第33話 法と数字の交差点、夜の街への布石
分厚い靴底が廊下の絨毯を踏み荒らす音が、遠くエレベーターホールへと完全に消えていく。
大黒社長の息がかかったサイバー犯罪対策課の捜査員たちがマンションから撤収したのを見届けると、リビングに張り詰めていた強烈な緊張感が、深い安堵の溜息とともに少しずつ氷解していった。
「……危ないところだったわね。本当に助かったわ、西田先生」
山内久美子が、これまで維持していた秘書特有の完璧な姿勢を少しだけ崩し、カッシーナの革張りソファの背もたれに深く寄りかかった。
四面のハイエンドモニターの前で硬直していたクロエ・マクスウェルとフレイヤ・ヨンスドッティルも、ピンと張っていた糸が切れたようにワークチェアへと深く沈み込む。世界最高峰のデジタルの城を築き上げる二つの頭脳であっても、警察権力という物理的な強制捜査の前では無力に等しかった。彼女たちの青白かった顔に、ようやく僅かな血色が戻り始めている。
その極限の緊迫した余韻の中にあっても、オープンキッチンに立つ高野清太郎の所作だけは、数分前と何一つ変わっていなかった。
彼は細口のドリップポットをゆっくりと傾け、ドリッパー内のコーヒーの粉に、極めて細い一本の線を描くように湯を落としている。厳密にコントロールされた湯量の前で、挽きたての粉がふわりと美しいドーム状に膨らみ、深く芳醇な香りが無機質なリビングの空気を満たしていく。
「83度。ブルーマウンテンの酸味と苦味のバランスが、最も均整に保たれる温度です」
清太郎は、マイセンのカップに注がれた琥珀色の液体を、迷いのない滑らかな所作で西田奈央子の前へと差し出した。
「……こんな状況で、完璧な温度管理とはね。久美子の言う通り、肝の据わった男だわ」
奈央子は深紅のルージュが引かれた唇を僅かに歪め、カップの縁に口をつける。切れ長の瞳が、立ち昇る湯気の向こうで清太郎を値踏みするように見つめていた。仕立ての良さが一目でわかる濃紺のタイトスーツが、彼女の息を呑むようなグラマラスなプロポーションを包み込んでいる。
「素晴らしい手際でした、西田先生。令状の瑕疵を瞬時に見抜き、猛り狂う捜査員を法的な論理で完全に制圧する。並の企業弁護士にできることではありません」
「当然よ。相手の手の内と、その裏にある杜撰なシナリオなんて、書類を見ればすぐに透けて見えるもの。それに、あのような横暴な振る舞いを許すわけにはいかないわ」
奈央子はカップをソーサーに戻し、長い脚を優雅に組み替えた。高級な生地が擦れる音が微かに響く。
「東京地検特捜部にいた頃、私は彼を……大黒龍太郎とその背後にいるフィクサーを追っていたわ」
奈央子の声のトーンが、一段低く、冷たく沈んだ。
「あの男が政財界にばら撒いている裏金。その巨大なパイプラインを解明し、証拠も揃え、あとは令状を請求するだけという段階まで追い詰めた。……でも、上層部から突然のストップがかかったわ」
奈央子の瞳の奥に、過去の悔恨と、決して消えることのない暗い炎が揺らいだ。
「特捜部の頭越しに、もっと巨大な政治力が動いたのよ。私の手元からすべての資料が奪われ、チームは解散。数ヶ月後、私は検事のバッジを外すことになった」
その屈辱の重さは、清太郎にも痛いほど理解できた。
「あなたのその異常な数字の嗅覚で、私の法廷を完成させてちょうだい」
奈央子は立ち上がり、清太郎の正面に立った。
「私には、あの男たちが隠蔽している裏金の実態と、それを証明する決定的な数字が必要なの。大黒を合法的に、二度と立ち上がれないように社会から抹殺する。……そのための契約よ」
奈央子が右手を差し出す。
清太郎は迷うことなくその手を取り、力強く握り返した。
「承知いたしました。一円の狂いもなく、完璧な数字をご用意しましょう」
「……とは言ったものの、現状はかなり分が悪いわよ」
クロエが忌々しげに自身のモニターを睨みつけながら口を挟んだ。
「昨日から大黒の側近たちや、彼らが接触していると思われる政財界のネットワークを徹底的に洗っているけれど、何も出てこない。大黒の周辺にいる人間、特に裏金の授受に関わるような重要な密談では、デジタルデバイスを一切使っていないわ。通信記録も、電子的な送金履歴もない。彼らは完全に『アナログ』な手段で金を動かしている」
フレイヤも同意するように頷く。
「料亭や高級クラブでの口頭での密談。裏金の受け渡しも、現金や絵画、金塊といった物理的な現物のみ。デジタル上にデータが存在しない以上、私たちがどれだけネットワークの深層を掘り下げても、証拠の尻尾すら掴めないわ」
「デジタルが通じないなら、人間を使うしかありませんね」
