第43話 七人の女神と、完璧なる最終決算
帝都物産本社ビル、最上階。
広大な社長室の重厚なマホガニーのデスクで、大黒龍太郎は、耳から毟り取ったBluetoothインカムを血走った眼で睨みつけていた。
『――ッ、なんだこの女は! ぐぁっ!』
インカムの向こうから響いたのは、彼が多額の報酬で雇い入れた裏社会の傭兵部隊のリーダーの絶叫と、骨が砕けるような鈍い打撃音。そして直後、通信は完全に途絶え、耳障りなホワイトノイズだけが残された。
「……おい。どうした、応答しろ!」
大黒はデスクに身を乗り出し、怒鳴りつけた。しかし、返ってくるのは冷ややかな静寂だけだ。彼が最後の切り札として放った武装集団が、たかが窓際部署の地下室で全滅した。
「無能どもが……ッ!」
大黒はインカムを壁に力任せに叩きつけた。プラスチックの破片が乾いた音を立てて床に散らばる。
もはや、帝都物産という彼の城は崩落の最中にある。自身の右腕であった武藤専務をはじめとする側近たちはすでに特捜部に拘束され、企業弁護士団も蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。絶対的な権力で築き上げた防壁が、音を立てて崩れていく。特捜部の足音が、この社長室の扉を叩くのは時間の問題だった。
だが、大黒にはまだ最後の命綱があった。
彼は壁の絵画を乱暴に外し、隠し金庫のダイヤルを回した。中から取り出したのは、複数の偽造パスポートと、スイス製のハードウェアウォレット。会社の裏金とは別に、彼自身がタックスヘイブンであるケイマン諸島の口座にプールしていた絶対不可侵の個人資産――総額500億円相当の暗号資産だ。
これさえあれば、世界中のどこででも王として君臨できる。
大黒はデスクのノートPCを開き、震える太い指でウォレットを接続した。逃亡先の手配師に数億円を即座に送金し、羽田空港で待機しているプライベートジェットを飛ばさなければならない。
荒い呼吸を繰り返しながら暗証番号を打ち込み、エンターキーを叩く。
しかし、ロード画面を挟んで表示されたのは、彼の目を疑うような数字だった。
『Balance: 0.00 USD』
「……は?」
大黒は呼吸を止めた。瞬きを繰り返し、もう一度画面をリロードする。だが、無機質な『0』の数字は変わらない。
その直後、画面の中央にポップアップウィンドウが開いた。
そこに表示されたのは、ウインクをして舌を出す、小悪魔的な女性のアイコンだった。
『ごちそうさま。あなたの隠し金庫、随分と埃を被っていたから、綺麗に空っぽにしておいてあげたわ。――F』
「な、なんだこれは……私の金が……500億が……!」
大黒の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
地下の物理ポートから会社の基幹ネットワークを完全に制圧したクロエ・マクスウェルと、そこから大黒の個人ネットワークへと逆探知で侵入したフレイヤ・ヨンスドッティル。世界最高峰の二つのデジタルの頭脳が、大黒が絶対の安全圏だと信じていた暗号資産の迷宮を跡形もなく解体し、資金を完全に凍結・強奪していたのだ。
「ふざけるな、ふざけるなッ!」
大黒はスマートフォンを掴み、裏社会のフィクサーへと電話をかけた。金なら後でどうとでもなる。とにかく今はここから逃げ出さなければならない。
『……ああ、大黒さん』
数回のコールの後、相手はひどく冷淡な声で応じた。
「ジェットを出せ。今すぐだ! 金は払う、いくらでも払うから用意しろ!」
『悪いが、その手配はすべてキャンセルさせてもらったよ』
「なんだと!? なぜだ!」
『……大黒龍太郎は一文無しだ。逃亡の手配を進める価値もない、と。銀座の西川さんから、ついさっき連絡があってね。裏の世界じゃ、金のない客に売る席はないんだよ。じゃあな』
ツーツーという無機質な音が、大黒の耳を打つ。
銀座の女主人・西川朋美。彼女の張り巡らしたヒューマン・インテリジェンスの網は、大黒の失墜を誰よりも早く裏社会に伝達し、逃亡への道をすべて断ち切っていた。
同じ頃、帝都物産の役員フロアでは、山内久美子が静かに動いていた。
