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領収書、拝見します。〜左遷された天才経理の裏帳簿ハンティング〜  作者: 伊達ジン


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第36話 香水の残り香と、次なる標的の露見

 深夜二時。銀座の喧騒は完全に引き、街は冷たい静寂に沈んでいた。


 表通りの華やかさから切り離された裏路地。看板の照明が落とされた完全会員制サロン『ル・リアン』の奥深く、厚い防音扉に守られたVIPルームのさらに裏手にある従業員用のバックヤード兼プライベートキッチン。

 営業を終えたばかりのその空間に、豪奢なフロアとは対照的な、鋭く研ぎ澄まされた緊張感が漂っていた。


 ステンレス製の無機質な調理台の上に置かれたICレコーダーから、低く濁った男の声が再生されている。


『……大黒は暗証番号すら知らない。裏金の出し入れも、与党幹事長へのルート作りも、すべて俺の頭の中にしかない。俺がいなければ、あの男は明日にも特捜部に連行される身だ』


 大黒龍太郎社長の最側近であり、政財界のパイプ役を担う専務取締役、武藤の自白。決してデジタルデバイスを持たず、密室での口頭のみで裏取引を行ってきた男の、致命的な肉声だった。


「見事な手際でした。彼のような警戒心の強い男が、まさか自ら貸金庫の番号まで口にしようとは」


 高野清太郎は、音声の再生を止めながら静かに口を開いた。安物のネイビースーツであったが、バンの中で数時間を過ごした後であっても、彼の佇まいからは端正な緊張感が失われていなかった。


「酒と香水、そして適度な自尊心のくすぐりよ。男が最も無防備になる瞬間なんて、何百年も前から変わっていないわ」


 西川朋美は、銀鼠色のシルクの着物の袖を優雅に合わせながら、艶やかな唇に余裕の笑みを浮かべた。


「音声データだけじゃないわ。彼、私と話している間、しきりに手元のマドラーの先でこのコースターをなぞっていたの。無意識の癖ね。……何か読み取れるかしら?」


 朋美の細い指先が、一枚の紙製コースターを清太郎の前に滑らせた。

 清太郎の視線が、コースターの表面に落とされる。

 そこにはインクの跡はない。だが、硬いマドラーの先端で無意識に押し付けられた微かな凹凸が、照明の角度によって幾つかの数字の羅列として浮かび上がっていた。


『201204』

『0815』


 その無機質な数字の並びを見た瞬間、清太郎の脳内で特異な共感覚が静かに起動した。

 無造作に書き殴られた数字の凹みが、清太郎の視界の中で鮮やかな色彩を帯びる。それは、彼がこれまでに地下二階の第8資料管理室で読み込んできた膨大な決裁書のデータと、猛烈な速度でリンクしていく感覚だった。カビ臭い地下室の書棚に眠っていた過去十年分の経費精算記録、海外送金ログ、ダミー会社の設立記録といったアナログな情報群が、パズルのピースのようにカチリカチリとはまり込み、ひとつの明確な意味を成していく。


「……なるほど。京極信託銀行の丸の内本店地下貸金庫、305番の暗証番号ですね。ですが、これは単なる乱数ではない」


 清太郎の言葉に、調理台の隅でハイエンドのノートPCを開いていたクロエ・マクスウェルの指が止まった。


「どういうこと?」

「『201204』。これは大黒社長が社長就任直後、最初に構築したダミー会社『フロント・グローバル』の設立年月です。そして『0815』は、武藤専務が初めて大黒社長の右腕として大型の裏金工作を成功させた、彼にとっての記念碑的な日付」


 清太郎は、コースターの凹みを指先で正確になぞった。


「彼はこの数字の配列を、自らの忠誠心と権力の源泉として無意識に刷り込まれている。だからこそ、極度の緊張と緩和が交差する場で、手癖として漏れ出た」

「クロエさん。フレイヤさんに通信を。大黒社長周辺の資金洗浄ルートにおけるトランザクションのパスに、この二つの数列をキーとして流し込んでください」

「了解。……フレイヤ、聞こえたわね? 鍵は開いたわよ」


 クロエはインカム越しにマンションで待機しているフレイヤへと指示を飛ばすと、猛烈な速度でキーボードを叩き始めた。青白いモニターの光が、彼女の透き通るような肌を冷ややかに照らす。

 無数の緑色の文字列が滝のように流れ落ち、彼女のブルーの瞳がそれを正確に追尾していく。シンガポールからケイマン諸島を経由し、幾重にも偽装されたダミー口座の迷宮が、たった一つのハッシュキーによって強制的に解錠されていく。


 数秒後、クロエの唇の端が不敵に吊り上がった。


「ビンゴ。これまで完全に独立しているように見えた数百の無意味なダミートランザクションが、この数列をハッシュキーにした途端、一本の線に繋がったわ。終着点は……武藤が自白した通り、与党幹事長の政治資金管理団体の裏口座よ」

「これで、大黒社長の首を絞めるロープが編み上がりました」


 清太郎はPCの画面から視線を外し、キッチンを見渡した。


「朋美さん。厨房を少しお借りしてもよろしいですか? 優れた情報を提供していただいた協力者には、それに見合うだけの慰労を差し上げるのが私の流儀ですので」

「……あら。私の舌は、銀座のどの客よりも肥えているわよ?」


 朋美は面白そうに目を細め、カウンターの丸椅子に腰を下ろした。


 清太郎はジャケットを脱いでハンガーにかけ、シャツの袖を美しく捲り上げた。無駄のない滑らかな手つきで冷蔵庫から食材を手早く取り出すと、複数の調理をミリ単位の精度で同時に進行させ始めた。


