第41話 暴走する巨魁と、地下要塞への誘い
帝都物産本社ビル、最上階。
広大な社長室は、かつてないほどの濃密な死臭に似た空気に支配されていた。
大黒龍太郎は、重厚なマホガニーのデスクに突っ伏すようにして、血走った眼でテレビモニターを睨みつけていた。
画面の中では、無数のフラッシュを浴びながら、自身の右腕であった武藤専務が東京地検特捜部の捜査員に両脇を抱えられ、黒い車両へと押し込まれていく様子が繰り返し再生されている。テロップには『帝都物産専務、特別背任および証拠隠滅教唆の疑いで逮捕』という文字が冷酷に踊っていた。
「……ッ、この、役立たずどもが……!」
大黒の巨大な肥満体が、小刻みに震えている。額からどす黒い脂汗が滝のように流れ落ち、彼自身の権力の象徴でもあった最高級のオーダーメイドスーツの襟元を無惨に汚していた。
数時間前まで彼を守る絶対的な盾であったはずの企業弁護士団は、武藤の証拠隠滅の事実が露見した瞬間、蜘蛛の子を散らすように彼を見捨てた。何度電話をかけても、すでに応答はない。彼らが己の弁護士資格を守るために、大黒という沈みゆく泥船から真っ先に逃げ出したことは明白だった。
法という盾を失い、手足となる側近たちを根こそぎ奪われた。
警察の捜査の手が、この社長室の分厚い扉を叩くのは、もはや時間の問題だ。
「……私の、城だぞ。私が築き上げた、私の帝国だ……っ。たかが経理の羽虫一匹に、奪われてたまるか……!」
保身と権力への異常な執着が、大黒の中から最後に残っていた理性を完全に焼き尽くした。
彼は震える太い指で、自身のスマートフォンを操作した。かける先は、通常の連絡網には決して残らない暗号回線。海外のペーパーカンパニーに隠し持っている、彼個人の最後の裏金を引き出すための裏ルートだ。
数回の無機質なコールの後、通信が繋がる。
スマートフォンのスピーカーから響いたのは、濡れた砂を擦り合わせるような、酷く嗄れて冷え切った男の声だった。その背後からは、どこか遠い波の音と、不規則に響く電子的ノイズが微かに混ざり合っている。
『……珍しいな、大黒さん。あんたから直接連絡が来るなんて』
「金はいくらでも払う! 今すぐ、動かせるプロの連中を集めろ!」
大黒は、喉の奥から絞り出すような濁った声で叫んだ。
「高野清太郎を殺せ。周りにいる女どもも全員だ! そして、奴らが持っているデータを物理的に完全に破壊しろ! 手段は一切問わん……今夜中に、必ずだ!」
窮地に陥った権力者が最後に選んだのは、法も権略もかなぐり捨てた、最も単純で野蛮な『暴力』だった。
★★★★★★★★★★★
「ミャァァァ……ッ!」
高野清太郎のマンションのリビングに、世の不条理すべてに抗議するような、不満げで甲高い鳴き声が響き渡った。
玄関から入ってきた菊池真矢が、手に提げていたペット用のキャリーバッグを床に置く。ファスナーを開けた瞬間、黒猫のルカが弾かれたように飛び出してきた。
「はいはい、お疲れ様。エリートさん、ルカのお帰りよ。動物病院でワクチン打たれて、ずっと機嫌が斜めなんだから」
真矢が苦笑しながらレザージャケットを脱ぐ。
ルカはフローリングの上を、短い足をいそいそと動かして駆けてくると、一直線に清太郎の足元へと向かい、そのスラックスの裾に顔を擦り付けながら「ニャゥ」と甘えるように鳴いた。自身の身に降りかかった注射という理不尽な痛みを、一番の保護者に訴えかけているようだ。
「よく頑張りましたね、ルカ。消毒液の匂いが残っていますよ」
