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領収書、拝見します。〜左遷された天才経理の裏帳簿ハンティング〜  作者: 伊達ジン


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第42話 鋼鉄の防衛線と、空飛ぶ眼窩

 エゾシカ肉のローストが放っていた濃厚なカシスの香りは、地下二階に澱む古い紙の匂いにかき消され、代わりに肌を刺すような鋭い緊張感が部屋を満たしていた。


 第8資料管理室。

 帝都物産本社ビルの最下層に位置するこの忘れられた空間は今、静かなる戦場へと変貌を遂げていた。

 無数のキングファイルが並ぶ無機質なスチールラックの奥、四面のハイエンドモニターが放つ青白い光だけが、暗い室内を冷ややかに照らし出している。古い空調の低い駆動音が、耳鳴りのように這い回っていた。


 高野清太郎は、自身のデスクの上でもろみしぼり酢の入ったグラスと、砕いた純黒糖の小皿をトレイに乗せ、モニター前で待機するヒロインたちの元へと歩み寄った。安物のネイビースーツには、張り詰めた空気の中にあっても一切のシワがない。


「糖分とクエン酸の補給です。これから数十分間、極限の処理が始まる」


 クロエ・マクスウェルは血の気の失せた手でグラスを受け取り、一気に飲み干した。耳慣れた琥珀色の液体の鋭い酸味と、黒糖の濃厚な甘みが、徹夜続きで疲弊した脳髄を強制的に覚醒させる。


「……来たわ」


 その瞬間、クロエのモニターの一つが、けたたましい警告音と共に真っ赤に明滅した。

 彼女の青い瞳が、瞬時にハッカーのそれへと切り替わる。


「1階の正面エントランス、物理ロック破壊。続いて地下駐車場側の通用口からも侵入。数は……全部で18名。全員、アサルトライフルとタクティカルギアで完全武装しているわ」


 モニターに映し出された監視カメラの映像には、黒ずくめの武装集団が、統率の取れた動きでビルの内部へと侵入していく様が鮮明に捉えられていた。

 先頭を歩くのは、顔の左半分にケロイドの傷跡を持つ、猫のようにしなやかな体躯の大柄な男だ。彼が指先で短く合図を送るだけで、後続の男たちが無言のまま警備員をスタンガンで沈め、監視カメラの死角を正確に突くようにして進んでいく。硝煙と死線を幾度も潜り抜けてきた、本物の猟犬たちの身のこなしだった。彼らは一切の迷いなく、一直線にこの地下エリアを目指している。


「大黒社長も、ついに法という盾を投げ捨てて、最も原始的な暴力に訴え出ましたか」


 清太郎はトレイを自身のデスクに戻し、静かにモニターを見つめた。


「窮地に陥った獣は、手近なものを力任せに壊そうとする。ですが、ここは我々のホームグラウンドです。クロエさん、美鈴さん、真矢さん。……迎撃を」

「了解」


 三人の声が重なった。


「まずは、舞台のセッティングからね」


 クロエが、猛烈な速度でキーボードを叩き始める。彼女はすでに、本社ビルのローカルネットワークを深層まで完全に掌握していた。


「エレベーター、全基停止。非常階段の電子ロック、B1フロアと1階の間で強制パージ。連中を、南側と東側の二つの貨物用スロープに誘導するわ」


 侵入者たちの分厚いタクティカルブーツが、地下エリアのコンクリートを踏み鳴らす音が重く響き始める。複数の足音が重なり合い、確かな殺意となって地下室へと迫る。

 彼らが地下1階の長い廊下へと足を踏み入れた瞬間、クロエがエンターキーを強く叩いた。


 ガコンッ!


