第40話 側近たちの壊滅
遮光ブラインドの向こうで、東京の空が夕闇に沈んでいく。
高野清太郎のマンションのリビングには、張り詰めた神経を静かに解きほぐすような、包丁の規則正しい音と出汁の香りが漂っていた。
大黒社長の企業弁護士団を法理でねじ伏せ、特捜部とマスコミへの告発という次なる一手の仕込みを終えた彼女たちを労うための、ささやかな夕食の準備が進められている。
清太郎はアイランドキッチンのシンクに立ち、ボウルに張った薄い塩水の中で、大ぶりの牡蠣を優しく振り洗いしていた。
ひだの間に残る僅かな汚れや、特有の生臭さを、身を傷つけないように指の腹で丁寧に落としていく。数回水を替え、完全に澄んだ状態になったところで流水でサッと流し、厚手のキッチンペーパーで一つずつ、徹底的に水分を吸い取る。ここで表面に僅かでも水分を残せば、炒める際に油が激しく跳ね、旨味が水っぽく流出してしまうからだ。
水気を拭き取った牡蠣に、薄く均一に片栗粉をはたく。加熱による身の縮みを防ぎ、海のミルクと呼ばれる濃厚な旨味を内部に封じ込める。
隣のコンロでは、カボチャの煮付けがすでに火を止められ、静かに余熱で味を含ませている。
一つ一つ丁寧に面取りされたカボチャは、一切煮崩れることなく美しい角を保ち、昆布と血合い抜きの鰹節で引いた一番出汁、それに少量の薄口醤油と本みりんの黄金色の煮汁をたっぷりと吸い込んでいた。
まな板の上では、三日間特製のタレに漬け込み、低温でじっくりと焼き上げられた自家製の焼豚が、均一な厚さに切り出されていく。包丁の重みだけを利用したスライスは、断面の美しい脂の艶を保ったままだ。
清太郎は、よく熱した鉄のフライパンに、油ではなく大さじ二杯のマヨネーズを絞り出した。
熱が加わることでマヨネーズが静かに分離を始める。酢の酸味が熱で飛び、卵黄の濃厚なコクと良質な油分だけがフライパンの底に残る。そこへ、薄切りにしたタマネギと、石づきを落として丁寧にほぐしたエノキを投入した。
タマネギの縁が透き通り、エノキがマヨネーズのコクを吸ってしんなりとした絶妙なタイミングで、片栗粉を纏った牡蠣を並べ入れる。
ジュワッという激しい音と共に、マヨネーズの焦げる暴力的なまでに香ばしい匂いがキッチンに爆発した。
牡蠣の表面がカリッと黄金色に焼け、中心までふっくらと火が通ったその一瞬の閾値を見極め、最後にざく切りにした春菊をわさっと放り込む。
鍋を煽る回数は、最小限の二回だけ。春菊には余熱でサッと火を通すのみに留める。青々とした香りと特有のほろ苦さが、マヨネーズの濃厚なコクと牡蠣の旨味を引き締めるアクセントとなる。
隣の小鍋では、タマネギの甘みを極限まで引き出した、みそ汁がふわりと穏やかな湯気を立てていた。
「お待たせしました」
大理石のダイニングテーブルに、温かい料理が並べられる。
徹夜の激闘を終え、仮眠を取っていたクロエやフレイヤ、そして真矢、久美子、朋美、奈央子という、清太郎の陣営のすべての「駒」が揃っていた。
奈央子が箸をつけ、牡蠣と春菊を一緒に口に運ぶ。その切れ長の瞳が、微かに見開かれた。
「……見事ね。マヨネーズの強いコクがあるのに、春菊の苦味が全体を驚くほど上品にまとめているわ。カボチャの煮付けも、料亭顔負けの出汁の含み具合ね」
「銀座の料理長たちも、この腕前には舌を巻くでしょうね」
朋美も、柔和な微笑みを浮かべて焼豚を味わいながら同調した。
「どれほど高度な法理も、証拠という素材の鮮度が落ちていれば使い物にならないわ。完璧な下処理に感謝するわ、高野くん」
奈央子の言葉に、清太郎は安物のスーツの袖を僅かに引き上げ、みそ汁を静かに啜った。
「腹を満たしている間にも、時計の針は進みます。……特捜部と、マスコミへの『撒き餌』は完了しましたか」
「ええ。完璧よ」
奈央子は深紅のルージュを引いた唇の端を、冷酷に釣り上げた。
「会社側が雇った企業弁護士団が『違法収集証拠』だと言い張る前に、彼ら自身が武藤専務に指示した『証拠隠滅教唆』の事実を、特捜部の担当検事に直接ねじ込んだわ。私が特捜にいた頃の、最も出世欲の強い厄介な後輩にね。彼なら、この巨大な手柄に必ず飛びつく」
「同時に、大手メディアの社会部デスク三社に対して、ゼニス・パートナーズのダミー口座の資金の流れと、武藤専務の証拠隠滅の瞬間を捉えた映像データを匿名で一斉リークしたわ。送信元はもちろん、追跡不可能な海外の多重プロキシ経由よ」
クロエが、エノキをフォークで巻き取りながら不敵に笑う。
「銀座の夜で築き上げた彼らの強固な人脈なんて、己の保身の前ではひどく脆いものね」
朋美が静かにグラスを傾けた。
「法と世論。そして権力という暴力」
清太郎は箸を置き、穏やかな、しかし冷徹な響きを持つ声で告げた。
「大黒社長の側近たちは、これまでその三つを操ることで絶対的な安全圏にいると錯覚していました。ならば、同じ手段で彼らの足元を切り崩すまでです。西田先生が用意してくださった完璧な法理の方程式の前に、彼らの欲の痕跡はあまりにも無防備でした。……明日の朝には、盤上の景色が一変しているでしょう」
★★★★★★★★★★★
翌朝。午前六時。
都内の高級タワーマンションの地下駐車場。無機質なコンクリートの空間に、張り詰めたような冷気が漂っていた。
帝都物産の専務取締役であり、大黒の最側近として政界工作を裏で取り仕切ってきた武藤は、周囲を極度に警戒しながら自身の黒いハイヤーに乗り込もうとしていた。手には、パスポートと外貨の詰まったジュラルミンケースが固く握られている。
前日の「第三者委員会」の公開ヒアリング。
そこで奈央子から突きつけられた、証拠隠滅の現行犯としての決定的な物証。フラッシュの豪雨と怒号に包まれ、武藤はあの日、報道陣の目から逃れるようにして裏口から這々の体でこのマンションへと逃げ帰った。
そこからは地獄だった。会社側が雇った最高峰の企業弁護士団が、西田奈央子というたった一人の女の前に完全敗北したという事実。昨夜から、彼のスマートフォンには大黒社長からの着信が狂ったように入り続けていたが、すべて無視していた。出れば最後、すべての罪を被せられ、トカゲの尻尾として切り捨てられるのは明白だった。
(大黒のタヌキめ。冗談じゃない。俺がいなければ、あの男は政治家とのパイプ一つ繋げないただの神輿のくせに!)