清太郎は、上着の袖口を汚すことも気にせず、慣れた手つきで子猫の顎の下を優しく撫でる。ルカは甘えたように喉の奥を鳴らし、そのまま床にごろりと転がって、白い毛の混じる柔らかい腹を無防備に差し出した。
極限の緊張状態が続く空間の中で、その愛らしい姿だけが、張り詰めた神経をふわりと緩ませる。
「……無事で何よりね。でも、ここもそろそろ限界でしょ?」
四面のハイエンドモニターの前から振り返り、クロエ・マクスウェルがルカを一瞥したあと、鋭い視線を清太郎へと向けた。すでに彼女の機材の大部分は、耐衝撃ケースに梱包され始めている。
「ええ。西田先生の法的な楔が完璧に決まったことで、大黒社長は完全に理性を失いました。彼が持つネットワークと裏金を考えれば、数時間以内にこのマンションは武装した集団に襲撃されるでしょう。窮地に陥った獣は、最も単純な暴力に頼るものです」
清太郎は立ち上がり、リビングに集まった女性たち――クロエ、フレイヤ、真矢、美鈴、久美子、奈央子、朋美――を静かに見回した。
各分野の頂点を極めた七人のスペシャリストたちが、今、一つの部隊として完全に統率されている。
「我々はこれより、ここを放棄し、本丸へと移動します」
「本丸って……帝都物産の本社ビル?」
久美子が目を丸くした。
「監査部に完全に封鎖されたはずじゃない」
「だからこそ、安全なのです。封鎖された『第8資料管理室』には、今や清掃員すら寄り付きません。大黒社長の個人口座のマスターデータが眠る社内基幹サーバーに物理的にアクセスできる最短ルートであり、かつ――」
清太郎の唇に、三日月のような冷徹な微笑みが浮かんだ。
「――暗闇の中で理性を失った獣を誘い込み、一網打尽にする『キルゾーン』として、あの地下要塞以上の場所はありません」
★★★★★★★★★★★
深夜の帝都物産本社ビル、地下二階。
かつて清太郎が左遷された、カビと古い紙の匂いが立ち込める第8資料管理室。
分厚い鉄扉に張られていた『監査部封鎖』のテープは、真矢の手によって痕跡も残さず綺麗に剥がされ、ピッキングによって容易く解錠されていた。
照明の落ちた薄暗い空間の中で、再び無数のモニターが青白い光を放ち始めている。
クロエとフレイヤが持ち込んだ機材を社内のオフライン回線に物理接続し、完全に独立した独自の防衛ネットワークを構築していた。その傍らでは、小松美鈴が何機もの小型FPVドローンをデスクに並べ、プロポの最終調整を行っている。
静寂と冷気に包まれた地下室の奥、簡易給湯室のスペースで、清太郎は一人、静かに火と向き合っていた。
持ち込んだ大容量のポータブル電源に接続されたIHヒーターと、小型のコンベクションオーブン。機能性を極限まで高めた即席の厨房である。
まな板の上には、深いルビー色をした極上の肉の塊が置かれていた。
信頼する猟師から直接取り寄せた、最高級のエゾシカ肉の背肉だ。
「野生の獣を捌くのは、実に手際が重要です。余計な雑味を残さないよう、下処理がすべてを決めますから」
清太郎は淡々と鹿肉の下処理をこなしていく。その尋常ならざる手際に、ヒロインたちはこれから訪れる『狩り』への静かな予感と緊張感を共有していた。
彼はエゾシカ肉の表面に、エキストラバージンオリーブオイル、フレッシュなローズマリー、そして潰したニンニクを優しく擦り込み、素早くマリネする。
熱した厚手のフライパンに肉を滑らせる。
ジュワッ、という激しい音が地下室の冷たい空気を震わせ、芳ばしい脂の香りが一気に広がった。