 凄まじい轟音と共に、侵入者たちの前後を分断するように、数枚の分厚い防火シャッターが不規則に落下した。


「な、なんだ!?」

「システムが暴走しているのか!」


 突然の分断に、傭兵たちが怒号を上げる。彼らの完璧だったフォーメーションが崩れ、数人ずつの孤立したグループへと切り離された。ケロイドの男が舌打ちをし、部下たちにハンドサインで指示を出す様子がカメラに映る。


 さらに、クロエの指先が躍動する。


「おまけよ。少し頭を冷やしなさい」


 廊下の天井に設置されたスプリンクラーが一斉に誤作動を起こし、大量の水が滝のように降り注ぐ。床のPタイルが瞬く間に水を湛え、傭兵たちの靴底のグリップを奪っていく。

 同時に、地下エリア一帯の照明が完全に落ち、圧倒的な暗闇が彼らを包み込んだ。


「さて、私の可愛い相棒たちの出番ね」


 小松美鈴がFPVゴーグルを目深に被り、両手に持ったプロポのスティックに指を這わせた。その口元には、雪山を滑走する時と同じような、純粋で好戦的な笑みが浮かんでいる。

 機材ケースから、手のひらサイズのマイクロドローンが六機、甲高いローター音を響かせて一斉に飛び立つ。


 暗闇に沈む廊下。

 スプリンクラーの水音に混じって、正体不明の羽音が近づいてくることに傭兵の一人が気づいた。


「……なんだこの音は」


 彼がアサルトライフルに装着されたフラッシュライトを向けようとした瞬間。

 暗がりから、弾丸のような速度でマイクロドローンが飛び出してきた。


「っ!」


 ドローンは傭兵の顔面スレスレを掠め、予測不能な軌道で廊下を飛び交う。プロのエクストリームアスリートである美鈴の、動体視力と反射神経がもたらす神業の操縦だ。障害物をミリ単位で回避し、通風孔から現れては背後へと回り込む。


「クソッ、ハエ撃ちか!」


 苛立った傭兵がライフルを振り回すが、時速100キロを超える速度で変幻自在に飛び回る小さな的を捉えることなど不可能だった。


「視線誘導、完了。真矢、フラッシュいくわよ」


 インカム越しに美鈴の弾むような声が響く。


 ドローンが傭兵たちの頭上、ちょうど視界の中心に集まった瞬間だった。


「起爆」


 マイクロドローンに搭載された超高輝度のフラッシュバン(閃光弾)が、一斉に炸裂した。


「ガアァッ!!」


 密閉された空間で放たれた数万カンデラの閃光と、鼓膜を突き破るような爆音。

 ナイトビジョンやタクティカルゴーグルを装着していた傭兵たちは、その視覚増幅機能が仇となり、網膜を焼かれるような強烈な痛みに襲われて膝をついた。視覚と聴覚を完全に奪われ、無防備状態に陥る。


「クロエ、照明落としたままで維持」

「了解。濡れた床に気をつけてね、真矢」

「問題ないわ」


 暗転した空間。

 膝をつき、パニックに陥ってライフルを乱射しようとする傭兵たちの死角から、音もなく忍び寄る影があった。

 ナイトビジョンゴーグルを下ろし、暗闇を真昼のように見通している菊池真矢だ。

 元スタントウーマンとしての卓越した身体能力と、潜入調査で培われた隠密技術。足元が完全に水に覆われていても、彼女の歩法は一切の水音を立てない。


 真矢はライフルの銃口を指先でわずかに逸らすと同時に、右手で握ったタクティカルバトンを男の手首に叩き込んだ。


「ガッ……!」


 骨の砕ける鈍い音が響き、男の手からライフルが滑り落ちる。

 真矢はそのまま流れるような動作で男の懐に潜り込み、首元に腕を回して頸動脈を的確に圧迫した。数秒の抵抗の後、巨漢の傭兵が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。