彼女は、自身の息のかかった複数の役員のタブレット端末に、一つの音声データを一斉に送信した。それは、大黒が裏社会のフィクサーに襲撃部隊の投入を指示した際の、生々しい通話録音だった。クロエが社長室の通信をハッキングし、密かにサルベージしたものだ。
「……なんだこれは。社長が、半グレ集団を社内に引き入れたというのか」
「もはや、庇いきれん。我が社が反社会的勢力と繋がりがあると知れれば、上場廃止は免れないぞ!」
久美子は、青ざめていく役員たちの顔色を冷ややかに見つめながら、静かに踵を返した。
これで、社内で大黒に味方する人間は、ただの一人としていなくなった。
かつてすべてを支配していた大黒の瞳には、今や砂上の楼閣が崩れゆく絶望の影だけが色濃く落ちていた。誰も彼の電話に出ない。秘書を呼ぶインターホンにも応答はない。絶対的な権力者であったはずの男は、広大な社長室の中で、完全な孤独の中に突き落とされていた。
★★★★★★★★★★★
帝都物産本社ビル、地下二階・第8資料管理室。
「……よし、クリアよ」
菊池真矢がタクティカルバトンを短く収め、小さく息を吐き出した。彼女の足元には、完全に意識を刈り取られた傭兵部隊の男たちが、等間隔に転がっている。
「ドローンのバッテリーもギリギリだったけど、いいタイミングだったわね」
小松美鈴が、手元のコントローラーの電源を落としながら、頭に乗せたサングラスの位置を軽く直した。二人の連携による物理的な防衛線は、大黒の放った凶刃を一人残らず無力化していた。
硝煙と埃が僅かに漂う地下室の奥で、四面のハイエンドモニターから放たれる青白い光が揺れている。
「物理的な脅威が排除されたなら、次は私たちの番ね」
クロエが、エンターキーを小気味よく叩いた。モニターに流れる緑色の文字列がピタリと止まる。
「大黒の個人ネットワーク、完全制圧。ケイマン諸島の口座から資金が引き出されようとした痕跡をキャッチしたわ」
「遅すぎよ」
隣でキーボードを叩いていたフレイヤが、小悪魔的な笑みを浮かべて伸びをした。
「その500億円は、私がすでに何重ものミキサーにかけて、世界中の見えないポケットに分散させておいたわ。彼の隠し金庫は、今頃綺麗な0円になっているはずよ」
「見事な手際です」
静かな声が、淀んだ空気を震わせた。
そこに立っていたのは、硝煙と埃の漂う空気の中にあっても、完璧な平穏を纏った高野清太郎だった。衣服には埃一つ付いておらず、ネクタイの結び目も、まるで鏡の前で今しがた整えたかのように美しく均整を保っている。
重厚な鉄扉が開き、廊下からヒールの足音が近づいてきた。
「役員たちの顔色、見ものだったわよ。これで社内に大黒社長を庇う人間は誰一人いなくなったわ」
山内久美子が、ふんわりとした笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。
その後ろから、絹の擦れる微かな音とともに、銀鼠色の着物を美しく着こなした西川朋美が姿を現した。
「裏の方々には、大黒龍太郎は一文無しだ、とお伝えしておきましたわ。逃亡の手配を進める価値もないと、見事に掌を返していました」
朋美は艶やかに微笑み、清太郎の傍らへと歩み寄った。彼女の纏う上品な香水の香りが、地下室の冷たい空気と混ざり合う。
「ねえ、高野くん。物理的な脅威も退けて、大仕事が終わったのですから、少しは肩の力を抜かれてはいかが? 私の店で、もっと特別な夜の過ごし方を教えて差し上げてもよろしくてよ?」
大人の余裕に満ちた誘惑。しかし、清太郎は表情を全く崩さずに、静かに視線を返した。
「魅力的なご提案ですが、私にはまだ処理すべき経費精算の書類が山ほど残っていましてね。……お誘いは、またの機会に」
「ふふっ、本当に隙がない男ね」
朋美は心底楽しげに笑い声を上げた。
「甘い時間はそこまでにしておきなさい。外堀は埋まりましたが、本丸はまだ陥落していませんよ」
凛とした声とともに、西田奈央子が最後に姿を見せた。完璧に仕立てられた濃紺のタイトスーツが、彼女の冷徹な威圧感を際立たせている。
奈央子は手元のタブレットを開き、清太郎を見た。
「武藤専務の特別背任と証拠隠滅教唆で、特捜部はすでに動いています。ですが、大黒自身を直接逮捕に持ち込むには、まだ彼自身が直接手を下したという『原点の不正』の決定的な証拠が足りません。今はまだ、武藤にすべてをなすりつけて逃げ切る余地が残されている」
