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領収書、拝見します。〜左遷された天才経理の裏帳簿ハンティング〜  作者: 伊達ジン


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第37話 法理のメスと、完璧な下ごしらえ

 遮光カーテンがリモコン操作で静かに両開きになると、東京の摩天楼の向こうから、鋭く澄み切った朝日がリビングに射し込んだ。


 無機質で冷ややかな空間に、光の帯が真っ直ぐに伸びる。

 キャットタワーの最上段のハンモックで丸まっていた黒猫のルカが、その光を瞼に感じて小さく身じろぎした。眩しそうに半開きの目を開けると、短い四肢を限界までピンと伸ばし、背中を弓なりに反らせて全身で大きな伸びをする。「ミャァ」と高い声で欠伸をしてピンク色の舌を覗かせると、キャットタワーを軽やかな足取りでトテトテと降り、日向の最も暖かいフローリングの場所へ直行した。ゴロンと仰向けに転がり、前足で顔を丁寧に洗い始める。

 極度の緊張感に包まれた部屋の中で、その無防備で愛らしい仕草だけが、唯一の柔らかな時間を刻んでいた。


 しかし、リビングのダイニングテーブルを囲む人間たちの空気は、まだ昨夜の濃密な夜の闇を引きずったままだった。


『大黒は暗証番号すら知らない。裏金の出し入れも、与党幹事長へのルート作りも、すべて俺の頭の中にしかない。俺がいなければ、あの男は明日にも特捜部に連行される身だ』


 テーブルの中央に置かれたスピーカーから、低く濁った男の声が再生されている。

 帝都物産の専務取締役・武藤。大黒社長の最側近であり、政界とのパイプ役を担う男の決定的な自白だった。具体的な銀行名、特別貸金庫の番号。彼がひた隠しにしてきたアナログの要塞の扉が、銀座のサロン『ル・リアン』でのハニートラップによって、ついにこじ開けられたのだ。


「これでチェックメイトね」


 徹夜でノイズの除去と音声の暗号化を終えたクロエ・マクスウェルが、満足げにコーヒーカップを傾けた。彼女の青い瞳には、巨大な壁を乗り越えた者特有の確信が宿っていた。


「このデータを匿名で特捜部か主要メディアに流せば、大黒も武藤も一巻の終わりよ。証拠の隠し場所まで具体的に喋ってるんだから、警察も動かざるを得ないわ」

「ええ。デジタルの壁に守られていないオジサンたちなんて、少し揺さぶればこんなものね」


 フレイヤ・ヨンスドッティルも、ソファの上で脚を組みながら小悪魔的な笑みを浮かべた。


 だが、その軽口に冷水を浴びせたのは、傍らのカッシーナの革張りチェアに深く腰掛けていた西田奈央子だった。


「……素人はこれだから困るわ」


 彼女は深くため息をつき、深紅のルージュを引いた唇に冷笑を浮かべた。完璧に仕立てられたボルドーのタイトスーツが、彼女の息を呑むほどグラマラスなプロポーションと、法曹界を生き抜いてきた冷酷な威圧感を際立たせている。


「なによ」


 クロエが鋭く反応する。


「データとしては優秀でも、証拠としては最悪だと言っているのよ」


 奈央子は長い指で自身のこめかみを軽く叩いた。


「あなたたちは、法廷という場所をただの真実の発表会だと勘違いしている。いいこと? 大黒が雇っているのは、国内最高峰の企業防衛専門の弁護士団よ。彼らは間違いなく『違法収集証拠排除法則』を盾にして、この音声を無効化してくる」

「違法収集……?」

「相手の同意のない秘密録音。しかも、色仕掛けという不当な誘導を用いて引き出した発言。裁判長が証拠能力を否定すれば、この自白は法廷には存在しない『ただのノイズ』になる。特捜部に匿名で送りつけたところで、証拠能力のないデータでは令状は下りないわ」


 クロエが反論しようと身を乗り出す。


「でも、事実を喋ってるのよ! 貸金庫の中を調べれば裏金はあるはずじゃない!」

「事実はどうでもいいの。法廷で『真実』と認定されるかどうかが全てなのよ」


 奈央子の氷のような声が、クロエの言葉を切り捨てた。


「むしろ、不正アクセスと盗聴まがいの行為の事実をもって、彼らは逆にあなたたちをプライバシー侵害と名誉毀損で訴え、完全に破滅させるシナリオを組んでくる。相手の土俵でまともに撃ち合えば、確実にこちらが蜂の巣になるわ」