清太郎が淡々と呟いたその時、久美子が意味ありげな微笑みを浮かべ、自身のブランドバッグから一枚の黒い名刺を取り出した。
金色の箔押しでシンプルに『Le Lien』とだけ刻まれた、重厚な紙質の名刺。
「大黒社長の側近や、政財界のフィクサーたちが夜な夜な集まって密談を交わす、絶対的な『聖域』があるの。銀座の完全会員制高級サロンよ」
久美子は名刺をテーブルの中央にそっと置いた。
「一見さんお断り。既存の会員からの紹介がなければ、入ることすらできない最高峰の秘密クラブ。彼らがデジタルデバイスを手放し、酒と色香に酔いしれて本音を漏らす、ただ一つの場所」
清太郎の知的な双眸の奥で、鋭い光が閃いた。
「そこのオーナーママは、私の古くからの友人なの」
久美子はふわりと笑う。
「彼女なら、彼らの口から直接『真実』を引き出せるかもしれないわ」
★★★★★★★★★★★
二時間後。
無機質で静謐な清太郎のマンションから一転、彼らが足を踏み入れたのは、新宿区大久保の路地裏に広がる雑多な屋台村だった。
煌びやかなネオンサインがひしめき合い、様々な言語が飛び交う喧騒。強火で中華鍋を振るう激しい金属音と、大量のスパイスが熱せられて放つ強烈な香りが、むせ返るような熱気となって立ち込めている。すれ違う人々は国籍も年齢もバラバラで、そこかしこで威勢の良い呼び込みの声が上がっていた。
デジタルの通じない世界へ踏み込む前の、ある種の儀式のように、久美子が「たまにはこういう泥臭い空気を吸うのも悪くないでしょ。大黒を追うなら、清濁併せ呑む覚悟が必要よ」と提案したのだ。
「……すごい熱気ね。ロンドンのソーホーより混沌としてるわ。でも、悪くない」
クロエは少し圧倒されたように周囲を見渡しつつ、運ばれてきたジョッキの生ビールを勢いよく煽った。冷たい炭酸が、徹夜明けの身体に染み渡る。
円卓に並べられたのは、国境を越えたアジア料理の数々だ。
タイ料理のヤムウンセンは、ガラスのように透き通った春雨に、唐辛子の鮮烈な辛味とライムの強烈な酸味が絡み合い、新鮮なパクチーの香りが鼻腔を抜けていく。一口食べれば、胃袋の底から食欲が強制的に引きずり出されるようなインパクトがあった。
マレーシア料理のサテは、炭火で香ばしく焼き上げられた鶏肉に、砕いたピーナッツとココナッツミルクの甘く濃厚なソースがたっぷりと塗られており、複数のスパイスが織りなす複雑な余韻が後を引く。
「このサテのソース、ターメリックとコリアンダーの配合が絶妙ですね。ピーナッツの油分をココナッツミルクがまろやかに包み込んで、肉の旨味を完全に引き出している」
清太郎は串から肉を外し、ゆっくりと咀嚼しながら的確な分析を口にした。その安物のスーツは、周囲の喧騒と油煙にまみれても、不思議なほど優雅なシルエットを保っている。彼の手つきには一切の無駄がなく、雑多な屋台のテーブルであっても、高級レストランでフルコースを味わっているかのような気品があった。
「エリートさんは、どこにいても分析を忘れないのね」
フレイヤが笑いながら、熱々の小籠包をレンゲに乗せ、黒酢と千切り生姜を添えて口に運ぶ。薄い皮が破れ、中から溢れ出した濃厚な肉汁に、彼女のエメラルドグリーンの瞳が丸くなった。さらに運ばれてきたスパイスの効いた羊肉の串焼きを手に取ると、彼女は満足げに頬張った。
「で、その『ル・リアン』のママには、もう連絡はついているの?」
奈央子が、常温の紹興酒を小さなグラスで呷りながら久美子に問う。その動作一つをとっても、大人の女の艶やかな魅力が周囲の空気を支配していた。
「ええ。明日の夜、席を一つだけ用意してもらったわ。……でも、彼女はビジネスにはシビアよ。ただの旧友の頼みというだけで、政財界のトップが顧客の店で、危険な橋を渡ってくれる保証はない」
中華鍋で強火で炒められた空心菜のニンニク炒めを小皿に取り分けながら、久美子は声を潜めた。周囲の喧騒が、彼女たちの内緒話を自然な形で覆い隠してくれている。
「一歩間違えれば、彼女自身の店と命を危険に晒すことになる。彼女を味方につけられるかどうかは、高野くん、あなた次第ね」
清太郎は冷えた生ビールで喉を潤し、卓上の喧騒から少しだけ視線を外して、夜の街のネオンを見つめた。
絶対的なアナログの要塞。しかし、そこで人間が酒を飲み、欲望を満たす以上、その活動の裏には必ず何らかの足跡が残るはずだ。
「人間の吐く嘘には、必ず数字との間に矛盾が生じます」
清太郎はグラスを置き、口元に微かな笑みを浮かべた。
「銀座の夜の聖域。……そこで彼らがどのような領収書を切るのか、拝見させてもらいましょう」




