↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
領収書、拝見します。〜左遷された天才経理の裏帳簿ハンティング〜  作者: 伊達ジン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/51

第35話 極秘の密室と、絹のハニートラップ

 深夜の銀座8丁目。表通りの眩いネオンと人々の華やかな喧騒から一本路地に入っただけで、空気はひんやりとした重さを帯びる。行き交う人の絶えた雑居ビルが肩を寄せ合うように立ち並ぶ裏手の暗がりに、エンジンを切った黒いバンが周囲の闇に完全に溶け込むようにひっそりと停まっていた。




 窓を完全に塞がれた後部座席は、所狭しと詰め込まれた電子機材で埋め尽くされている。何台ものモニターが放つ青白い光が、車内の無機質な空間を冷ややかに照らし出していた。


 クロエ・マクスウェルは、ノイズキャンセリング機能のついた無骨なヘッドホンを首元までずり下げ、忌々しげに深く息を吐き出した。




「……信じられないわ。ロンドンなら博物館行きのポンコツ機材よ、これ。電波の高度な暗号化もクソもない、ただのアナログな集音マイクを物理的に仕掛けるだなんて」




 彼女の透き通るような白い肌に、モニターの光が反射している。世界最高峰のハッキング技術を持ち、常に最先端のサイバー空間を主戦場としてきた彼女にとって、物理的な潜入と旧式のアナログ機器に頼る泥臭い手段は、己のプライドを逆撫でされるようなものだった。




「デジタルデバイスを一切持ち込まない相手には、最も古典的で物理的なアプローチが有効に機能します。それに、これしきのノイズ処理ならあなたの腕で十分でしょう」




 傍らの簡易シートに腰掛けた高野清太郎は、保温ボトルから紙コップに注いだほうじ茶をゆっくりと口に運んだ。香ばしく焙じられた茶葉の匂いが、機械の排熱と埃の入り混じった車内に微かに広がり、奇妙な安らぎをもたらす。狭い車内での窮屈な待機を強いられてもなお、彼の佇まいからは品格と端正な緊張感が失われていなかった。




「もうすぐポイントに到達する。エリートさん、クロエ、ここから先は衣擦れの音すらノイズになるから息を潜めて」




 インカムから、菊池真矢の掠れた、しかし芯のある声が届いた。


 彼女は現在、完全会員制高級サロン『ル・リアン』の奥にあるVIPルームの直上、空調ダクトの中を這い進んでいる。漆黒のタクティカルウェアに身を包んだ彼女の動きには、微かな摩擦音すら生じない。元スタントウーマンとして鍛え上げられた卓越した身体コントロールが、わずか数十センチ四方の埃っぽい暗所において、完璧な無音の移動を実現していた。




 真矢はダクトの換気口の隙間から、極小のファイバースコープを慎重に差し込み、真下の光景を確認する。


 そこは分厚い防音扉に守られた豪奢な個室だった。深いボルドー色のベルベットが張られた高級ソファに深く腰を沈めているのは、大黒社長の最側近であり、政界とのパイプ役を担う専務取締役の武藤だ。


 仕立ての良さが一目でわかるダークグレーの高級スーツを、いささか肥満気味の肉体に隙なく纏っている。オールバックに撫で付けられた白髪と、すべてを見下すような傲慢な眼差し。その肉厚な指にはめられた大きなエメラルドの指輪が、彼が手にしたクリスタルグラスが揺れるたびに鈍い光を放ち、長年裏社会で培ってきた絶対的な権力と富を無言で誇示していた。