硝煙と埃が渦巻く地下室の淀んだ空気を塗り替えるように、七人の才覚がこの場に集結していた。
電脳の深淵から500億を毟り取ったクロエとフレイヤの底知れぬ静けさ、冷徹な微笑みを崩さない久美子、つい先ほどまで嵐のような防衛戦を潜り抜けてきた真矢と美鈴の隙のない佇まい、夜の静寂を纏って歩み寄る朋美、そして法の刃を研ぎ澄ます奈央子。それぞれの領域で牙を研いできたヒロインたちの放つ圧倒的なプレッシャーが、地下室の冷気を一段と鋭く研ぎ澄ませている。
清太郎は、自身のデスクに積み上げられた、膨大なキングファイルの山へとゆっくりと視線を移した。過去十年間にわたる、帝都物産のすべての決裁書が眠る紙の束。
「物理的な暴力も、デジタルの裏金も、すべて封じました。彼に残されているのは、もはや過去の自分が積み上げてきた『嘘の数字』だけです」
「これから、あの果てしない紙の山と格闘するおつもり?」
朋美が、少しだけ呆れたような、しかし愛おしむような視線を清太郎に向けた。
「ええ。これほど巨大な組織を歪めてきたのであれば、その原点となる決裁書の中に、為替差損益や端数処理では決して説明のつかない、致命的な自己矛盾が必ず残されているはずですから」
清太郎の言葉に、朋美は小さくため息をつき、彼の袖口をそっと引いた。
「なら、その前に少しだけ私にお時間をくださらない? ……頭を冷やすための、夜風が必要よ」
「西川さん?」
「あなた、少し無理をなすっているでしょう。完璧に整えられた身嗜みでも、その瞳の奥の疲労は私の目は誤魔化せなくてよ」
朋美の言葉に、クロエたちが小さく肩をすくめた。
「いいんじゃない? 私たちも少し休憩が必要よ。特捜部の動きの監視はこっちでやっておくわ」
クロエの言葉に背中を押されるように、清太郎は静かに頷いた。
★★★★★★★★★★★
深夜の豊洲ぐるり公園。
東京湾の穏やかな波音が響く海沿いのプロムナードは、街の喧騒から完全に切り離された静寂に包まれていた。対岸には、レインボーブリッジと高層マンション群の煌びやかな夜景が広がっている。
「完全会員制サロンのオーナーが、深夜の公園で缶のホットティーなんて。他のお客様には絶対にお見せできませんわね」
冷たい海風に銀鼠色の着物の裾を揺らしながら、朋美は清太郎から受け取った温かい缶を両手で包み込み、妖艶な微笑みを浮かべた。
「経費では落ちませんが、私のポケットマネーとしては精一杯の奢りです。……素晴らしい手回しでした。裏社会のネットワークをあそこまで見事にコントロールしてみせるとは」
清太郎もまた、自身の持つ缶コーヒーから立ち上る白い湯気を見つめながら、静かに感謝を口にした。
「私の店で毎晩のように交わされる、欲望と秘密の蓄積よ。彼らは金にしか頭を下げない。大黒龍太郎という男の財布が空っぽだと分かれば、誰も彼に船は出さないわ」
朋美は海面へと視線を移し、ふと、隣に立つ清太郎のネクタイの結び目にそっと指先を伸ばした。
「……ん」
絹の擦れる微かな音とともに、彼女の美しく長い指が、清太郎の首元を締め付けていた完璧な結び目を、ほんの少しだけ緩める。
「今夜くらい、少しだけ息を抜きなさいな。明日からはまた、泥沼のような紙の山と格闘して、大黒の残した10年分の嘘と向き合うのでしょう?」
耳元で囁かれるような、甘く艶やかな夜の女王の誘惑。
しかし、その声に含まれた純粋な労りに、清太郎は薄く心地よい微笑みを返した。
「ええ。彼の築き上げた最初の嘘、その決定的な矛盾を必ず見つけ出します。……ですが、今は」
清太郎は夜風を深く吸い込み、隣で微笑む彼女へと真っ直ぐに視線を向けた。
「あなた方という心強いパートナーのおかげで、少しだけ……心地よい夜風を感じることができています」
「ふふっ。本当に、不器用な男ね。でも……そういうところ、嫌いじゃなくてよ」
冷たい海風の中、二人の間に流れる静かな時間。
数字の裏に隠された真実を狩るための、最後の決戦を前にした、束の間の艶やかな休息。
清太郎の瞳の奥には、やがて始まる『完璧な清算』に向けた静かな炎が、確かに宿り始めていた。




