第32話 見えない壁と特捜部の影
氷のぶつかる涼やかな音が、深い静寂に包まれたリビングに響いていた。
高野清太郎は、アイランドキッチンの大理石カウンターに置かれた薄張りのグラスの中で、琥珀色の液体をバースプーンでゆっくりとステアしていた。氷の角が滑らかに溶け出し、特有の芳醇な香りが周囲の空気に微かに混ざり合っていく。
「……何なの、その強烈な匂い。バルサミコ酢?」
四面のハイエンドモニターの前で、徹夜明けの充血した目を擦りながらクロエ・マクスウェルが顔をしかめた。彼女の透き通るような白い肌は目に見えて血色を失い、細い肩は極度の疲労で前傾している。その隣では、フレイヤ・ヨンスドッティルもキーボードの上に突っ伏したまま、疲労困憊といった様子で小さく唸り声を上げていた。無数に展開されたウィンドウの放つ青白い光だけが、二人の限界を超えた激闘の痕跡を物語っている。
「沖縄県産のもろみしぼり酢です。泡盛を蒸留した後に残るもろみから抽出されたもので、クエン酸とアミノ酸が極限まで濃縮されています。徹夜で酷使した脳と肉体の疲労物質を分解するには、最も理にかなった液体ですよ」
清太郎はグラスを二人のデスクの傍らに無音で置いた。その横の小皿には、漆黒のブロックのような波照間島産の純黒糖が添えられている。
「こちらの黒糖は、包丁の峰で砕いただけの未精製のもの。混じり気のないミネラルと、脳へダイレクトに届く糖分の結晶です。黒糖を少しかじり、この酢で流し込んでください」
クロエは半信半疑で黒糖の欠片を口に含み、もろみしぼり酢を一口飲んだ。
強烈な酸味が喉を突き抜けた直後、黒糖の深く濃厚な甘みがそれを中和し、全身の細胞が粟立つような鮮烈な感覚が走った。重く沈んでいた頭蓋の奥に、急速に血流が巡り始めるのが分かる。強烈な刺激が、麻痺しかけていた神経を強制的に覚醒させていく。
「……嘘。なにこれ、エナジードリンクより効くわね」
「美味しい……けど、すっぱ……ッ」
フレイヤも目を白黒させながらグラスを傾け、小さく息を吐いた。エメラルドグリーンの瞳に、ようやく少しの生気が戻る。
「それで? 脳に栄養が回ったところで伺いますが、結果はどうでしたか」
清太郎は自身のグラスを手にとり、琥珀色の液体を喉に流し込みながら尋ねた。
その問いに、二人の天才の表情が一瞬にして険しくなった。
昨日の株主総会において、西園寺常務を完全に失脚させることには成功した。しかし、帝都物産の頂点に君臨する大黒龍太郎社長は、瞬時に自身の右腕たる西園寺を切り捨てることで己の身を守り切った。彼を完全に引きずり下ろすため、クロエとフレイヤは昨夜から、大黒と彼を取り巻く政財界のフィクサーたちのネットワークへの侵入を試みていた。
しかし、クロエは忌々しげにキーボードを弾き、重い口を開いた。
「……何もないわ」
「何もない、とは?」
「文字通りよ。大黒の側近たち……特に裏で彼を操っている政財界のフィクサー連中、デジタルデバイスを一切使っていないのよ。スマートフォンはおろか、PCのログイン履歴すら存在しない。彼らの名前で検索をかけても、表向きの公式な会食記録や、当たり障りのないニュース記事しか出てこないわ」
クロエの青い瞳に、苛立ちの影が差していた。
世界最高峰のハッカーである彼女にとって、ファイアウォールの強固さなど問題ではない。国家の軍事機密にすら裏口から忍び込める彼女の技術をもってしても、「ターゲットがデジタル空間に存在しない」という物理的な事実は、その才能を完全に無力化するものだった。線が繋がっていなければ、ハッキングのしようがないのだ。
「私のトラッキングでも同じ結果よ」
フレイヤが、残った黒糖をかじりながら不機嫌そうに同意した。