「一人」


 短く呟くと、真矢はすでに次の標的へと向かっていた。


「真矢、右斜め後方、二人。視力回復しつつあるわ」


 クロエのナビゲートがインカムに飛ぶ。


「美鈴、足止めお願い」

「任せて」


 真矢の言葉と同時に、別のマイクロドローンが二人の傭兵の顔面に向けて突撃し、彼らが思わず腕で顔を覆った瞬間、真矢が地を蹴った。

 水飛沫を上げて間合いを詰め、一人の膝裏をバトンで容赦なく薙ぎ払う。体勢を崩した男の顎を膝蹴りで跳ね上げ、脳を揺らして意識を刈り取る。

 振り返りざま、もう一人の男が放った特殊警棒の軌道を左腕のガードでいなし、そのまま関節を極めて床に押さえつけた。関節が外れる嫌な音と共に、短い悲鳴が暗闇に溶ける。


 その暗闇の奥、他のモブとは明らかに異なる、猫のようにしなやかな体躯で警棒を構える大柄な男がいた。

 顔の左半分に刻まれたケロイドの傷跡が、フラッシュバンの残光に不気味に浮かび上がる。

 前話の最後に姿を見せた、リーダー格の男だ。


 本物の『猟犬』の殺気を放ち、一瞬で視力を回復させて真矢の首元へ特殊警棒を叩き込んできた。

 空気を切り裂く風切り音。

 真矢は息を呑みながらも、その殺意の塊のような軌道を紙一重で躱した。しかし、男の攻撃はそこで終わらない。即座に反転し、真矢の膝を砕くためのローキックが放たれる。鈍い音が響き、重い衝撃が真矢のガードした左腕を芯まで揺らした。


「……っ」

「ネズミが。チョコマカと」


 男の低く濁った声。その巨体から繰り出される連撃は、これまでの傭兵たちとは明らかに次元が違った。暗闇と悪路という圧倒的不利な状況にあっても、この男だけはすでに環境に適応し始めている。


 だが、真矢は退かない。男の巨体から放たれる大振りの攻撃を逆手に取り、足元の水を蹴り立て、滑るようにして懐へと潜り込んだ。


「いい腕だけど、私だって何度も死んできてるのよ」


 真矢は男の突き出された腕を絡め取り、自身の体重を乗せて関節を極めながら反転させた。

 ゴキリ、と骨が外れる鈍い音が響き、男の鋭い呻き声が暗闇に漏れる。巨躯がバランスを崩した瞬間、真矢の容赦ない蹴りが男の顎を打ち抜き、ついに猟犬はその巨体を床に沈めた。

 確実に意識を刈り取るため、真矢は倒れ込んだ男の頸動脈を締め上げ、完全に動かなくなったのを確認してゆっくりと立ち上がった。


「エリートさんからのオーダー通り、一人残らず『生け捕り』よ」


 真矢の息は微かに弾んでいたが、その動きに一切の淀みはない。


「真矢、残り三名。第2スロープ付近よ。エレベーターホールのシャッターを開けるわ」

「了解。美鈴、最後のおもちゃ、残ってる?」

「もちろん。特大の音響をお見舞いしてあげるわ」


 数分後。

 地下エリアに侵入した18名の武装集団は、一発の銃弾を命中させることもできず、ただの一人の死者も出すことなく、全員が床に転がって意識を失っていた。手足を拘束され、完全に無力化された彼らは、もはや単なる荷物と化している。


「制圧完了。全員、夢の中よ」


 インカムから真矢の少し疲れた、しかし充実感に満ちた声が届く。


「お疲れ様でした。見事な手際です」


 清太郎はインカムのスイッチを切り、ゆっくりと立ち上がった。

 安物のネイビースーツには、相変わらず一本のシワもない。


「さて……大黒社長の最後の足掻きも、これで終わりです」


 清太郎は、完全に沈黙した監視カメラの映像を静かに行き来する視線で見つめた。

 物理的な脅威は排除された。あとは、法のメスを使ってあの巨魁を社会的に解体するだけだ。

 古い換気扇の低い駆動音だけが、暗い地下室へと響き渡っていた。

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