第38話 特捜部の影と、踊らされる権力
極度の緊張を強いる徹夜の作業明け。高野清太郎のマンションのリビングには、張り詰めた神経を静かに解きほぐすような、かすかな金属音と油の爆ぜる音が響いていた。
アイランドキッチンに立つ清太郎の安物のスーツには、今日も一切のシワがない。使い込まれた鉄の中華鍋が、白い煙を上げる直前まで熱せられている。
多めの白絞油を回し入れ、油を馴染ませた後、ボウルで溶きほぐしておいた卵を一気に流し込む。卵が油を吸って大きく膨らんだその瞬間、完璧に平らにして冷凍保存されていた白米を投下した。
カンッ、カンッ、と中華鍋がコンロに当たるリズミカルな金属音が響く。清太郎の腕の動きには一切の無駄がなく、お玉の背で米粒を切るようにほぐしながら、卵の油分で米の一粒一粒をコーティングしていく。
米がパラパラと宙を舞い始めたところで、寸分の狂いもなく切り揃えられた自家製の叉焼と長ネギを投入。そして、鍋肌に沿ってナンプラーと少量の酒を回し入れた。ジュワッという激しい音と共に、魚醤特有の熟成された旨味と焦げた醤油の香りが混ざり合った、強烈なエスニックの香りがキッチンに爆発する。
手早く煽られ、黄金色に輝く炒飯が純白の皿へと滑り落ちる。隣のコンロでは、熱湯とごま油によって完璧なきつね色のクリスピー状に焼き上げられた市販のチルド餃子が皿に並べられ、最後に氷水で細胞を蘇らせた一昨日の残りのサラダが、ガラスのボウルに美しく高く盛り付けられた。
「……本当に、呆れるわ。ただの余り物と安物の餃子が、どうやったらそんな高級中華みたいな匂いになるのよ」
四面のハイエンドモニターの前で徹夜していたクロエ・マクスウェルが、スパイスの暴力的な香りに抗えなくなったようにワークチェアから立ち上がった。彼女の透き通るような白い肌には極度の疲労が滲んでいたが、その青い瞳には、清太郎の異常な完璧主義に対する呆れと、屈折した賞賛の光が宿っている。
清太郎はクロエの言葉に表情を変えることなく、無言でダイニングテーブルに皿を並べた。
黄金色の炒飯を一口運べば、フレッシュなパクチーの鮮烈な香りが食欲を強制的に引きずり出す。パリッと焼き上がった餃子の肉汁が、徹夜明けの彼女たちの身体に深く染み渡っていった。
食後、清太郎は湯呑みに熱い棒茶を注ぎ、クロエと、隣で静かに箸を置いていた真矢の前に置いた。
一番茶の茎だけを浅く焙じたそのお茶は、澄み切った琥珀色をしており、華やかで香ばしい香りが脳の疲労を静かに洗い流していく。
清太郎が自らも棒茶を一口飲んだ時、クロエのデスクに置かれたタブレット端末が、短い通知音を鳴らした。
「出たわよ。西田先生の『撒き餌』が」
クロエが画面をスワイプし、今朝の経済紙の電子版をメインモニターに投影する。
一面ではない。経済面の片隅、コラム欄の隣に配置された小さな観測記事。しかし、そこには目を引く見出しが躍っていた。
『大手商社帝都物産、政界への不透明な資金工作の疑い。丸の内の貸金庫に裏金のプールか』
記事の執筆者は、経済部のエースとして知られる敏腕記者。西田奈央子が、特捜部時代のコネクションを最大限に利用し、絶妙な情報量だけを意図的にリークした結果だった。
貸金庫の番号こそ伏せられているものの、当事者が見れば一発で心臓を鷲掴みにされる、致命的なキーワードが精緻に散りばめられている。
「ねえ、エリートさん。これだけで足りるの?」
真矢が棒茶の湯呑みを手にしたまま、モニターを見上げて眉をひそめた。
「作戦通りとはいえ、これで本当にあのタヌキ親父たちが動くの? 相手は百戦錬磨のフィクサーよ。慎重に様子を見る可能性はない?」
「ええ。彼らが賢明であれば、嵐が過ぎるのを待つでしょう」
清太郎は静かな声で答えた。
「しかし、彼らは今、見えない『影』に怯えています。自分たちの足元のどこまで火が回っているか分からない状態こそが、最も冷静な判断力を狂わせるのです。大黒社長ほど己の権力と保身に執着する人間であれば、なおさらです」
★★★★★★★★★★★
同時刻。帝都物産本社ビル、最上階の社長室。
「どういうことだ、武藤ッ!!」
大黒龍太郎社長の怒声が、重厚なオーク材の扉を震わせた。
肥満体の巨躯は怒りと恐怖で赤黒く染まり、太い指で朝刊の紙面をバンバンと乱暴に叩きつけている。
「わ、私ではありません! 私は誰にも……あの貸金庫の件は、私とあなたしか知らないはずです!」
最側近であるはずの専務取締役、武藤の顔には血の気がなく、スーツの背中は脂汗でびっしょりと濡れていた。
長年、大黒の影として汚れ仕事を引き受け、デジタルには一切の痕跡を残さないという完璧なアナログの防壁を築いてきた自負があった。それなのに、なぜ。銀座での密談か。あるいは別のルートか。見えない敵の存在が、彼の心臓を冷たい手で鷲掴みにしていた。