「大黒の裏金の流れを追おうとしたんだけど、銀行口座間での送金履歴が全くないの。西園寺みたいにタックスヘイブンや暗号資産を使っているなら、いくらでもミキシングの痕跡から引っ張り出せるのに。あいつら、デジタルの帳簿を一つも持っていないわ」
「料亭や高級クラブでの『口頭』による密談。そして、裏金の受け渡しは『現金』の詰まったアタッシュケースか、あるいは絵画や金塊といった『現物』の譲渡のみ、ということですか」
清太郎の確認に、二人は無言で頷いた。
「皮肉なものね。どれだけセキュリティ技術が進歩しようと、一切のデジタルデバイスを持たずに密室で囁き合う老人たちには、どんなハッキングも通用しないなんて。サイバー空間じゃ神様になれる私たちが、ただの紙幣とコソコソ話に負けるなんてね」
クロエは深く息を吐き、モニターから視線を外した。敗北感というよりは、土俵にすら上がらせてもらえない圧倒的な徒労感が彼女を包んでいた。
「権力の頂点に立つ者ほど、形に残るものを恐れます。システムは必ず痕跡を残す。だからこそ彼らは、最後に信じるのは紙幣の重みと、人間の肉声だけだと本能で知っているのでしょう」
清太郎はグラスの氷を揺らし、淡々と分析した。
その時。
清太郎のマンションの玄関から、突如として不穏な音が響いた。
インターホンが鳴らされた直後、応答を待たずにドアの鍵が外側から乱暴に解錠される。カチャリ、という精密な金属音ではない。特殊なマスターキーか、あるいはピッキングツールによる強行突破の荒々しい音だった。
「な、何!?」
フレイヤが弾かれたように立ち上がる。
重いドアが開き、土足のままリビングへと踏み込んできたのは、揃いのダークスーツに身を包んだ数人の男たちだった。彼らの首からは、警察手帳と身分証を下げるストラップが揺れている。その足取りには、令状を持った権力者特有の傲慢さが滲み出ていた。
「警視庁サイバー犯罪対策課だ! 高野清太郎、およびクロエ・マクスウェルだな!」
先頭に立つ、鋭い目つきの捜査員が怒鳴るように告げた。
その手には、一枚の令状が握られている。
「昨日の帝都物産株主総会における、基幹サーバーへの不正アクセス禁止法違反、ならびに威力業務妨害の疑いで、当該住居の家宅捜索、および関連する電子機器の差し押さえを行う!」
捜査員たちは清太郎たちの返答すら待たず、土足のままリビングへと散開し始めた。一人が即座にクロエのデスクへと向かい、稼働中のハイエンドモニターとサーバー群のケーブルを引き抜こうと無遠慮に手を伸ばす。
「ちょっと、触らないで! 違法捜査よ!」
クロエが鋭く叫び、男の腕を払いのけようと身を挺した。彼女にとって、この機材とそこにあるデータは己の命と同義だ。
「公務執行妨害で引っ張るぞ、大人しくしろ!」
男がクロエの細い腕を力任せに押し退けようとした、その瞬間だった。
「ご苦労なことですね」
静寂。
荒々しい怒号が飛び交うリビングの中で、その声だけが奇妙なほどはっきりと、そして一切の温度を持たずに響き渡った。
捜査員たちが一斉に声の主へ視線を向ける。
高野清太郎は、キッチンのカウンターに寄りかかったまま、微動だにしていなかった。彼の端正な表情には驚きも焦りもなく、ただ手元のグラスに残ったもろみしぼり酢を口に運んでいる。その姿は、まるで目の前で起きている暴力的な光景が、テレビの中の三流映画であるかのような現実離れした落ち着きを放っていた。
「……大黒社長も、随分と手回しが早い。昨日の今日で、警察を私兵のように動かすとは」
「口を慎め。我々は適正な手続きに則って――」
「適正な手続き?」
清太郎の言葉を遮るように、玄関の廊下から、ピンヒールの鋭い足音が響いた。
コツ、コツ、コツ。
硬質な大理石の床を叩くその音は、まるで秒針のように正確で、一切の迷いを含んでいなかった。
