第44話 過去の亡霊と、飴色の凝縮
スプリンクラーの散水が完全に停止し、硝煙と埃の匂いが古い紙のカビ臭さと混ざり合う帝都物産本社ビル・地下二階。
第8資料管理室には、重く冷え切った静寂が降りていた。
大黒龍太郎社長が放った傭兵部隊との壮絶な防衛戦から、数時間が経過していた。急造の要塞と化したそのコンクリート剥き出しの空間で、極限の死闘を潜り抜けたヒロインたちは泥のような休息の底に沈んでいる。
壁際に寄せられたスチールラックの陰で、傷だらけのレザージャケットを丸めて枕にした真矢が、浅い寝息を立てている。その隣では美鈴が持参した寝袋にくるまり、破壊された備品の破片が散らばる床の上で穏やかな寝顔を見せていた。
かろうじて無事だった四面のハイエンドモニターの前では、世界最高峰の二つの頭脳――クロエとフレイヤが、並べたワークチェアに深く身を預け、腕を組んだまま硬直したように眠っている。
容赦のない暴力とデジタルの猛攻を退けた彼女たちの身体と精神は、すでに限界をとうに超えていた。
その澱んだ静寂の中、部屋の最奥に設けられた狭い簡易給湯室から、かすかな金属音と熱気が漏れ出していた。
持ち込んだIHヒーターの前に立つ高野清太郎は、徹夜での激闘を終えたばかりとは思えないほど、完璧に整えられた身嗜みのまま佇んでいた。安物のスーツという表現では到底括れない、彼の骨格に吸い付くようなシルエット。衣服には微かな乱れもなく、ネクタイの結び目も美しく均整を保っている。
彼が静かに、そしてひたすらに向き合っているのは、厚手のホーロー鍋だった。
まな板の上に山のように積まれていた薄切りの玉ねぎは、すでにすべて鍋の中に収まっている。少量の無塩バターを溶かし、ごく弱い熱でじっくりと炒め続けること数時間。清太郎の右腕は、一定の正確なリズムで木べらを動かし続けていた。
少しでも温度が高ければ焦げて苦味が出る。かといって弱すぎれば水分が飛ばない。鍋底から玉ねぎを返し、焦がさず、ひたすらに摩擦と熱を与え続ける。膨大な時間をかけ、玉ねぎの持つ水分を極限まで飛ばしていく。
鍋いっぱいにあった真っ白な玉ねぎの山は、今や元の体積の十分の一以下にまで縮み、純粋な甘みと旨味だけが凝縮された濃密な「飴色」のペーストへと変貌を遂げていた。
そこへ、あらかじめ引いておいた琥珀色のコンソメスープを静かに注ぎ込む。ジュワッという微かな音と共に、焦がしバターと玉ねぎの極限まで高められた甘い香りが、湯気となって給湯室の無機質な空気を満たした。
「……ミャァ」
足元で、空気を震わせるような愛らしい鳴き声がした。
視線を落とすと、避難時に清太郎がキャリーケースに入れて共に運び込んでいた黒猫のルカが、尻尾をピンと立てて革靴にすり寄ってきている。昨夜の激闘の間は安全な奥のロッカーに隔離されていたルカだが、危険が完全に去ったことを野生の勘で察知したのだろう。
「おはようございます、ルカ。あなたにも、昨夜のささやかな戦勝祝いを用意してありますよ」
清太郎は火を極弱火に落とすと、クーラーボックスから小さなプラスチックの容器を取り出した。
中に収められているのは、清太郎が特製した『猫用寿司』だ。シャリに見立てているのは、丁寧に茹でて細かくほぐし、少量の猫用ミルクでしっとりと固めた鶏のササミ。その上には、人間が食べるレベルの極上の真鯛と、脂の少ない赤身のマグロが、ルカの一口サイズに合わせてミリ単位で薄く切り付けられ、美しく乗せられている。
床に置かれた簡易な紙皿に移してやると、ルカは目を輝かせて駆け寄り、小さな鼻をヒクヒクと動かして匂いを嗅いだ。そして、歓喜に満ちた「ニャッ!」という短い声を上げると、夢中になって鯛の寿司に齧り付いた。小さな牙が新鮮な白身を噛み切り、喉をゴロゴロと鳴らしながら無我夢中で食べている。