海外への逃亡。特捜部が本格的に動く前に、日本の司法が及ばない国へ飛び、ほとぼりが冷めるのを待つ。それしか道はなかった。
しかし、彼が震える手でハイヤーのドアハンドルに手をかけた瞬間。
「武藤専務ですね」
背後から、低く硬い声が響いた。
振り返ると、コンクリートの柱の影から、地味なスーツを着た数人の男たちが音もなく立ち塞がっていた。
先頭に立っていたのは、仕立ての安価な、しかしシワ一つなくプレスされたグレーのスーツを着た男だった。まだ三十代前半と思しき若さながら、細フレームの眼鏡の奥にある瞳は、出世という獲物を決して逃さない若き猟犬のそれだった。
「東京地検特捜部です」
男は、若さに似合わぬ低く硬い声で、武藤の耳元を貫くように告げた。
「特別背任、および証拠隠滅の容疑で、お話を伺いたい。任意同行をお願いします」
「な、なんの権限があって……! 私は帝都物産の専務だぞ! 弁護士を呼べ!」
武藤はひきつった声を上げ、無様に後ずさりしたが、捜査員たちは一歩も引かなかった。先頭に立つ若き検事が、薄く冷ややかな笑みを口元に浮かべながら、一枚の書類を突きつける。
「あなたの弁護士団からですよ。昨日の公開の場での醜い擦り付け合いに留まらず、あなたが独断で貸金庫の証拠を隠滅しようとしたと、我々に正式な通報まで完了していたのは」
「……は?」
武藤の顔から、すべての血の気が引いた。
大黒のみならず、絶対の味方であるはずの弁護士団までもが、証拠隠滅教唆という自身の罪を逃れるために、武藤という「手足」を完全に特捜部に売り渡したのだ。奈央子が仕掛けた完璧な法的トラップは、権力者たちの連帯という名の脆い幻想を、疑心暗鬼によって内側から崩壊させていた。
「ご同行を。それと、お手持ちのケースも確認させていただきます」
冷酷な宣告と共に、武藤の両脇が屈強な捜査員によって固められた。彼が長年かけて築き上げた権力と裏のネットワークが、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
同時刻。
帝都物産本社、最上階の社長室。
大黒龍太郎は、広大なマホガニーのデスクの前で、糸が切れた操り人形のように革張りの椅子に沈み込んでいた。
壁掛けの大型モニターには、朝のニュース番組が映し出されている。
『――速報です。東京地検特捜部は先ほど、帝都物産の武藤専務ら複数の役員に対し、特別背任などの疑いで任意同行を求めました。また、同社の不正な裏金工作について、決定的な証拠映像が各報道機関に……』
「……馬鹿な。嘘だ。こんなことが……」
大黒の肥満体は小刻みに震え、べっとりと浮いた脂汗が二重顎から滴り落ちている。
社内の根回しを担っていた武藤が特捜部に連行され、政界工作を担っていた他の側近たちも、マスコミの同時多発的な一斉報道によって次々と連絡を絶っていた。彼らが火の粉を恐れ、大黒という泥船から一目散に逃げ出しているのは明白だった。
大黒の手駒となっていたフィクサーたちは、一夜にして一網打尽にされたのだ。
残されたのは、巨大な社長室に取り残された、手足をもがれた無能な王ただ一人。
画面に映る無惨なニュース映像を、マンションのリビングで静かに見つめていた清太郎は、急須から厚手の湯呑みへと、美しい琥珀色の液体を注いだ。
石川県産の加賀棒茶。
湯呑みから立ち上る、深く香ばしい焙煎の香りが、夜のリビングに静かに広がっていく。
清太郎は湯呑みを手に取り、窓の外に広がる東京の夜景を静かに見下ろしながら、温かい液体を一口喉へと滑らせた。
「『王手』には、まだ少し距離がありますね」
清太郎は静かに微笑んだ。
「ですが、手足を失った王は、合法的な盤面で戦うことを諦め、なりふり構わぬ牙を剥くでしょう。追い詰められた猛獣がどのような暴走を始めるか……ここからが本当の瀬戸際です」
棒茶を一口含む。焙煎特有の微かな甘みと深い余韻が、静かに喉の奥へと染み渡っていった。
手足を失った大黒が最後に縋るであろう「見えない闇」の存在を、清太郎の眼差しはすでに冷徹に見据えていた。




