて、給料泥棒の才能を磨くことね」


 辛辣なブリティッシュジョークを交えた皮肉。普通の人間なら、腹を立てるか、あるいは己の情けなさに打ちひしがれるかのどちらかだ。

 しかし、清太郎は手を止めることなく、振り返って穏やかに微笑んだ。


「ご忠告ありがとうございます。ですが、給料泥棒になるには、私は少々貧乏性でして。それに、ゴミの山の中にも、価値のあるものは埋もれているかもしれませんよ」

「……馬鹿みたい。勝手にすれば」


 クロエは完全に興味を失ったように、ヘッドホンを耳に当てた。

 外部の音を遮断し、再びモニター上の数字とコードの世界へと没入していく。彼女にとって、目の前の男もまた、自分を絶望させた大企業の歯車の一つに過ぎない。関わるだけ無駄だ。


 清太郎もまた、それ以上彼女に話しかけることはなかった。

 自身のデスクの清掃を終えると、持参した私物を定規で測ったように整然と並べる。黒いレザーのペン立て、ブルーブラックのインクが入った万年筆、そして無地のマグカップ。デスクの上の配置は、15階の経理部フロアにいた時と寸分違わぬ正確なレイアウトだった。

 最後に、支給された古いデスクトップパソコンの電源を入れる。


 内蔵の冷却ファンが重苦しい唸り声を上げて回り始め、ハードディスクがカリカリと時代遅れな音を立てる。モニターが白く明滅し、やがて、黄ばんだ画面に帝都物産の社章がゆっくりと浮かび上がった。

 清太郎はマウスを握り、ゆっくりと視線を巡らせる。

 周囲を取り囲むスチールラックには、年代別に無造作に押し込まれたキングファイルの山があった。背表紙には『経費精算綴』『決裁書控』といった文字が並んでいる。


(ここにあるのは、帝都物産の過去数十年分の『数字の歴史』。……そして、隠された『嘘の歴史』だ)


 薄暗い地下室の空間で、清太郎の瞳の奥底に、獲物を狙う捕食者のような冷たい光が宿った。

 しかし、彼はまだ動かない。今はただ、自身の新たな陣地を整え、環境に溶け込む時間だ。


 窓のない広大な空間。

 換気扇の低い駆動音と、クロエが叩く異常な速度のタイピング音。

 そして、清太郎が社内規定のファイルを開く静かなマウスのクリック音。


 言葉は交わされない。視線が合うこともない。

 ただ、規則的な電子音と紙が擦れるような微かな音だけが、薄暗い部屋の中で反響し合っている。無言のまま画面を見つめる二人の間には、息が詰まるほど冷たい空気が流れ続けていた。

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