その愛らしい様子を静かに見下ろしながら、清太郎は完成したオニオンスープを味見用のスプーンですくい、ゆっくりと口に運んだ。
……雑味は一切ない。玉ねぎという単一の素材が持つポテンシャルが、極限まで引き出された深く純粋な旨味。
清太郎は、温かなスープを喉に滑らせながら、給湯室の入り口から地下室の全景へとゆっくりと視線を移した。
そこには、壁一面を埋め尽くすようにそびえ立つ、天井に届くほどの巨大なスチールラックが連なっている。監査部による破棄を免れ、物理封鎖されたこの要塞の中に眠る、帝都物産の『過去十年分』の決裁書と領収書の原本。
その膨大なキングファイルの山が、澱んだ空気の中で墓標のように静かに彼を見下ろしていた。
★★★★★★★★★★★
同時刻。帝都物産本社ビル、最上階。
広大な社長室は、かつてないほどの濃密な死臭に似た空気に支配されていたが、大黒龍太郎の眼に宿る光は消えていなかった。否、追い詰められたことで、彼という人間が持つ醜悪な生存本能が完全に目を覚ましていた。
大黒は荒い呼吸を繰り返し、重厚なマホガニーのデスクに突いた両の拳を小刻みに震わせていた。額を濡らす不快な汗を拭おうともせず、その濁った双眸には、どん底からでも這い上がろうとする執念深い光が野卑に燃え盛っている。
乱暴な手つきで固定電話の受話器を掴み、長年巨額の政治献金を受け取っている与党の重鎮へと直通の番号を叩く。
「……ああ、私だ。大黒だ。朝早くからすまないね、先生」
大黒の濁った声は、先ほどまでの激怒から一転し、卑屈なほどに悲痛な響きを帯びていた。
『ニュースは見たぞ、大黒くん。武藤専務が特捜部に持っていかれたそうじゃないか。君の会社はどうなっているんだ』
「お恥ずかしい限りです。まさか、私が最も信頼していた武藤が、あのような裏金工作に手を染め、あろうことか私に隠れて証拠隠滅まで図っていたとは……。私は、彼の甘言に完全に騙されていた被害者なのです」
大黒は、引きつった頬に歪な笑みを貼り付けながら、澱みなく嘘を吐いた。
「会社を私物化しようとする一部の反乱分子が、私を陥れるために武藤と結託したのでしょう。先生、どうか警察上層部へのお口添えをお願いしたい。私はあくまで、部下の暴走に巻き込まれた経営トップとして、この事態の収束に全力を尽くす所存です。……ええ、もちろん、次の選挙の『応援』は、これまで以上の規模でお約束いたしますよ」
電話を切り、大黒はふう、と荒い息を吐き出した。
続いて、息のかかった大手メディアの幹部への連絡を指示するため、震える指で内線を叩く。
「広報部長を出せ! 今すぐだ! ……特捜部の動きを『武藤専務の単独の背任事件』として大々的に報道させろ。私が騙されていた悲劇の社長であるというストーリーラインを、全メディアに徹底して流し込むんだ!」
怒鳴り散らして受話器を叩きつけると、大黒は再びデスクに深く身を預けた。
武藤という最も有能な手足を失った。企業弁護士団にも見捨てられた。彼が放った暗殺部隊も、たかが地下の資料室で消息を絶った。
だが、まだ終わっていない。手足など、金と権力さえあればまた生やせばいい。この自分が社長の椅子に座っている限り、帝都物産は己のものだ。
大黒の執念。それは、自身の権力の正当性に対する異常なまでの執着だった。
十年前。彼は当時の先代社長から実権を奪い取るための「クーデター」を仕掛け、見事にこの椅子をもぎ取った。血の滲むような社内政治と、冷酷な裏工作の果てに手に入れたこの絶対的な玉座を、たかが経理部の若造ごときに奪われてたまるものか。