 武藤の対面には、白髪が目立つ初老の男――政界との裏取引を仲介する大物フィクサーが、紫煙を燻らせながら油断のない姿勢で座っている。




 真矢は手袋越しに極小の集音マイクを取り出し、換気口のルーバーの裏側に粘着テープで確実に固定した。




『セット完了。電波拾える?』


「ええ、クリアよ」




 クロエが素早くキーボードを叩き、周波数を合わせる。バンの中に、武藤たちのくぐもった、しかし確かな声が流れ始めた。




『……例の件ですが、あそこにはもう話を通してあります』


『ああ。いつものルートで、数字だけは合わせておいてくれ。先生も首を長くしてお待ちだ』


『抜かりはありません。社長の耳に入れる前に、私がすべて処理します』




 スピーカーから聞こえてくるのは、主語も目的語も巧妙にぼかされた会話だけだった。具体的な金額も、隠し口座の名称も、大物政治家の固有名詞も一切出てこない。武藤は長年、証拠を一つも残さずに裏社会の濁流を泳ぎ渡ってきた男だ。強固な防音室での密談であろうと、決して不用意な単語を口にするような真似はしない。




「これじゃ証拠にならないわ。法廷に持ち込んでも、いくらでも解釈を変えて言い逃れされる」




 クロエが苛立たしげにブロンドの前髪を掻き上げた。


 だが、清太郎の表情は変わらない。彼はただ、手元の腕時計の秒針が刻む一定のリズムを、冷徹な目で追っていた。




「ええ。彼らは自分が絶対に隙を見せない、賢明な人間だと思い込んでいる。だからこそ、その強固な自尊心が最大の『脆弱性』になるのです。……さあ、彼女の仕事が始まりますよ」




 清太郎が呟いた直後、スピーカーから、分厚いマホガニーの扉が音もなく開く気配が伝わってきた。




『失礼いたします、武藤様』




 上質な絹が擦れ合う、柔らかく美しい音。


 西川朋美が、洗練された銀鼠色の着物姿でVIPルームへと足を踏み入れた。その手には、年代物のロマネ・コンティのボトルと、美しく磨き上げられたバカラのグラスが二つ、シルクを敷いたトレイに乗せられている。




『ママか。……誰も入れるなと言ったはずだが』




 武藤の低くドスを効かせた声に、鋭い警戒の色が混じる。空気が一瞬にして張り詰めた。




『申し訳ございません。ですが、武藤様にとっておきの一本が手に入りましたので。他のお客様の目につく前にお持ちいたしました。抜栓だけ済ませて、すぐに下がりますわ』




 朋美の声音は、どこまでも従順で、甘く、そして相手を絶対的な上位者として立てる響きを持っていた。ソムリエナイフが滑らかにコルクを捉え、一切の摩擦音を立てずに引き抜かれる。芳醇にして複雑なワインの香りが、室内の重苦しい空気を一瞬で塗り替えていくのが、マイク越しの僅かな空気の揺らぎからでも伝わってくるようだった。




 朋美はグラスに濃艶なルビー色の液体を注ぎながら、武藤の武勇伝や、彼がいかに周囲から恐れられ、同時に頼りにされているかを語らせていった。決して過剰にならない、絶妙な間合いの相槌。


 直接、核心を尋ねるような野暮な真似は絶対にしない。「さすがですね」「武藤様がいらっしゃらなければ、到底成し遂げられないことですわ」と、相手の承認欲求の最も痒いところを、上質な絹のハンカチで優しく撫でるように刺激していく。


 その瞳の奥にある冷徹な観察眼は、武藤の呼吸、筋肉の弛緩、声のトーンの変化をミリ単位で見極めていた。




 数十分が経過した頃、武藤の口調が明らかに滑らかになっていた。最高級のアルコールと、自らの権力を絶対的なものとして肯定され続けたことによる万能感が、彼の分厚い理性の鎧を内側から溶かしていた。




『……社長は豪快に見えて、実は臆病なところがあってね。最終的な泥を被る覚悟がない。結局、この私が自ら手を汚してやらなければ、会社は回らんのさ』


『本当に……。大黒社長も安心でしょうね。武藤専務のような方が、あの「貸金庫」の鍵を握ってくださっているなら』




 朋美の声は、武藤の耳元で甘く、そして極めて冷ややかに計算されたトーンで囁かれた。


 それは、武藤の自尊心を限界まで膨張させる、決定的な一言だった。自分が大黒社長すら支配し、帝都物産の裏の心臓部を完全に握っているという事実。それをこの美しく賢い女主人の前で証明したいという強烈な欲望が、彼の残された警戒心を完全に食い破った。