「言い訳などどうでもいい! 特捜が動いている兆候だ。実名まで出ている以上、ただの飛ばし記事で終わるはずがない!」
大黒はデスクの上の電話機をひったくるように掴み、鋭い目で武藤を睨みつけた。
「企業防衛の弁護士団を呼べ。もし特捜が踏み込んできた場合、すべては武藤、お前の単独犯行というシナリオで動く。私に累は及ばせん」
「しゃ、社長……! そん、な……!」
「それからだ」
大黒は武藤の絶望を一蹴し、血走った目で凄んだ。
「今すぐ丸の内に行け。特捜が差し押さえに来る前に、あの貸金庫を空にしろ。物理的な証拠さえなければ、どんな観測記事もただの紙屑だ。奴らは動けん!」
切り捨てられる恐怖と、特捜部への恐怖。二つの巨大なプレッシャーに挟まれた武藤は、もはや反論する気力すら奪われ、ただ操り人形のように首を縦に振ることしかできなかった。
★★★★★★★★★★★
「ビンゴよ」
清太郎のマンションのリビングで、クロエの青い瞳が鋭く光った。
彼女のモニターには、帝都物産の役員室から特定の法律事務所へ発信された通信ログと、武藤専務の端末から京極信託銀行のシステムへアクセスされた記録が、無機質な文字列として滝のように流れ落ちていた。
「大黒のタヌキ親父、企業防衛専門の弁護士団に緊急のスクランブルをかけたわ。それと同時に、武藤のスケジュールに『京極信託銀行・特別貸金庫室』の入室予約が入った。時間は……今から三十分後」
「相手が権力者であればあるほど、自身の足元が脅かされた時の反応は驚くほど単調です」
清太郎は時計を一瞥し、インカムのスイッチを入れた。
「真矢さん。ターゲットが動きました。そちらの状況は?」
『……配置についてるわ』
インカム越しに、微かな地下駐車場の反響音が聞こえる。
地下駐車場特有のガソリンと排気ガスの匂いが漂う中、真矢は清掃用ワゴンのモップを無造作に動かしながら、気配を完全に周囲のコンクリートと同化させていた。元スタントウーマンとしての呼吸法が、極度の緊張下でも心拍数を一定に保っている。彼女の深く被った帽子の下で、鋭い視線が地下ゲートの入り口をロックオンしていた。
『ターゲットの車両が地下ゲートを通過した。後部座席に武藤本人を確認。……随分と顔色が悪いわね』
真矢の低く冷静な声。
数分後。
地下金庫室から戻ってきた武藤は、周囲を極度に警戒しながら、自身の黒いハイヤーのトランクに重そうなジュラルミンケースを押し込んでいた。その手は微かに震え、額には大粒の汗が浮かんでいる。何度も後ろを振り返り、誰かに尾行されていないかを確認するその姿は、大企業の専務取締役としての威厳など微塵も残っていなかった。
真矢は清掃用ワゴンの陰から、その一連の動作を、ワゴンの取っ手に仕込んだ超小型の高解像度カメラで完璧に記録していた。武藤の焦燥しきった顔、ジュラルミンケースの特徴、そして車のナンバー。すべてが、逃れられないデジタルデータとしてクロエのサーバーへリアルタイムで転送されていく。
『物理的証拠の移動の瞬間、確保したわ』
真矢からの報告に、クロエがエンターキーを静かに叩いて保存処理を完了させた。
「見事な手際です」
清太郎がインカム越しに告げると、背後で優雅なピンヒールの足音が響いた。
「ふふ、私の可愛い小鳥ちゃんたち。随分と楽しそうね」
いつの間にかリビングに現れていた西田奈央子が、完璧に仕立てられたタイトスーツの腰に手を当て、深紅のルージュを引いた唇に冷酷な笑みを浮かべていた。彼女の纏う高級な香水の香りが、徹夜明けの重い空気を一瞬で塗り替える。
奈央子はクロエの横に立ち、モニターに映し出された武藤の無様な姿を見下ろした。その切れ長の瞳が、罠に掛かった獲物を見届ける冷酷な執行人のように、妖艶な光を宿している。
「見事なまでに私の仕掛けた『誘導線』で踊ってくれたわね。これで、あの優秀な弁護士たちも逃げ道はない。彼らが焦って自発的に証拠を隠滅しようと動いたという厳然たる事実が、彼らの首を完璧に吊り上げてくれるわ」
法曹界という伏魔殿を生き抜いてきた彼女にとって、権力者が己の保身のために見せる無様な姿ほど、極上のエンターテインメントはなかった。
「自らを守るための防衛行動が、法廷において彼ら自身を縛る最も太いロープになったというわけですか」
清太郎は、冷めかけた棒茶を一口飲み、静かに微笑んだ。
「自らの保身のために人間が動くとき、そこには必ず最も純粋な『エラーの数字』が刻まれます。……今回も完璧に、帳尻が合いましたね」
権力者たちがもがけばもがくほど、その足元の沼は深くなっていく。
特捜部の影を利用した、処刑人による完璧な「毒抜き」が完了した瞬間だった。