 リビングに、重苦しい沈黙が降りた。

 絶対的な武器だと信じていた弾丸が、撃つ前に暴発する危険性を孕んでいるという事実。


 その緊迫した空気を切り裂くように、一定のリズムを刻む小気味よい包丁の音が、キッチンから響いた。


「大黒社長の息がかかった警察権力すら、令状の不備を突いて追い返した西田先生の言葉です。重く受け止めるべきでしょう」


 高野清太郎は、アイランドキッチンで美しい柳刃包丁を握っていた。

 彼の前にあるまな板の上には、丸々と太った立派なトラフグが横たわっている。


「……高野くん。あなた、フグなんて捌けるの?」


 久美子が目を丸くして尋ねた。


「経理部時代に、接待先の料亭の原価率と仕入れルートの妥当性を自ら検証するため、調理師免許を取得しました。会社の数字を正しく読むには、現場の工程を知るのが最も合理的ですから」


 清太郎は表情を変えずに淡々と答え、再び手元に視線を落とした。


 その包丁捌きは、狂気すら感じるほど冷徹で緻密だった。

 表面のぬめりを取り除き、皮を剥ぎ取る。そして、猛毒のテトロドトキシンを含む眼球、エラ、内臓を、筋肉組織に一切の傷をつけることなく完璧に分離していく。特に、劇毒の塊である肝臓や卵巣を取り外す際は、少しの液漏れすら許さないミリ単位の正確さで刃先を滑らせ、専用の金属バットへと確実に隔離した。

 流水で血合いを完全に洗い流し、水分を拭き取る。毒を取り除かれ、純粋な旨味だけを残した身欠きは、まるで透き通るような白さを誇っていた。


 清太郎は包丁を置き、布巾でゆっくりと手を拭いながら奈央子の方を向いた。


「どれほど強力な武器も、扱い方を間違えれば自らを滅ぼす毒になる」


 清太郎の双眸が、射抜くような冷ややかな光を帯びる。


「録音データという生々しい毒をそのまま持ち込めば、我々が死ぬ。だからこそ……法の専門家による、完璧な『毒抜き』をお願いします」


 その言葉に、奈央子の切れ長の瞳が僅かに見開かれ、やがて、彼女の口元に凄絶な笑みが広がった。


「……生意気な男ね。でも、嫌いじゃないわ」


 奈央子はソファから立ち上がり、手元のタブレット端末を起動した。


「いいわ。法廷という舞台で、奴らを合法的に解体してあげる」


 彼女の指先が、画面上で猛烈な速度で踊り始める。


「この録音データを、直接の証拠にはしない。武藤の首を絞める『ロープ』ではなく、彼自身に貸金庫を開けさせる『誘導線』に変換するのよ」

「誘導線……?」


 クロエが眉をひそめる。


「そう。大黒の弁護士団が『違法な録音だから無効だ』と反論してくる。そこまでは読めるわね? だからこそ、あえて彼らにそう主張させるのよ」


 奈央子の目が、狩りを行う肉食獣のように鋭く輝いた。


「私たちはまず、この録音データの一部を伏せた状態で、武藤個人に対して民事での『証拠保全手続き』を申し立てる。当然、大黒の弁護士団は違法収集証拠を盾に猛反発し、データの無効化に全力を注ぐ。彼らの意識が『録音データの排除』に集中しているその隙に……」


 奈央子はタブレットの画面をスワイプし、清太郎に見せた。

 そこに構築されていたのは、相手の反論、時間稼ぎ、そして裁判官の心理までも完全に計算し尽くされた、二重三重の法的トラップだった。


「武藤が録音データの無効化に成功し、安心した瞬間に、彼自身の行動を誘発する。人間は、自分の秘密が漏れかけた時、必ずその秘密が無事かどうかを物理的に確認したくなる生き物よ」

「なるほど」


 清太郎が静かに微笑んだ。


「彼が自らの手で、貸金庫を開ける瞬間を狙うと」

「ええ。その瞬間を、特捜部に『別の合法的なルート』からタレ込んで現行犯として押さえさせる。大黒の弁護士団が録音データの無効化に躍起になっている間に、私たちは彼らの背後から本丸を直接叩くのよ」


 奈央子の構築したシナリオは、ただ法律の知識を羅列したものではなかった。

 人間の心理の盲点を突き、相手の強みである『優秀な弁護士団』を、逆に相手の視界を塞ぐ煙幕として利用する、極めて冷酷で洗練されたリーガルマインドの結晶だった。


「完璧な下ごしらえだわ」


 クロエが息を吐き、モニターに向き直った。


「特捜部へのタレ込みのタイミングと、監視カメラの掌握は私に任せて。武藤が動く瞬間を、秒単位で特定する」

「お願いします。……さあ、極上のトラフグの薄造りを用意しましょう。毒を完全に抜いた、勝利の味を堪能するために」


 清太郎が透き通るようなフグの身に再び刃を当てた時、マンションの窓の外では、東京の街が完全に夜明けを迎えていた。

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