六面すべてに完璧な焼き色をつけた後、清太郎は肉をフライパンから引き上げ、低温に設定したオーブンへと移す。芯温計を突き刺し、中心温度が五十八度という絶対的な閾値に達するまで、ミリ単位の火入れを行う。
その間に、肉を焼いたフライパンに残った旨味の詰まった脂に、少量の赤ワインとカシスリキュールを注ぎ込む。アルコールを一気に飛ばし、フォンドボーを加えてゆっくりと煮詰めていく。果実の酸味と深いコクが混ざり合った、濃厚なソースの香りが地下室のインクと紙の匂いを完全に塗り替えていった。
「……信じられないわね。これから殺し屋の集団が攻めてこようって時に、こんな本格的なジビエの匂いを嗅ぐことになるなんて」
朋美が、美しいシルクの着物の袖を僅かに押さえながら、妖艶なため息をついた。
「腹が減っては戦はできぬ、って言うでしょ? 私は最高の気分だけど」
真矢がタクティカルバトンの伸縮をカシャンと確かめながら、獰猛な笑みを浮かべる。
「できましたよ」
オーブンから取り出され、数分間休ませて肉汁を落ち着かせたエゾシカ肉に、清太郎の柳刃包丁が滑らかに沈み込んでいく。
断面は、一切の火の入りすぎがない、見事なまでの均一なルビー色に染まっていた。純白の皿に盛り付けられ、艶やかなカシスのソースが添えられた極上の鹿肉のローストが、七人の前に並べられた。
クロエがフォークで一切れ口に運ぶ。
その瞬間、彼女の青い瞳が鋭く細められた。
「……悔しいけれど、私の大嫌いな野蛮な肉料理とは程遠いわね。繊維の隅々まで計算され尽くしたような、気味の悪い柔らかさ。さすがは『完璧な下処理』の経理様だわ」
「カシスの甘酸っぱいソースが、お肉の野性味を完璧にコントロールしているわね。……ねえ高野くん、これ、血の巡りが良くなるわ。まるで、これからの『狩り』を前に、極上の獲物を値踏みしているような気分よ」
奈央子は深紅のルージュを引いた唇を艶やかに釣り上げ、妖艶な笑みを浮かべた。
温かな肉が腑に落ちると同時に、彼女たちの瞳の奥に、再び冷徹な光が戻っていく。
古い紙の匂いが澱む地下室に、ジビエの香りと、静かに磨かれるバトンの金属音が混ざり合う。誰一人として言葉は発しないが、その沈黙こそが、これから始まる『狩り』への静かな予感と結束を、何よりも強く物語っていた。
全員が皿を空にした、まさにその直後だった。
『……エリート様。来たわ』
モニターを凝視していたクロエの声が、一段階低く、研ぎ澄まされたものに変わった。
画面に映し出された本社ビルの地下駐車場の監視カメラ映像。
そこに、窓ガラスを真っ黒にスモークした数台の大型バンが、音もなく滑り込んでくるのが見えた。
車両から降りてきたのは、黒いタクティカルギアに身を包み、サブマシンガンや特殊警棒で重武装した、二十名近い屈強な男たちの集団。
先頭を歩くのは、顔の左半分にケロイドの傷跡を持つ、大柄ながらも猫のようにしなやかな体躯の男だった。防弾仕様のタクティカルベストを纏い、手にしたサブマシンガンの重みを全く感じさせないその立ち姿からは、硝煙と死線を幾度も潜り抜けてきた本物の『猟犬』の冷気が漂っている。
男は無言のまま、地下室の鉄扉に向けて冷酷な手信号を送った。
彼らの動きには一切の無駄がなく、完全に訓練された戦闘プロフェッショナルのそれだった。
「……さて、お迎えが来たようですね」
清太郎は包丁を静かに布巾で拭い、いつもの温和な、しかし一切の温度を持たない微笑みを浮かべた。
暗闇に包まれた地下室の入り口へと、静かに視線を向ける。
「不協和音の元を断つ時間です。……1円のズレも残さず、綺麗に精算けましょう」




