第31話 終わらない株主総会と、権力の反撃
広大なメインバンケットホールは、狂乱の坩堝と化していた。
正面に設置された巨大なスクリーンには、西園寺豪が絶対の安全圏だと信じて疑わなかったタックスヘイブンの口座情報が克明に映し出されている。そして、その残高を示す無機質で冷酷な『0』という数字。30億円という巨額の資金は、すでにフレイヤ・ヨンスドッティルの手によって、追跡不可能なルートで世界中の慈善団体へと強制的にバラ撒かれていた。
「私の……金が……。私の、城が……ッ」
ひな壇の上で、完璧なスリーピーススーツを着こなしていた西園寺は、糸が切れた操り人形のように膝から崩れ落ちた。もはや立ち上がる気力すら失い、うわ言のように同じ言葉を繰り返すばかりだ。これまで彼が冷徹な計算で築き上げてきた鉄壁の論理も、恐怖で部下を支配してきた絶対的な威厳も、たった一つの揺るぎない数字の前に跡形もなく粉砕されていた。
数百人の株主たちからの怒号がホールの天井を激しく震わせ、警備員たちが殺到する報道陣のフラッシュと突き出されるマイクの波を必死に押し留めている。
ひな壇の中央で硬直していた大黒龍太郎社長は、自身の右腕である西園寺が崩れ落ちる様を目の当たりにし、肥満体の巨躯を小刻みに震わせていた。額からはべっとりと脂汗が浮き出し、これまで絶対だと信じていた自身の足元が、音を立てて崩れ去っていくような未知の恐怖に縛り付けられている。
だが、次の瞬間だった。
キィィン、という耳障りなハウリング音が会場に鳴り響いた。
大黒が、目の前のマイクを握りしめて力任せに立ち上がったのだ。
「……西園寺! なんということをしてくれたのだ! 会社と株主を裏切るなど、断じて許されることではない!」
マイクを通した大黒の咆哮が、株主たちの怒号を物理的な音量でねじ伏せた。
彼の赤黒く染まった顔には、先ほどの恐怖は微塵もない。あるのは、己の地位を守り抜こうとする異常なまでの執着と、獰猛な保身の意志だけだった。
「皆様! このような事態を招き、経営トップとして痛恨の極みであります! 西園寺が、単独で会社を食い物にしようとしていたなど……私の不徳の致すところです。直ちに彼を解任し、刑事告発の手続きを進めます!」
会場の空気は、大黒の気迫と力技の演説によって、一時的に別のベクトルへと誘導され始めていた。
最後方の扉付近でその醜悪な茶番を見届けていた高野清太郎は、感情の読めない冷ややかな視線を一度だけ大黒に向けた後、誰にも気づかれることなく、静かに騒乱の会場から姿を消した。
★★★★★★★★★★★
数時間後。
清太郎のマンションのリビングは、先ほどの株主総会の緊迫感が嘘のような、安堵と極度の疲労が入り混じった空気に包まれていた。生活感が徹底的に削ぎ落とされた空間に、今は五人の女性たちの熱気と、微かなアルコールの香りが漂っている。
カッシーナの黒い革張りソファには、黒いフーディ姿のフレイヤと、機能的なレザージャケットを脱いだ菊池真矢が深く沈み込んでいた。ダイニングテーブルでは、クロエ・マクスウェルが空になったマグカップの縁を指でなぞり、その向かいでは、小松美鈴がスポンサーロゴの入ったパーカーの袖を捲り上げて楽しげに足を組んでいる。そこへ、会社から急ぎ抜け出してきた山内久美子が合流し、大仕事を終えた彼女たちは、それぞれに祝杯のグラスを傾けていた。
「いやあ、あの西園寺の顔。傑作だったわね」
フレイヤが小悪魔的な笑みを浮かべて言い、エメラルドグリーンの瞳を細める。