『はっ……当然だ。丸の内の京極信託銀行。地下の特別貸金庫、305番だ。大黒は暗証番号すら知らない。裏金の出し入れも、与党幹事長へのルート作りも、すべて俺の頭の中にしかない。俺がいなければ、あの男は明日にも特捜部に連行される身だ』




 具体的な銀行名、貸金庫の番号、そして大物政治家の役職。


 これまで決して口に出さなかった致命的な情報が、堰を切ったように武藤の口から溢れ出した。アナログの極致とも言える「肉声」による自白。




 バンの中で、クロエが息を呑み、猛烈な勢いでエンターキーを叩いて録音データをローカルストレージとクラウドの二重領域に保存した。緑色のインジケーターが明滅し、処理の完了を知らせる。




「……嘘でしょ。あのタヌキ親父が、洗いざらい喋ったわ」


「数字の改ざんには限界がありますが、人間の承認欲求には底がありません。彼女は、相手に自分が支配者であると錯覚させながら、実際には相手の思考を完全にコントロールしているのです」




 清太郎はほうじ茶の紙コップを置き、穏やかに微笑んだ。




★★★★★★★★★★★




 数日後の昼下がり。


 都内の外資系高級ホテルの45階にある、景色を一望できるフレンチレストラン。




 窓際の特等席で、清太郎は西田奈央子と向かい合っていた。


 巨大なガラス窓の向こうには、澄み切った青空と東京の摩天楼がどこまでも広がっている。


 シャンパングラスを優雅に傾ける彼女の所作には、周囲の客が思わず息を呑むような大人の色気と、隙のない冷徹な知性が同居していた。表向きは、平日の昼間から優雅なランチを楽しむ男女のデートだ。


 運ばれてきたのは、オマール海老のローストに、甲殻類の濃厚な旨味を凝縮したアメリケーヌソースを添えた一皿だった。立ち上る芳醇な香りが、二人の間の僅かな緊張感を包み込む。




「素晴らしい録音データだったわ。銀座のママの腕前、大したものね」




 奈央子はナイフを入れる手を止めず、周囲に聞こえないトーンで囁いた。深紅のルージュが、魅惑的な弧を描く。




「証拠としては十分ですか」


「法廷での証拠能力としてはグレーラインね。同意のない秘密録音だから。西園寺クラスの弁護士が出てくれば、証拠能力を争われて長期戦になるわ」




 奈央子はオマール海老を一口味わい、ふわりと微笑んだ。




「でも、特捜部の連中の鼻先にぶら下げる『餌』としては最高級よ。彼らは確証さえあれば、令状を取って丸の内の貸金庫を開けられる。中身と、あの録音データの事実関係が一致すれば、武藤は一発で終わるわ」


「大黒社長までは届きませんか」




 清太郎の平坦な問いに、奈央子はグラスの縁を指でなぞった。




「武藤がすべてを被る可能性が高いわね。それが彼の役割だから。……大黒を引き摺り下ろすには、この録音データを単なる証拠として使うのではなく、彼らの疑心暗鬼を煽る『弾丸』に加工する必要があるわ。武藤が大黒を裏切るように仕向けるのよ」




 奈央子の切れ長の瞳が、愉悦に細められた。法というルールを熟知しているからこそ、そのルールの外側で人間を絡め取る盤面を描くことができる。




「いいわ。私がこの音声を、逃げ場のない罠に仕立て上げてあげる。……でも、私のコンサル料は高いわよ? 高野くん」


「私の給料の範囲内で収まることを祈りますよ。窓際部署の身ですので」




 清太郎は一切の動揺を見せず、自身の皿のソースをバゲットで拭い、口に運んだ。


 その完璧なポーカーフェイスの奥で、大黒と武藤を確実に破滅させるための、次なる法的抹殺の方程式が、音もなく組み上がり始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。