「その令状で『適正』を騙るなど、法治国家への冒涜ですね」
リビングに姿を現したのは、一人の女性だった。
完璧に仕立てられた、濃紺の高級なタイトスーツ。息を呑むほどグラマラスなプロポーションを包み込むその服は、彼女の妖艶なアジアンビューティーの魅力を一切隠そうとしていない。深紅のルージュを引いた唇には、相手を値踏みするような冷酷な笑みが浮かんでいた。
企業法務専門の敏腕弁護士にして、元・東京地検特捜部検事。
西田奈央子である。
彼女が放つ圧倒的な威圧感と、酸いも甘いも噛み分けた大人の色気に、踏み込んできた捜査員たちの動きが一瞬、完全に停止した。まるで蛇に睨まれた蛙のように、彼らの気勢が不自然に削がれる。
「な、何だあんたは……」
奈央子は先頭の捜査員の前に歩み寄ると、彼が手にしていた令状を、長い指で優雅に、しかし強引に抜き取った。
「西田奈央子。彼らの代理人弁護士です。……さて、どれほど杜撰な作文を持ってきたのか拝見しましょうか」
奈央子の切れ長の瞳が、令状の文面を瞬時にスキャンしていく。
数秒後、彼女は呆れたように鼻で笑い、令状を男の胸に乱暴に突き返した。
「差し押さえるべき物件の記載、『本件に関係する一切の電磁的記録媒体』ですか。ずいぶんと大きく出ましたね。最高裁判例をご存知ない? 差し押さえの対象は、被疑事実と関連性のあるものに特定されなければならない。この包括的な記載では、令状自体の有効性が問われますよ」
「っ……裁判官が発付したものだ! 文句があるなら準抗告でも何でもしろ! 我々は執行するだけだ!」
男が強気に言い返すが、その声には明らかな焦りが混じっていた。
「では、もう一つ伺いましょうか」
奈央子は一歩踏み込み、男を見下ろした。ヒールを履いた彼女の視線は、捜査員のそれと完全に同じ高さにあった。
「昨日の株主総会での不正アクセス。被疑者不詳のまま、プロバイダへの通信ログの開示請求も終わっていないこの短期間で、なぜこの住所と彼らの名前が特定できたのですか?」
「そ、それは……独自の捜査によって――」
「大黒龍太郎からの『推測』と『圧力』だけで、客観的な疎明資料もなく裁判官を急かして令状を取ったのでしょう? 権力の犬の皆さんは、法律の勉強からやり直してはいかがですか」
奈央子の声は低く、しかし底知れぬ冷酷さを孕んでいた。
「通信ログの客観的証拠もない。IPアドレスの特定もできていない。その状態でこの部屋の機材を押収すれば、どうなるか。……違法収集証拠として、公判では一切証拠能力を失いますよ。それどころか、あなた方サイバー犯罪対策課は、大企業の社長の私怨に付き合って違法捜査を行ったとして、国家賠償請求の被告席に座ることになる」
深紅のルージュが、残酷な弧を描いた。
「今ここで、違法収集証拠排除法則のプレテストをしても構いませんが。……覚悟はおありで?」
彼らは顔を見合わせ、舌打ちをすると、乱暴に足音を立てて引き返していった。
「撤収だ!」
玄関のドアが乱暴に閉められ、再びリビングに静寂が戻る。
「……助かったわ。まさか物理的に殴り込んでくるとは思わなかった」
クロエが安堵の息を吐き、デスクの椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。
「相変わらず、ギリギリの綱渡りがお好きなようで」
奈央子は振り返り、キッチンの清太郎に向けて妖艶な微笑みを向けた。
「あなたという完璧な命綱があるからこそです、西田先生。……コーヒーを淹れましょうか。それとも、もろみしぼり酢になさいますか?」
清太郎は一切の動揺を見せることなく、淡々と応じた。
奈央子は小さく肩をすくめ、深紅の唇をより一層美しい弧に歪めて微笑み返した。