 まず、小鍋に水を張り、最高級の利尻昆布を沈めて極弱火にかける。水面が微かに揺れる程度の温度を厳密に保ち、昆布の旨味だけをゆっくりと抽出していく。沸騰させてしまえば雑味が出る。そのギリギリの温度帯を彼は視覚と僅かな音だけで見極めていた。

 その傍らで、ボウルに氷水を張り、手でちぎった無農薬のレタスを沈める。細胞に水分を吸わせて極限までシャキッとさせるための工程だ。フルーツトマトは湯剥きして口当たりを滑らかにし、キュウリは塩揉みをして青臭さを完全に抜く。それらを水気を徹底的に切ってからボウルで合わせ、上質なエキストラバージンオリーブオイルと白ワインビネガー、少量の海塩のみで作ったヴィネグレットソースで手早く和えた。乳化されたソースが、野菜一つ一つを美しく均一にコーティングしていく。


 次に、厚手の鉄のフライパンを強火で熱する。

 薄切りの黒豚バラ肉を投入し、良質な脂が溶け出して表面がカリッとした瞬間に、下茹でしておいた菜の花を放り込んだ。ジュワッという激しい音と共に、豚の脂の暴力的な香りと菜の花のほろ苦い青い香りが混ざり合い、キッチンの空気を一気に塗り替える。鍋を煽る回数は最小限に留め、素材の旨味を逃さない。塩と少量の日本酒だけで味を調え、菜の花の食感が完璧に保たれる絶妙なタイミングで火から下ろした。


「……流れるようね。プロの料理人でも、そこまで淀みない動きはそうそう見られないわ」


 朋美は腕を組み、清太郎の背中を感嘆の眼差しで見つめていた。


 清太郎は無言のまま、先ほどの昆布出汁から昆布を取り出し、血合い抜きの本枯れ節をふわりと落とした。十秒後、静かに濾す。黄金色に輝く、一切の雑味がない完璧な一番出汁が完成した。

 その一部を別の小鍋に取り分け、薄口醤油と塩で味を調え、沖縄県産の洗いもずくを落とした。もずくの繊細な食感を損なわないよう、火を通すのはほんの一瞬に留める。


 最後に、メインの仕上げに取り掛かる。

 事前に昆布締めにされていた真鯛のサクを、柳刃包丁で透き通るような薄造りにしていく。摩擦熱を極限まで抑えた流麗な刃筋は、鯛の繊維を一切潰すことなく、美しい切り口を見せている。

 炊きたての白いご飯を茶碗に盛り、その上に鯛の薄造りを花びらのように美しく並べた。自家製の濃厚な胡麻ダレを回しかけ、三つ葉と極細の針海苔を天盛りにする。


「お待たせいたしました」


 カウンターに並べられたのは、菜の花と豚肉の炒め物、完璧に下処理されたサラダ、もずくの吸い物、そしてメインの鯛茶漬け。深夜のバックヤードに、料亭顔負けの品が揃った。


 朋美はまず、もずくの吸い物に口をつけた。

 その瞬間、彼女の細い眉が僅かに上がった。


「……驚いたわ。出汁の輪郭が、信じられないほどくっきりしている。もずくの磯の香りを引き立てながら、全く邪魔をしていない」


 次に、菜の花と豚肉の炒め物を箸でつまむ。


「豚の強い脂を、菜の花の苦味が完璧に中和しているわ。火入れも絶妙。野菜の歯ごたえがしっかりと生きている」


 そして彼女は、鯛茶漬けの椀に、熱々の極上の一番出汁をゆっくりと注ぎ込んだ。

 出汁の熱で、半透明だった鯛の身がふわりと白く霜降り状に変化していく。胡麻ダレの香ばしい匂いと一番出汁の香りが爆発的に立ち昇った。

 朋美は一口味わい、そして静かに箸を置いた。


「……降参よ。銀座の最高級料亭の味を知り尽くしているつもりだったけれど、深夜のこの時間に、これほど五臓六腑に染み渡る味は出せないわ。一切の妥協も、誤魔化しもない。あなたの仕事そのものね」

「恐縮です」


 清太郎は静かに一礼し、自身もクロエと共に遅い夜食に箸を伸ばした。


 食事が終わり、清太郎がペーパーフィルターで丁寧にドリップしたブルーマウンテンが三人の前に置かれた。83度という厳密な温度管理で抽出されたコーヒーは、食後の余韻を一切壊さない、澄み切った酸味と深いコクを持っていた。


「数字の狂いを正すあなたの覚悟、しかと見届けたわ」


 朋美はボーンチャイナのカップを優雅に傾けながら、冷徹な女主人としての顔に戻った。


「武藤が落ちた今、大黒社長は手足を失ったも同然よ。でも、あのタヌキは保身のためなら会社ごと燃やすことも厭わない。私が持つ政財界のネットワーク、好きに使いなさい。あなたの強力なスポンサー兼、情報源になってあげる」

「心強いお言葉です。朋美さん」


 清太郎はコーヒーを一口飲み、薄暗いバックヤードの壁の向こう――見えない敵が君臨する帝都物産の本社ビルへと、静かに視線を向けた。

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