大黒は引き出しから常備している強い精神安定剤を取り出すと、水も飲まずに数錠まとめて口の中に放り込んだ。
★★★★★★★★★★★
「……良い匂いですわね。五臓六腑に染み渡りそうですわ」
冷え切った第8資料管理室の奥深く。
少し着崩した絹の着物姿の西川朋美が、気怠げな足取りで給湯室へと近づいてきた。彼女もまた、銀座でのハニートラップの立ち回りや、その後の特捜部介入による情報整理で一睡もしていない。
「おはようございます、西川さん。少しは休まれましたか」
「少しだけですわ。この年齢になりますと、徹夜のダメージが抜けるのにお時間がかかってしまいますもの」
朋美は大人の余裕を感じさせるふわりとした微笑みを浮かべ、清太郎が差し出した温かいオニオンスープの入った紙コップを受け取った。一口含むと、彼女の疲労の色が濃い瞳が、驚きに僅かに見開かれた。
「美味しい……。玉ねぎの甘みが、恐ろしいほど凝縮されていますわね」
「無駄な水分を徹底的に飛ばした結果です。少しでも焦がせば全てが台無しになる、非常に神経を使う作業ですが」
清太郎の言葉に、朋美は紙コップを両手で包み込みながら、鋭い視線を彼に向けた。
「料理のお話だけではありませんのでしょう? ……大黒社長は、まだ倒れてはいらっしゃらないようですわね」
「ええ」
清太郎は、自身のコップを手にしたまま静かに頷いた。
「特捜部の動きや、今朝のニュースの論調を総合するに、彼は武藤専務をはじめとする側近たちにすべての罪を擦り付け、自身は『騙されていた被害者』という安全圏に逃げ込もうとしています。彼の政治家や警察上層部への根回しの力は、まだ完全には削がれていない」
その声に反応したのか、パイプ椅子で仮眠を取っていた久美子や、デスクに突っ伏していたクロエたちも、次々と重い身体を起こし始めた。
「しぶといタヌキ親父ね……。あれだけ物理的な証拠を突きつけられて、まだ自分が助かると思ってるの?」
クロエが、充血した目を擦りながら不機嫌そうに呟く。
「権力者とはそういうものです。彼らにとって社長の椅子とは、自己の存在意義そのもの。それを守るためなら、どんな醜悪な嘘でも平然と吐ける」
清太郎は、給湯室から歩み出て、壁際にそびえ立つスチールラックへと視線を向けた。古い紙特有の乾いた匂いが漂う、帝都物産の歴史そのもの。
「現在の不正の枝葉をいくら切り落としても、彼の権力の根を絶たなければ、大黒は必ず蘇ります。トカゲの尻尾切りを許せば、彼は数年後に再び新たな手足を作り、同じように会社を食い物にするでしょう。我々が討つべきは、彼が会社を私物化し始めた『原点』です」
清太郎は静かに歩を進め、一番奥の棚に収められた分厚いキングファイル群の前に立った。
そこにあるのは、薄汚れ、インデックスの端が変色した古い決裁書の束。背表紙には『2016年度・海外特別事業統括本部』と記されている。
「10年前……。大黒が、先代社長を追い落として社長の座に就いた、あのクーデターの年」
久美子が、息を呑むような声で呟いた。
「はい。彼が自らの手で数字を弄り、権力を強奪した最初の記録です」
清太郎は、無造作にファイルの束を一つ引き抜くと、自身のデスクに広げた。
ここにあるのは、帝都物産の過去十年分の『数字の歴史』。デジタルデータが存在しない、あるいは意図的に改ざんされた過去の深淵。残されているのは、人間が手作業で残したインクの染みと、不完全な計算式だけだ。
「彼が会社を私物化し始めた、その最初の嘘を暴きます。どれほど巧妙に隠蔽されていようと、人間が手作業で数字を弄ったがゆえに、そこには必ず不自然な端数の矛盾が残されているはずですから」
清太郎は静かに微笑み、一番古いファイルの表紙に、その長く美しい指先を伸ばした。