「ええ。デジタルとアナログ、両方の逃げ道を完全に塞がれて、まさにチェックメイトだったわ。……でも、少し胃が痛いわね。三日連続の徹夜とエナジードリンクの過剰摂取は、さすがに堪えるわ」
クロエが疲労の色を隠せずにため息をつくと、真矢もソファの背もたれに頭を預けて天井を仰いだ。
「物理的に金庫を開けて逃げ回るのも骨が折れたけどね。あの追手のプロ兵士たち、本気で殺しに来てたし。美鈴の無茶苦茶な運転のおかげで助かったけど」
「最高のドライブだったでしょ? でも、あのアスファルトの焦げる匂い、しばらく鼻から抜けそうにないわ」
美鈴が屈託なく笑う。
その言葉を待っていたかのように、オープンキッチンから静かな足音が近づいてきた。
清太郎の安物のネイビースーツには、激しい戦いを終えた後でも一切のシワがない。彼は無言で、大きな木製のトレーをダイニングテーブルの中央に置いた。
「極度の緊張状態が続いた後の胃には、まず優しいものを入れるべきです」
そこに並んでいたのは、見事なまでに調和の取れた、家庭的でありながらプロ顔負けの和食の小鉢群だった。
昆布と血合い抜きの鰹節で一番出汁を引き、タマネギの甘みを極限まで引き出した、トロトロの食感のみそ汁。
ふっくらと空気を含ませて握られた、梅干しとチリメン山椒のお握り。三年熟成させた自家製梅干しの丸みのある酸味と、チリメン山椒の甘辛さ、そして実山椒の爽やかな痺れが、米の一粒一粒と完璧に絡み合っている。
隣には、塩昆布とほんの少しの柚子の皮で浅漬けにされた、カブとキュウリの漬け物。細胞が生きているかのようなパリッとした小気味よい食感が残されている。
さらに、冷蔵庫のあまり物で作ったというモズク酢は、生姜の絞り汁を微かに効かせた自家製の三杯酢で和えられ、むせ返らないまろやかな酸味に仕上がっていた。そして、柚子胡椒を隠し味に使い、生臭さを一切感じさせないイカの塩辛。
「……嘘でしょ。エリートさん、本当に何者なの」
真矢がみそ汁を一口すすり、目を丸くした。五臓六腑に染み渡る出汁の深い旨味に、歴戦の潜入調査員である彼女の肩から、スッと力が抜けていく。
「美味しい……。なんだか、悪いものが全部浄化されていくみたい」
美鈴もお握りを頬張りながら、幸せそうに頬を緩めた。
クロエやフレイヤといった外国人たちも、その繊細な味覚の設計に驚きを隠せず、無言で箸を進めている。普段は警戒心の強い彼女たちが、清太郎の提供するものに対しては無防備に受け入れている事実が、これまでの戦いで築かれた強固な信頼を静かに物語っていた。
彼女たちが一息ついたのを見計らい、清太郎は再びキッチンへと戻った。
彼が次に向き合ったのは、まな板の上に置かれた、常温に戻された分厚い牛もも肉の塊だった。
強火で熱した鉄のフライパンに、牛脂を溶かし込む。煙が立つ直前の完璧な温度で肉を投入すると、ジュウゥゥッという強烈な音が弾け、肉の表面が瞬時にキャラメリゼされていく。六面すべてに香ばしい焼き色をつけ、肉汁を完全に閉じ込める。
火から下ろした肉を素早くアルミホイルで二重に包み、さらに厚手の布巾で覆う。ここからは、余熱だけを使った静かな熱伝導の計算だ。
十分な時間が経過した後、清太郎は包みを開き、肉の中心に向かってスッと金串を刺し込んだ。三秒後、金串を引き抜き、その先端を自身の下唇にそっと当てる。金属を通じて伝わる微細な温度変化を、彼は1度の狂いもなく肌で測り取っていた。
「……完璧です」
柳刃包丁が滑るように肉を切り分けると、焦げ色のついた外側から数ミリ内側には、見事なまでに均一な、ルビーのように輝くロゼ色の断面が現れた。血の滴り一つない、芯まで温かな火が通った究極のローストビーフだった。
特製の和風シャリアピンソースが添えられたその皿が、テーブルへと運ばれる。
「表面がどれほど焼け焦げようと、中心の芯の温度さえ完璧にコントロールできていれば、決して肉は死にません」
完璧なロゼ色に仕上がった肉を見下ろしながら、清太郎は静かに呟いた。
「……組織も、人間も同じです。大黒社長は今日、西園寺常務という巨大な表面を切り捨てて焦がすことで、己という『芯』を守り抜きました」
その言葉に、テーブルの空気が僅かに引き締まった。
和食で癒やされていた彼女たちの意識が、再び現実の冷酷な戦場へと引き戻される。
「大黒社長のあの身のこなし。ただの太ったお飾りじゃないわね」
久美子が、ローストビーフを一切れ口に運びながら、秘書課としての鋭い眼差しを取り戻した。
「西園寺常務が失脚した今、大黒社長は会社の全権を完全に掌握したわ。しかも、被害者ヅラをしてね」
その時、リビングの壁掛けテレビから流れていたニュース専門チャンネルの音声が、不意にトーンを変えた。
『――続いてのニュースです。本日午前、都内のホテルで行われていた帝都物産の株主総会において、何者かによる大規模なサイバーテロが発生しました』
「……は?」
クロエの手が止まった。全員の視線が、画面へと注がれる。
『警視庁サイバー犯罪対策課によりますと、正体不明のハッカー集団が帝都物産の基幹サーバーに不正アクセスし、株主総会の進行を妨害。会場のメインスクリーンを乗っ取り、捏造された虚偽のデータを表示させた疑いが持たれています』
画面には、暗転したホテルのバンケットホールと、騒然とする株主たちの映像が流れている。
『また、同社の西園寺常務取締役に対する業務上横領の疑惑についても、このハッカー集団による巧妙なデータ改ざんである可能性が高く、大黒社長は「会社乗っ取りを企むテロ行為には、警察と連携して断固たる措置をとる」との声明を発表しました――』
ニュースのキャスターは、西園寺の横領の事実を「捏造された疑惑」として矮小化し、代わりに「姿なきサイバーテロリストによる企業への攻撃」を、不気味なほど大きく取り上げていた。
「奴ら……私たちを『会社乗っ取りを企むサイバーテロリスト』に仕立て上げる気ね……!」
クロエが怒りでフォークを強く握りしめ、青い瞳に鋭い殺気を宿した。
「私のハッキングを『捏造』だと? ふざけるな。完全に情報操作されているわ」
「メディアだけじゃないわ」
久美子がスマートフォンを操作し、顔をしかめた。
「私の情報網からの連絡よ。警察の上層部がすでに動いているみたい。株主総会での騒動を『威力業務妨害』と『不正アクセス禁止法違反』で立件する方向で、特捜部ではなく、サイバー犯罪対策課が異例のスピードで捜査本部を立ち上げたそうよ。しかも、メディアへの情報統制も完璧に敷かれている」
「……だから言ったでしょう。権力を持つ人間は、不都合な数字を消すために、現実そのものを書き換えるのだと」
清太郎はペリエの入ったグラスを手に取り、静かに傾けた。
その完璧にアイロンがけされたスーツ姿にも、端正なポーカーフェイスにも、一切の動揺はない。彼にとって、大黒が権力を使って反撃してくることなど、最初から計算式に組み込まれた変数に過ぎなかった。
「彼らが警察とメディアという『暴力』を使ってくるのであれば、もはやデジタル空間での戦いだけでは対抗できません」
清太郎の冷たく澄んだ双眸が、画面の中でふんぞり返る大黒社長の姿を射抜く。
「彼らの芯を焼き切るためには、さらなる深淵へと潜る必要があります。……夜の社交界と、法の裏側へ」




